今年は読んだ本についても、1冊1冊ちゃんとレビューを書いて記録にしたいと思っているのだが、もう既に4冊たまってしまった。
でも、逆に言えば、1ヶ月でまだ4冊しか読んでいないのだなぁ。
昔は3日に1冊ペースで読んでいたのだけど。
とりあえず、その4冊のうちの1冊から。
村山由佳『ダブル・ファンタジー』
あとで気付いたのだが、ジョン・レノンのアルバムのタイトルと同じなのだな。
そういえば、作品中にもその話がちょっとだけ出ていた。
私は村山由佳の作品はデビュー作の『天使の卵』から好きで、
小説はほとんど読んできた。
(彼女はエッセイも多いのだけど、私はエッセイというものがあまり好きでないので、読んだことはない)
だから今回も、本屋で「おっ!新作出てるな」という感じで買ったのだが、帯を見て「あれ?」と思った。
彼女は官能小説を書くタイプの作家ではないのだ。
でも、そういう意味のコピーが書かれている。
本を開いてみると、こうだった。
男の臀(しり)とは、どうしてこうも冷たいのだろう。
かなり分厚いボリュームのある本なのだが、かなり性的描写も多い。
まあ、そんなことに興奮するような年でもないので(笑)
さらりと読むが、なんだかこういう作品を書くということが意外だった。
途中まで読んだときに、その作品の内容の優劣ではなく、
彼女がこういう作品を書くということにちょっとがっかりした想いもあった。
「売れるために?」と思ったのだ。
でも、もう本当に終わりかけの、ある文章を読んだときに、そうではないと確信した。
そして、とても感動したので、ここに記しておこうと思う。
フィクションであれノンフィクションであれ、他者に向かって何かを<物語る>という芸当が出来るかどうかは、あくまでも才能の多寡にかかっている。文章は巧いほうがいいが、巧ければいいわけではない。計算はもちろん必要だが、計算だけで書けるものでもない。
傲慢に言い放つようだけれど、書ける人間とそうでない人間とは、くっきりと分かたれているというのが奈津の実感だった。書ける人間はほうっておいても書けるし、書けない人間はだれに何を言われようが書けない。それはもう、残酷なほどだ。
志澤の意見に迎合するわけではないけれど、<書ける>というのはたしかに、恩寵よりも劫罰に近い事柄なのだ。何を見て、何を感じても、言葉に置き換えて物語らずにはいられない――書いてしまうことによって自らが血みどろになるとわかっていても、それでも書かずにはいられないという、呪い。
なんだかこの箇所を読んだときに、ああ……と深いため息がこぼれた。
私ごときがそんなことを言うのはおこがましいとはわかっているのだが、
「わかる」のだ。
私は今、自らが血みどろになることを怖がって、
<物語>を書けなくなっているのだということもよくわかる。
でも、本当は、それでも書かずにはいられない、というのが、本当に書くべき人なのだろうな、と思う。
そして、村上由佳という人は、そうなんだろうと思った。
かなりきわどい姓描写。
いろんな男性の「やり方」を一つ一つリアルに批評している。
女性の側から言えば、たぶんこれは実体験でないと書けないものだ。
でも、これを書くことによって、傷つく人もいるだろうし、作者本人も血みどろになるのだろうと思えた。
だけど、書かずにはおれない。
それが文章の端々に顕れていて、そのことに恐れ入った。
やっぱりすごい作家だなぁと。
そして、村山由佳がいつも言われることだが、
この人の使う日本語の美しさ、ボキャブラリーの豊富さときたら、尋常じゃない。
昔はノートにこの人の文章を写すという作業を繰り返していた。
気に入った文章だけではあるが。
他の現代作家にはない言葉の美しさがある作家なのだ。
(物書き視点かもしれないけれど)
こんなふうに言葉を自由に操れたらどんなにいいだろうかと、憧れた作家でもある。
久しぶりに彼女の作品を読んで、
官能小説みたいな場面が多いことにびっくりはしたけれど、
それでもやっぱり語彙の豊富さ・使い方の正確さ・文章の美しさは健在だなぁと感動した。
ストーリーにはあえて触れないが、
仕事をもつ女性には読んでほしい本かもしれない。
あと、男性経験の豊富な人は「ああ……」と納得できる部分も多いのでは?
