ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

〝亀虫〟知ってますか?

2020年06月06日 | 俳句

 今日は曇りで、気温も20度ちょっととまあまあ凌ぎやすかったのですが、明日はまた急に暑くなって、最高気温も27度まで上がるとか…、段々こういう日が多くなるのでしょうね。

 昨日は久し振りに許可されましたので、二階の運動室でのリハビリへ行きました。今まで通り1階での電気治療を済ませた後、自分のペースで筋トレやストレッチ、器具を使っての運動などをするのですが、今日は3ヶ月半ぶりということで重りを付けての筋トレやストレッチなど、軽く馴らす程度の運動を…それでも30分以上はしましたよ。

 そのためその後遺症で今日の足腰のナント重たかったこと…こんなに体が柔軟性を失って固くなっているのだとつくづく思い知らされました。やはり筋肉というものは日々使わないとどんどん退化してこわばっていくものですね。一旦弱ってしまった機能を元に戻すというのは大変なこと。

 先日ついに弟が膝の人工関節の手術を受けました。両膝を同時に手術したのですが、翌日からすぐにリハビリが始まって…痛い痛いと苦しんでいたそうです…。私もいずれはしないといけないのかと思うと、ちょっとビビりますね。

 とにかくどんなに痛くても少しでも早く動かすようにしなければいけないと。そうしなければ筋肉や靱帯が拘縮して後の回復が違ってくるのだそうです。弟は両足同時ですからきっと大変だったでしょう。先日電話で歩行器を使わずに歩く練習をしたとか言っていましたが、考えただけでも痛そう…でも、もうすぐ退院とも言っていましたから今はどうなんでしょう。私なんか足を骨折してもう3ヶ月以上になるというのに、まだズキズキ痛むんですからね。

 ところで、1年前の今日のブログに…〝質より量〟と題して、初心の頃は1ヶ月に100句以上も作っていたことを書いていました。今はもうそんな体力も気力もありません。若かったから出来たことなんですね。〝鉄は熱いうちに打て〟なんてことわざも書いていましたが、本当にその通りです。

 あの苦しかった日々を乗り越えて…そう、まるで修行のように頑張ったお陰で今があるのですから、先生や句友に感謝、感謝です。アリガトウございました。

 写真は、箱根空木と〝亀虫〟。この虫は、ホソクビゴミムシ科の甲虫であるミイデラゴミムシの別名。などという訳の分からないような名前より、〝放屁虫(へひりむし)〟といった方がすぐに分かるでしょう。あのちょっとでも触ると悪臭を放つ虫です。体型が亀の甲型の六角形なので、亀虫と。実はこれも季語ですが、秋なんですよ。

 一茶にこんな句がありました。面白いでしょ!そういえば、この虫が好きという友人がいたっけ…。エエッどこが?と聞くと、顔がカワイイんだと…。

  御仏の鼻の先にて屁ひり虫       小林一茶

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〝歳歳年年人同じからず〟

2020年06月04日 | 俳句

 今日は整形で3週間振りの骨折のレントゲン撮影。この3週間は真面目に骨折の電気治療に通ったので、その成果が出ていますように…と祈りながらの診察へ。写真を見るとまだ骨折箇所の3分の1が割れたままです。先生が〝歩くのに痛みがあるかね?〟と。〝いいえ。歩くときではないのですが時々ズキズキッと痛むことはあります〟〝まあ、それぐらいなら後はもう時間の問題だから、電気治療は今日で終りにしよう。3週間後にまたレントゲンを…〟ということになり、明日から2階での膝の運動リハビリの許可をいただきました。

 このところ病院のはしごばかりです。昨日は義母と定期通院の内科へ。その後私はすぐに整形へ行く予定にしていたのですが、…

 昨日の内科では、いつもと違って骨塩定量検査や血圧脈波検査、心電図を、おまけに今までしたことのない心臓エコーまでするなんて…とんだ誤算でした。あっちでもこっちでも検査ばっかりで、これはコロナのために減った収入を補うためなのかしら?まあ、それも仕方のないことだわと、寄付のつもりで受けましたけど。もちろん結果は異常なし!でも、骨量や血管年齢など、確実に低下していて…要するに老化が進んでいるということ。イヤですね~。

