ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

〝負喧〟という季語知っていますか?

2020年02月05日 | 俳句

 今朝は久し振りに寒くて、ラジオ体操へ行くのに手袋をしていきました。確か宇部でも最低気温は0度とかいっていましたもの。でもやっぱり今年は雪も氷の張ったのもまだ見ませんから、暖冬異変なんでしょうね。

 しかし、昼間は日が降りそそいで、午後からの健康体操もポカポカ…でも、外に出た途端身を切るような風の冷たさを久々に実感しました。

 昨日の俳句教室の兼題は〝日向ぼこ〟でした。歳時記には「日向ぼこり」として冬の季語。意味はご存じの通り〝縁側や日だまりで冬日の光を浴びて暖まること〟「ぼこり」の語源には諸説あるようですが、「ほっこり」からというのが一番有力のようです。

 角川俳句大歳時記の「日向ぼこり」の例句を見ていますと、大先輩の馬醉木同人・相生垣瓜人(あいおいがきかじん)さんの「負喧(ふけん)」という珍しい季語を使った句を見つけました。

  負喧をも負心をも亦重ねけり  相生垣瓜人

 この「負喧」という熟語を辞書で調べてみましたが、『広辞苑』にも『新漢語林』にもありませんでした。それぞれの漢字で調べると、「負」には、〝①背負う②背負わせる③そむく④負ける⑤老婦人⑥マイナスの数〟、「喧」には、〝①やかましい②盛大なさま〟という意味。だとするとどこからこの熟語が「日向ぼこり」と同じ意味になるのでしょうか。

 更に調べると、どうもこの「負喧」という語が近代文学作品に初出するのは 相生垣瓜人の句集だと。(Weblio辞書より)ということは、この語が季語として認められたのも瓜人の句からということになるのでしょう。

 この句が収められている句集『負喧』は、昭和60年に亡くなった瓜人が、「馬醉木」の僚誌「海坂(うなさか)」の、百合山羽公との共同主宰であったということで、海坂発行所より昭和61年に遺句集として出版されました。ということは、瓜人の晩年に「馬醉木」や「海坂」で発表された句ということになるでしょう。ちなみに、この句の「負心」とは〝恩にそむく心〟で、〝また今日も日向ぼこばかりして、無為に過ごしてしまった。ああ、自分を心配してくれる師や仲間たちへの恩も顧みないで…〟というぐらいの、自省の句意でしょうか。

 さて、瓜人は一体どこでこの語を見つけたのでしょう。とても不思議でしたのでもう少し調べてみましたら、白楽天の漢詩「負冬日」の一節に「負喧閉目坐」があり、〝背中に日差しの暖かさを受けて、目を閉じて座っている〟という意味だと。だとすれば、「喧」は日差しの暖かさ、「負」はそれを背に負っているということになります。フウ~ン、それで日向ぼこと、なるほど。瓜人先生は漢詩にも造詣が深かったということなのかしら?

 ところが、もう一つ発見したことがあるんですよ。竹内栖鳳(たけうちせいほう・1864~1942)という、明治中期から昭和初期にかけて約60年にわたり活躍した日本画家。その作品「猫児負喧」が、明治25年(1892年)の第21回京都博覧会で3等賞を受賞しています。瓜人は、大正9年(1920)、東京美術学校を卒業して浜松工業学校(現在の静岡県立浜松工業高等学校)に図案科教員として赴任していたのです。ああ、それならこの「猫児負喧」の絵も…と、今度は心から納得しました。瓜人には〈衰顔の匂はしからむ負喧かな〉という句もありました。

 ああ、まだまだ知らないことが山ほどありますね。その山はエベレストぐらい…いやいや、それは永久に頂が見えない〝無限の山〟でしょう。死ぬまでにどこまで上れるでしょう?もうそろそろヘタリそうですが、でももう一踏ん張りしましょうか。

※このブログ記事を読んで下さって有り難うございます。なおこの時点では分らなかったのですが、この〝負喧〟という季語は〝負暄〟が正しいことが判明しました。〝暄〟という漢字は暖かいという意味で、それで「負暄」が冬の暖かい日差しをあびること、即ち〝日向ぼこり〟ということになるようです。

 このことについての詳しいいきさつは、事後のブログ2021・11/16「ウワッ、大変なことに気がつきました!」、2021・11/18「季語の〝負喧〟は?ハイ、〝負暄〟が正解です!」に書いてありますので、よろしかったら覗いてみて下さい。よろしくお願いします。

 写真は、先日の長府市の壇具川で撮ったもの。動画で撮ったんですがね~、どうやったらUPできるのかしら?