私の感想としては、「やっぱり村山由佳ってすごいなぁ」と。
内容云々よりも、そんな漠然とした、でも賞賛の想いだけである。
でも、逆に言えば、1ヶ月でまだ4冊しか読んでいないのだなぁ。
昔は3日に1冊ペースで読んでいたのだけど。
とりあえず、その4冊のうちの1冊から。
村山由佳『ダブル・ファンタジー』
あとで気付いたのだが、ジョン・レノンのアルバムのタイトルと同じなのだな。
そういえば、作品中にもその話がちょっとだけ出ていた。
私は村山由佳の作品はデビュー作の『天使の卵』から好きで、
小説はほとんど読んできた。
(彼女はエッセイも多いのだけど、私はエッセイというものがあまり好きでないので、読んだことはない)
だから今回も、本屋で「おっ!新作出てるな」という感じで買ったのだが、帯を見て「あれ?」と思った。
彼女は官能小説を書くタイプの作家ではないのだ。
でも、そういう意味のコピーが書かれている。
本を開いてみると、こうだった。
男の臀(しり)とは、どうしてこうも冷たいのだろう。
かなり分厚いボリュームのある本なのだが、かなり性的描写も多い。
まあ、そんなことに興奮するような年でもないので(笑)
さらりと読むが、なんだかこういう作品を書くということが意外だった。
途中まで読んだときに、その作品の内容の優劣ではなく、
彼女がこういう作品を書くということにちょっとがっかりした想いもあった。
「売れるために?」と思ったのだ。
でも、もう本当に終わりかけの、ある文章を読んだときに、そうではないと確信した。
そして、とても感動したので、ここに記しておこうと思う。
フィクションであれノンフィクションであれ、他者に向かって何かを<物語る>という芸当が出来るかどうかは、あくまでも才能の多寡にかかっている。文章は巧いほうがいいが、巧ければいいわけではない。計算はもちろん必要だが、計算だけで書けるものでもない。
傲慢に言い放つようだけれど、書ける人間とそうでない人間とは、くっきりと分かたれているというのが奈津の実感だった。書ける人間はほうっておいても書けるし、書けない人間はだれに何を言われようが書けない。それはもう、残酷なほどだ。
志澤の意見に迎合するわけではないけれど、<書ける>というのはたしかに、恩寵よりも劫罰に近い事柄なのだ。何を見て、何を感じても、言葉に置き換えて物語らずにはいられない――書いてしまうことによって自らが血みどろになるとわかっていても、それでも書かずにはいられないという、呪い。
なんだかこの箇所を読んだときに、ああ……と深いため息がこぼれた。
私ごときがそんなことを言うのはおこがましいとはわかっているのだが、
「わかる」のだ。
私は今、自らが血みどろになることを怖がって、
<物語>を書けなくなっているのだということもよくわかる。
でも、本当は、それでも書かずにはいられない、というのが、本当に書くべき人なのだろうな、と思う。
そして、村上由佳という人は、そうなんだろうと思った。
かなりきわどい姓描写。
いろんな男性の「やり方」を一つ一つリアルに批評している。
女性の側から言えば、たぶんこれは実体験でないと書けないものだ。
でも、これを書くことによって、傷つく人もいるだろうし、作者本人も血みどろになるのだろうと思えた。
だけど、書かずにはおれない。
それが文章の端々に顕れていて、そのことに恐れ入った。
やっぱりすごい作家だなぁと。
そして、村山由佳がいつも言われることだが、
この人の使う日本語の美しさ、ボキャブラリーの豊富さときたら、尋常じゃない。
昔はノートにこの人の文章を写すという作業を繰り返していた。
気に入った文章だけではあるが。
他の現代作家にはない言葉の美しさがある作家なのだ。
(物書き視点かもしれないけれど)
こんなふうに言葉を自由に操れたらどんなにいいだろうかと、憧れた作家でもある。
久しぶりに彼女の作品を読んで、
官能小説みたいな場面が多いことにびっくりはしたけれど、
それでもやっぱり語彙の豊富さ・使い方の正確さ・文章の美しさは健在だなぁと感動した。
ストーリーにはあえて触れないが、
仕事をもつ女性には読んでほしい本かもしれない。
あと、男性経験の豊富な人は「ああ……」と納得できる部分も多いのでは?
私の感想としては、「やっぱり村山由佳ってすごいなぁ」と。
内容云々よりも、そんな漠然とした、でも賞賛の想いだけである。