 もうこの年になって褒められることって何もないですからね。義母も異常なしでしたが、先生曰く〝おばあちゃん、あの歳であの元気はビックリだよね。そのDNAもらってるんだからあなたも大丈夫…〟〝エエッ、先生、DNAは主人で、私は違いますよ〟と。とにかく、おばあちゃんにはもう比べる人いないんじゃないかしら?この元気記録もっと伸ばして…来年は正真正銘の100歳ですものね。

 実は、手編みのベストが出来たからといってまた貰ったんですよ。これ、本当は自分で着ようと思って編んだんですって。ちょっと派手だったからあなたにあげるわと。スゴいでしょ!私にはとってもアリガタイこと、早速昨日着ていっておばあちゃんに見せました。

 ところで、先日の「きらら俳句教室」でのこと、それを少し書きましょうか。

 殆ど俳句を作ったことがない人ばかりというので、吟行に行く前、二つのことを考えて詠んで下さいとお願いしました。一つは定型(五七五)を守ること。もう一つは季語を必ず入れること。ただし、一つだけでという指示を与えて作ってもらいましたが、……

 やっぱり初心者。定型の方は殆どクリアーできていましたが、季重ねは半分以上も。また、無季の句もありました。

 俳句をしていないと、日頃私たちが使っている言葉や見ているものが季語だということに殆ど気付かないのです。だから、吟行しているとき私が、〝この葦もそのままでは季語にならないけど、青葦というと夏の季語になりますよ〟と説明しますと、かなりの方がそれを使われていました。ところが、その青葦に水鳥、行々子(ぎょうぎょうし)、鳥渡る、さえずりなどを付けておられます。また、夏近しと月見草、梅雨とがまの花、イトトンボと木の葉など、これも全て季語なんです。ということで手を加えなくてもいいような句は3句ほどしかありませんでした。これが初心者の常なんですよ。

 だから、私は最初の教室ではいつも言っています。〝みなさんは、俳句教室では一年生なんですよ。できる方がおかしいのですから、何も気にせずに頑張りましょう〟と。それから、先ず表記の問題や音数の数え方などから教えます。また、俳句では促音や拗音は大きく書き、五七五は間を空けずに1行で書くとか…、ああ、片仮名は外来語を用いるときだけとかも。要するに俳句の基礎的なことなのですが、これだけでもしっかり身に付くにはしばらくかかります。ということで、まあボチボチと…というわけなんです。

 教室で教えるのは、きららの場合は正味1時間しかありませんし、それも月に1度しかないのです。後は自宅学習。それによって進歩の違いが出てきます。もう何年目かになっている方は、ほら初心の頃を思い出してみて。懐かしいでしょう。

 そう、〝年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず〟ですよ!それではまたガンバリマっしょ!

 写真の花は、〝石榴(ざくろ)〟で、夏の季語。今年も花をたくさんつけていますが、果たして実は?

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3ヶ月ぶりの句会!兼題は〝茄子の花〟

2020年06月03日 | 俳句

 6月になった途端に予定があれこれと入り…また以前の忙しさが戻りつつあります。それで、ブログの方にも手が回りませんでした、と言い訳するなんて…、いけませんよね。ゴメンナサ~イ!

 早速ですが、昨日はO教室での句会。5月の時は1時間という制約でしたが、6月からは3時間までOKになりました。当然3密は避けて…ということで、広い部屋に1メートル以上の間隔をとって、窓は開けるというように。さらに椅子や机などは消毒液で拭きました。私じゃなく皆さんがですけどね。アハッ

 しかし、昨日の最高気温は26度、湿度も高くって何とも蒸し暑い一日…やっぱりマスクでぶっ通しで話すのは大変!皆さんに断って後半はマスクを外してやらせていただきました。不織布のマスクは息が籠もって段々中が濡れてきますので、余計に息苦しくなるのです。だからといって喋らない訳にはいきませんし、どうしようもないのです。これじゃあ真夏は熱中症になってしまうかもねとみんなで言い合い、納得です。

 句会は3ヶ月振りでしたので、〝私もですが、皆さんも頭の回転が鈍くなっていますね~〟といいますと大笑い。そうなんですね。本当に笑い事ではないんですよ。ピアノでもよく言うでしょう。3日間練習しないと、指がスムーズに動かなくなって、それを取り戻すには2倍も3倍も練習しなければならないと…これ、どこかで聞いたような。

