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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

本が好き、悪口言うのはもっと好き

2022-10-05 19:02:30 | 読んだ本

高島俊男 1998年 文春文庫版
著者の『お言葉ですが…』なんかがおもしろいんで、このエッセイ集も古本を買い求めてみた、今年5月ころだったかな、読んだの最近。
単行本は1995年だそうだけど、ひとつづきの連載ものぢゃなくて、あちこちに書いたものから選んで集めたらしい。
タイトルからして、辛口の書評集かなにかかと想像したけど、そういうわけではないし、なにも全編悪口ということでもない。
それでも、やはりというか、悪口言う相手は、日本語のまちがった使い方なんかが主な対象になるようだ。
新聞の言葉づかいがヘンだとかね、でも私も、「指摘する」って語は「おおむねマイナス価値を持ったものを指す場合に用いる」、対象になるものは「弱点・誤り・問題点・疑問点」だ、ってことは知らなかったな、なんでも使っちゃってた。
それと、あいかわらず著者は辞書に対しても厳しくて、辞書が版を改めると新しい語を入れる替わりに古い語を削除しちゃうのはとんでもないとして、
>国語辞典は、われわれが、薄皮一枚の下を部厚く支えている過去と対話するための辞書である。日々死滅してゆくことばを削除してはならない。辞書の項目の増加は、われわれが過去と対話する便宜の増加にほかならぬ。辞書が削除してしまったら、われわれはどこへ聞きにゆけばよいのだ。(p.55)
みたいに論陣を張る、ごもっともであります。
一読したなかでおもしろかったのは、なんといっても「ネアカ李白とネクラ杜甫」、中国二大詩人をとりあげたもの、こういうこと教えてくれたら学校の国語の漢文の時間だってもうちょっと楽しかっただろうに、と思った。
純真な青年の杜甫と、無責任なオッサンの李白、正反対の二人だが、実際に出会ったときは意気投合したらしいけど。
>李白は陽気で八方やぶれの男である。杜甫は律儀でクソマジメでシンネリムッツリ型である。つまり、李白はネアカで杜甫はネクラである。
>これは二人が宴会に出たところを見ればよくわかる。
>杜甫はすみっこに陰気な顔ですわっていて、ときどき上目づかいにみんなの騒いでいるようすをチラチラ見たりもするが、それよりもごちそうを食うのにいそがしい。(略)
>李白のほうは、なるべく目立つ所に陣どってもっぱら酒である。あわせて手ぶり身ぶりでにぎやかにしゃべる。興がのってくると、まんなかへ出ておどりだす。(略)
というような書きぶりがまことにおもしろい、それにしたって、それは相当キャラを脚色してるだろと思うと、
>――こら、見てきたようなウソを言うな、などと言っちゃいけない。李白にしろ杜甫にしろ宴会の詩は非常に多い。それらを片端からたんねんに読めば、右のごとき情景はおのずから眼前にホウフツしてくるのである。(p.173)
と断言されちゃったりする、勉強してるひとにはかなわない。
そうかと思うと、
>杜預はこの本がたいへんに好きであった。みずから「わたしは左伝癖があります」と言っている。癖というのは「ほとんどビョーキ」というような意味で、わが国で「あいつは盗癖がある」などと言うのは、実はこの杜預の「左伝癖」から来ているのである。(p.176)
って杜甫の十三代前の祖先に由来する言葉の話とか、
>(略)中国人は世代というものを非常に重んずる。一つないし二つ上の世代に位置づけられることをよろこび、同じないし下の世代に位置づけられることをきらう。(略)
>(略)日本ではわかく見られるのをよろこぶが、中国では世代の観念のほうが優先するから、たとえば二十代の女性が十二三の女の子に「おねえさん」と言われたら、侮辱されたと感ずるのである。
>子どもがケンカをすると「おまえはおれの孫だ!」とののしる。(略)(p.182-183)
って中国文化の解説とか、してくれちゃうので、まったくもって油断ならない、ためになる読物だ。
そんなふうにして古の詩人のエピソードだけを紹介するのかと思いきや、
>李白と杜甫はいろんな点で好対照の、あるいは正反対の人であるが、その最も対照的なところは、本領とする詩の分野と性格にある。李白は古詩と七絶に長じ杜甫は律詩・排律に秀でる。逆に李白の律詩は凡庸であり杜甫の絶句は見るに足りない。そして二人の得意の範囲をあわせるとちょうど中国の詩の全分野をカバーする。(p.201)
ってマジメな詩に関する話で結ばれるのである、すばらしい。
一方で、日本の短詩型である俳諧について、「なごやかなる修羅場」のなかで、
>こういうところを見ると、俳諧の一座というのは、和気藹藹たる敵意の衝突であることがよくわかる。それはそうであろう。単なるなごやかさのみであったならば、昔からあんなにも多くの人が俳諧に夢中になったはずがない。俳諧は、人間の、人とまじわり親しみたいという本能と、人とたたかいねじりふせたいという本能とが、ともに満足させられる場である。(p.208)
って書いてるのも、鋭いとこ突いてると思わされた。
あと、「「支那」はわるいことばだろうか」という長めの一篇は、勉強になった。
中国には移り変わっていく国号はいくつもあるけど、各時代を通じての全体を指す客観的な名称が存在しない、「中国」ってのはもともとは「わが国」ぐらいの意味、それも「世界の中央にあるわれらのいるところ」ぐらいの意味だ、といったことが整然と説明されてて、歴史と言葉に関して蒙を啓かされるものあった。
(どうでもいいけど、いまパソコンで書いてたら「支那」が変換で出てこない、使うな、そんな言葉はないって意図だろうか。前にも(具体的な語忘れたけど)いわゆるわるい言葉を入力しようとしたら変換候補として出てこなかった記憶がある。そんな言葉は抹殺しちゃえという考えもあるのだろうが、メジャーな企業によるそういうの、なんか危うさを感じる。)
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 年は二八か二九からず
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V ネアカ李白とネクラ杜甫
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VII 湖辺漫筆
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 よい子はあいさつ忘れない
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 税務署よいとこ一度はおいで
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VIII 回や其の楽を改めず


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