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〝立春大吉〟ですよ!

2020年02月04日 | 俳句

 今日は立春、そう〝立春大吉〟なんですよ。みなさんよくご存じの通り暦の上でこの日から春になります。現実にはまだまだ厳しい寒さが残っている時ですが、やはり気分的には…いや意識的かも。頭のどこかにもう春だという文字がちらついて、ものを見る目にも変化が生じるのかもしれません。

  雨の中に立春大吉の光りあり        高浜虚子

 この句の季語は「立春大吉」、立春の日に禅寺の門に貼る紙札の文句です。長さ約30㎝、幅約12㎝の紙片に書き、読経祈祷して、この紙片を檀家に配布するという、道元が伝えたものなんだそうです。

 昔は旧正月との兼ね合いもあって立春が一年の始まりと考えられていました。新しい年を迎える立春の早朝、禅寺では〝その一年がいい年でありますように〟との願いを込めて、この白いお札を入口に貼るのです。虚子はその光景を見ていたのでしょうか。折しもその日は雨が降って春とはまだ名ばかりのとても寒い中、その文字の書かれた白い札だけがまるで光りを放っているかのように見えた…即ちやがて来る春の耀きを予感させるように感じたのかも知れませんね。

 更にこの句は、字余りというにはちょっと多すぎ…6/9/5の破調の句なんです。上五の字余りは許されますが、中七の字余りは絶対に避けよと教えられてきました。では、この句はどう受止めればいいのでしょう。〝立春大吉〟という季語そのものがもう8音ですから、助詞などをつければさらに増えますし…。これとよく似た季語に「一陽来復」という冬至の時の季語もあるんですよ。こういう長い音数の季語を使いこなせるのもやはりベテランなればこそですが。でもこの句、意味も変わりませんから上五を〈雨の中〉として5音で収めることもできたんです。しかし、そうすると中七が異様に膨らんでモタモタした感じになるでしょう。そこを考え敢て上五も字余りにしてバランスを取ったと考えてもおかしくはありませんよね。このゆったりとしたリズムでもう一度読んでみて下さい。音数に縛られない大きな定型のリズムというものを感じませんか。ちょっと難しくなりましたね。俳句では字余りはいけないとか、でもこれはいいとか…もうはっきりしてよ~と、言いたくなるでしょう?そこが文学でもあるのかと私は思うのですが。もし絶対にこうでないといけないと言われたとしたら…文学が数学のように「1+1=2」だと、答えが一つに決まっているものなら面白くも何ともないでしょう。誰が書いても、何を書いてもみんな同じものになってしまうんですもの。

 要するに大きくいえば、文学…イヤそれに限らず芸術というものは、〝みんなちがってみんないい〟なんですよ。それが個性!

 昨日は、義母が一緒でしたので、人の多い琴崎八幡宮はやめて、先ずはお参りの少ない「出雲大社」へ。そこで豆のくじを引くと、主人だけが最後の等に一つだけ当たっていました。賞品はティッシュ1箱。ああ、ここは縁結びの神様ですので境内には夫婦楠も…。今回初めて気が付きました。

 次は節分には初めて行く「南方八幡宮」へ。ここはもう午前中に豆撒きが終わったとかで、豆はなかったのですが、お接待のぜんざいをいただきました。甘酒もありましたが、それは出雲大社でいただきましたので遠慮。ここには初詣の時に来たことがありますが、いつも大きな焚火をしていますので、今日も消防自動車が待機していました。火に竹の弾く音がとても威勢が良く、まるで春を呼んでいるよう…。人出はまあまあでした。

 最後は恒例の「中津瀬神社」です。ここは豆茶と福あめが目当てですが、豆茶は接待ですのですぐに頂けます。福あめはくじを買いますが、去年のブログを見ると1本150円。それなのに今年は200円と値上げ。せっかく5本も買ったのにナント、ナント今年は全滅。義母や義弟も5本ずつ買いましたがこれも全滅。主人は3本しか買わなかったのに、その1本が大福あめでした。クヤシイ!やっぱりくじ運は今年もよくなさそうです。それで恵方巻だけ買って、家で食べようと。ここは町中にありますので、一番賑やかなところ。まだ夕方でしたのでこの程度でしたが、夜になると豆撒きもあったりして人で溢れかえります。商店街も日頃は閑散としていますのに…これ、このとおり…

 さあ、これで節分も無事に終わりましたので、この新しい年も〝立春大吉〟、間違いなしかもよ!