 俳句だって一緒なんです。句を作ることをサボっていたら頭の中のピアノはすぐに錆び付いて鳴らなくなります。たとえもし鳴ったとしても、今度は不協和音を出してまともな演奏になりません。それと同じように、五七五の言葉が上手く絡み合って美しいハーモニーを生み出すことが出来なくなってしまうのです。全て何事も日々精進ですよ。

 ところで、今回の兼題は〝茄子の花〟でした。もちろん夏の季語。

  うたたねの泪(なみだ)大事に茄子の花       飯島晴子

 以前にも書きましたが、晴子俳句は難しい!なぜ?どうして?と、いくら発信してもそう易々とは応えてはくれませんもの。〝目にみえるものの向うに目に見えないものを見ようとする―見ようとするというより、見えてくるといった方がよいのかもしれない―のが、写生といわれる方法の本来の在り方なのではあるまいかと思う〟(「現代俳句と写生」)と述べているように、彼女にしか見えていない〝目に見えないもの〟が詠われているとするならば、それを理解しようとするのは私には到底無理のような気がします。

 晴子さんは、写生から入って写生で死んだといってもいいかも知れません。ご本人を全く知らないのですが、なぜ最後は自死という方法をとって俳句と決別せねばならなかったのかという…私の頭ではどう考えても及ばないことなんです。

 作句を始めた頃の彼女の「写生」は、実物・実景を見て、そっくりそのまま伝えられるような言葉を探すという作業だったといいます。ところが、ある日、意味を伝達する道具以上の言葉というもののありように気づき、その言葉の不思議さに取りつかれて、かつのめり込んでいったようです。

 〝言葉の偶然の組み合わせから、言葉の伝える意味以外の思いがけないものが顕(た)ちのぼったり、顕ちのぼりかけたりすることを経験した。そこに顕ってくるのは、私から少しずれている私であり、私の予定できない、私の未見の世界であった。〟(「言葉の現れるとき」)と述べているように、〝未見の世界〟を何とか現わそうとして〝言葉の深淵〟を覗き、そこに嵌まってしまったことが、最後は死へと向かわせたのでしょうか。

 〝形にして言い出されたことは今まで一度もないことを、形にしてみたい。詩人は詩で、小説家は小説で、それを追っているのであろう。そのなかには、俳句という特殊な釣針でなければ上げることの出来ないものが、必ずあるという強い畏れを感じる。〟(「女流俳人の抱負」)という。そういいながら〝俳句〟という釣針で未見の世界を釣りあげようとしているうちに身動き取れなくなっていったのでは…。いうならば、五七五と戦って、ついには御しきれぬということを悟り、最後は言葉と〝無理心中〟したような気もします。

 そんな彼女が、〝茄子の花〟を通してどんな世界を見たのでしょうか。それはそう簡単には説明できそうにありません。が、私には、あの茄子の花の楚々とした色合いや下向きに咲くという控えめな姿が、何となく〈泪〉に通じているのでは…そして、泪といえばやはり女性でしょう。ここはうたた寝から覚めたときの泪ですから、何か悲しいことがあってというのではないのです。人間は欠伸をしても目が潤むことがあるんですもの。

 そもそも泪というのは、眼球の涙腺から分泌される液体で、常に眼を湿し、かつ洗う役目のもの。それが、精神の感動や諸刺激によって分泌が盛んになります。しかし、この句ではそういう感情的な高ぶりはなく、平常の時なんです。それが〝大事〟といえるのは、そういう泪のでる我が身をいとおしく思っているからに違いありません。ほら、泪も出なくなったらもうおしまいよとなんて、よく言うでしょう。

 うたた寝から目が覚めると、あら泪が…と拭いた目に、大好きな茄子の花が見えた…、そういう何気ない日常生活の一齣。やはり〈大事に〉といったところに晴子さん独自の世界があり、それを象徴しているのが季語〈茄子の花〉だと。何だか分かったような分からないような解釈で…ゴメンナサイ!あとはあなたの感性で鑑賞して下さいね。

 句会の話はまたにしましょう。今日は病院の連チャンで疲れました。では、また…

 写真は、〝茄子の花〟です。残念ながら我が家は茄子を植えていませんので、写真はお借りしました。ゴメンナサイ!

 

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