 

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〝踏みつぶしたり厄年の鬼の豆〟

2020年02月03日 | 俳句

 今日は〝節分〟。四季それぞれの季節の変わり目のことで、年に4度あるのですが、現在では立春の前日のみが重要視されて「節分」といえばこの日をさすようになったものです。

 この〝節分〟は時候の季語なのですが、他にもかかわった季語がたくさんあって、行事では〝節分詣〟、生活になると〝追儺(ついな)〟とか〝鬼やらい〟といったりしますが、一般的に通じるのは〝豆撒(まめまき)〟でしょう。それに付随して〝鬼は外〟や〝福は内〟なども季語になります。また、変わったところでは〝厄払(やくばらい)〟とか〝厄落し〟なども、この節分の夜に厄を逃れるまじないなどを行ったことから季語になっています。

  踏みつぶしたり厄年の鬼の豆

 私の第2句集『甘雨』に所収の、平成29年の作です。この前の年には、前馬醉木主宰・水原春郎先生が9月、11月には実母を見送った時期に詠んだものです。季語は「鬼の豆」で、冬。節分の夜に撒く豆のことで、〝鬼打豆〟とか〝福の豆〟〝年の豆〟ともいう。

 私の敬愛する大先輩、N先生の妹さんで占いがよく当たるという方がおられて、〝この年は大きな厄のある年だから気を付けなさい〟と、言われていました。この占いは旧暦でしますので、この年とは、平成28年の立春から平成29年の節分までのこと。だから新年会でお会いしたとき、〝やっぱり良くない年だったわね。立春を過ぎたらどんどん良くなるから…〟と、励まされ納得しました。本当によく当たるんですよ。

 考えてみれば、確かに私の体調も悪くて病院通いばかりしていましたし、今までにない症状が出たり、挙げ句の果てには、「馬醉木」の若手コーナーの選者であったIさんが、突然強盗に襲われて瀕死の重傷を負われ、急遽その選が私に廻ってきたのもこの年の秋でしたもの。とにかくその頃の私は、その日その日を必死にこなしていくのが精一杯という状況でしたから…。

 毎年、この節分の日には、神社にお参りに行き、豆を拾ったり食べたりして、どんな時でも厄払いをします。もちろん商戦に踊らされて、〝恵方巻〟なるものも食べますが…。でも、気を付けて下さいよ。これは昔はなかったものですので、季語ではありませんから。ちなみに、〝恵方〟は新年の季語なんです。また、〝鰯(いわし)〟は秋の季語なんですが、この節分の夜には魔除けとして焼いた鰯の頭を柊(ひいらぎ)の小枝に刺し、悪鬼を追い払うというまじないが風習としてありましたので、〝柊挿す〟や〝鰯の頭挿す〟という季語も残っています。だから、神社の境内ではこの日に限り焼いた鰯も売っていますから、我が家では買って帰り、頭を刺したりはしませんが、しっかり食べます。アハッ、いわれよりも食い意地です…(笑)

 これらのことも父母からおそわったものなんですよ。今では主人や子供たちもそれに慣らされて…意味も分らずに食べているのかも。それでもいいです。私がいなくなってもどこかで覚えていて、きっと〝あんなことしてたよね~〟と懐かしく思い出してくれるかもしれませんので。

 話が飛んでしまいましたが、前掲の私の句、〈踏みつぶしたり〉に思いが詰っているということはもう分かっていただけたでしょうか。神社の境内や通りすがりの道でも、我が家の玄関先の豆でも、どこでも構いません。見つけ次第全部踏んで厄を払い…新しい一年の出発へ向っていきたい! 節分の日は毎年そんな気持ちでお参りします。

 さあ、今日もこれから、主人と義母たちと一緒にお参りへ行きましょう。では、行って来ま~す。

 写真は、今日はありません。この節分の日の写真は帰ってからに…

 

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〝歳時記〟の話

2020年02月01日 | 俳句

 今日からいよいよ2月です。宇部の天気予報では、一日中曇りで夕方からやっとお日様マーク…。ところが、9時過ぎには窓からサンサンと日が差してきて、それで急遽洗濯をして干しに出ると、なんと外は春の陽気でしたよ。ああ、もうカンが狂いますね~!

 ところで、〈ニン月や天神様の梅の花〉と〈硝子戸の磨き抜かれし梅二月〉の句は、どちらも「二月」と「梅」の季重なりの句です。前句は小林一茶、後句は、かつての「馬酔木」を代表する女性俳人・馬場移公子。この句のどちらもメイン季語は「二月」です。だとすれば、一茶は旧暦の二月、移公子は新暦の二月を詠んだことになりますね。梅の花も、一茶のときは満開の梅、移公子は今から咲き始める梅ということになるのでしょうか。即ち、片や馥郁と梅の花が香っているうららかな天満宮の境内、一方はまだ寒くてやっと綻び始めた梅の花を、よく磨かれた窓から眺めているという景ですね。

 角川俳句大歳時記をみると、「二月」には〝月の初めに寒が明け、ニュースはいっせいに暦の上で春を迎えたことを報じる。陰暦二月は仲春だが、陽暦の二月はまだ寒さも厳しく、春の来た実感は乏しい〟と、解説されています。ややこしいですね。これだから初心の方が迷って季語は難しいと思ってしまうのでしょうが、基本的には季語を四季順に整理、分類して解説した〝歳時記〟に従って、句を詠むのが一般的でしょう。

 そもそも「季語」や「季題」という語は、いずれも近代以降に成立した言い方で、古くは「季の詞(きのことば)」「季の題」「四季の詞」あるいは単に「季(き)」「季節」などと呼ばれていました。いろいろと言い方が違っても、四季というものは万葉集の時代から意識して詠まれ、それぞれの季節による部立てなどもなされていたようですよ。はっきりと季を定めたことばが分類されるのは平安時代の後期のこと。鎌倉時代には連歌が成立し、江戸時代の俳諧に至っては季節を表す語が必須のものとなり、その必要性からも数が増大していき、『俳諧歳時記栞草』(曲亭馬琴著・藍亭青藍増訂、1851年)では約3300の季語が集められていたそうです。現代では4000~5000以上の季語に膨れあがっています。

 近代俳句の革新を行った正岡子規は、季語の実感を重んじ、季語のもつ連想内容の豊富さが俳句にとっては有益であると唱えましたが、一方では、とある俳人からの質問に〝歳時記よりも実情を優先せよ〟という旨の返答をしたそうです。子規の生きていた明治の頃でさえそのように言ったとすれば、現代のとてつもなく大きな変貌を遂げたこの世の中を見て、さて、さて子規は何と言うでしょうか。

 こう考えれば、歳時記は一応の目安として非常に重要ですが、ただそれだけが全てではないという柔軟的な考え方も必要でしょう。簡単に言えば〝時と場合によりけり〟ということかも。だから、俳句を詠むときは自由に、翼を大きく広げて思うがままに詠んでみてください。その後で、この句を世に出して羽ばたかせようと思えば何が必要か?と考えて。 そうです。みんなに分かって貰わなくては、結局〝ひとりよがり〟の句になって、それで終わってしまうからなんです。俳句をしている人、いやしていない人にでも、自分の思いが伝わるようにと考えれば、そこでは絶対に〝歳時記〟が必要になってくるのです。また、何につけ歳時記を調べていると、今さらながらヘエッと思うような発見があったりしておもしろいんですよ。

 ああ、今朝は土曜日なのでラジオ体操はありませんでした。1月は雨が降った日を除くと、一日も休まずに続けて行ったんですよ…エヘン!(笑)

 写真は、「黄水仙」、花の形や咲く時期が〝水仙〟と似ていますが、水仙は冬、黄水仙は春の季語になります。確かにこちらでは白い水仙は12月から1月がピークで、黄色の水仙は今やっと咲き始めたばかりですから…。

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