高島俊男 1999年 文春文庫版
丸谷才一さんが絶賛するんで、著者の『中国の大盗賊』を読んでみたら、たいそうおもしろかったんで、ほかにもなんか読んでみたくなった。
丸谷さんが薦める、水滸伝に関する本へ行くのがいいんだろうけど、もうすこし軽めなものにしてみたくて、この古本を買い求めた。
とは言いつつも、本書収録のコラムが「週刊文春」で連載になったとき、丸谷さんは、
>わたしは「お言葉ですが…」を毎号欠かさず読むやうにしてゐる。といふよりも、つい読んでしまふ。一般に週刊誌といふのは、あとで、ああ時間を浪費したなあと反省することが多いものだが、(略)彼のあのコラムだけは、さういふことをぜつたい考へなくてすむ。(『双六で東海道』p.288)
と同じように褒めているんで、それに従ったようなものだけど。
単行本は1996年刊行、連載は1995年から1996年くらいの時代の話。
内容は、日本人の言葉づかい文字づかいのなかで、ちょっとおかしいんぢゃないのってのを採りあげる。
たとえば、テレビのレポーターがよくいう「ごらんいただけますでしょうか」、
>意味はもちろんわかる。「見えるか?」ないしは「見えるだろう?」ということだ。
>しかしなんだか変な日本語だなあ。(p18)
疑問をあらわす最後の「か」をとりのぞくと、「ごらんいただけますでしょう」になる。
これは推量の文だから、推量ぢゃない普通の形にすると、「ごらんいただけますです」になる。
「ます」の下に「です」つける必要がないんで、これはおかしい、という風に明快に検討説明してくれる。
ちなみに正しくするには、要らない「です」を取って、「ます」を推量にして、「ごらんいただけましょうか」くらいだが、それでも「ごらん」と「いただく」が被ってるし、推量と疑問を重ねることもないから、「ごらんになれますか」で十分だろうが、という話になる。
私があまり違和感なく使ってたんで意外だったのは、
>おかしなことばが横行するものだ。
>「立ち上げる」(p.123)
というやつ。
>どういう意味であれ、「立ち上げる」ということばは、そのことば自体がおかしい。よじれている。分裂している。
>(略)この「立つ」というのは、自動詞である。(略)
>しかるに「上げる」は他動詞である。(略)
>この「立つ」と「上げる」とがくっつくはずがない。「立つ」とくっつくのは「あがる」である。(略)もし「立ちあがる」という動作を他のものにさせるのなら、「立ちあがらせる」である。(略)
と理路整然と説明したうえで、
>「立ち上げる」ということばを誰が作ったのか知らないが、よほどことばに鈍感な人にちがいない。そんなことばを何とも思わず使っているのも、まあ同程度の人であろう。
とバッサリ、厳しい。
(※書いてて考えた私見。
これ「たちあげ」って名詞に、なんでも動詞にしちゃう「る」をつけた言葉なような気がする。
「たちあげ、なんて言葉があるか」と言われちゃうと弱るけど、90年代後半だったら私の周辺では通じてたと思う。ロケットや花火は「打ち上げ」、システムやプロジェクトは「たちあげ」。雰囲気としては、「起てて・起たせて、上げる」といったとこか、だったらそう言えといわれちゃうと困るが。
あと、対象の事物は、本来というか、理想を言えば、「たちあがる」もの、たちあがるべき、たちあがってほしいもの。電源入れれば、問題なく動くとか。それが、うまいこと、たちあがらない。なので、何かを修正したり増強したり、手を出して、たちあがるようにするのが「たちあげる」になったんぢゃないかと。その強引な力技な感じが、「持ち上げる」とかに似てて、「たちあげる」の語感が違和感なく使っちゃうのかと。)
ところで、こういうコラムを週刊誌のなかで毎号2ページだけ読むとちょうどいいんだけど、それだけを集めて本にすると飽きてしまう、っていう傾向が私にはあるんだが、本書に関してはそんなこと感じなかった。
それは、たぶん、丸谷さんのいう、「第一、文章が生きがよくて、景気がいい。」(『双六で東海道』p.287)とか、「大事なのは、著者の、闊達で生きのいい語り口だ。」(『木星とシャーベット』p.236)とかっていう、文章の上手さにあるんだと思う。
本書の「文庫版のためのあとがき」には、
>わたしはもとより国語学に関しては何ら訓練をうけたことのないしろうとであるから、(略)(p.312)
とあるけれど、著者の日本語論はしっかりとしたもので、
>よく新聞のコラムなどで、『広辞苑』にこうある、と鬼の首をとったように書いている人があるが、あれは滑稽ですね。『広辞苑』に書いてあることは全部正しい、と思いこむのは、盲信というものである。(p.68)
とか、
>わたしは長いこと教師をしていたからおぼえがあるのであるが、こっちが口をすっぱくして「辞書のまちがい!」と言っても、学生というやつは執念深く辞書を信じるんだよね。週刊文春の読者諸賢も、そりゃ『日本国語大辞典』のほうを信じるだろうなあ。むなしいなあ。(p.75)
とか、
>辰濃さんがこれを漢語だと思ったのは、『大漢和辞典』の見かたをごぞんじないからである。辞書の見かたを知らずに辞書を引いたって見当ちがいをやらかすだけだから、やめといたほうがよろしい。(p.131)
とかって、よろしくない辞書の例文なんかはあてにならんという姿勢はあちこちに見える。
その根本には、
>その国語改革は(略)そこでは「これからの日本語」という一側面のみが考慮され、昔の人たちと対話する、というもう一方の大切な側面はほとんどかえりみられることがなかった。(p.68-69)
とか、
>今の自分たちのありよう・考えかただけを、人類の唯一のそれと思っている人を「無知」と言う。「以前はこうではなかったのかもしれない」「他の所ではこうではないのかもしれない」と考えられる人は(たとえ具体的にどうであるかを知らなくても)知性のある人である。(p.164)
とかって、過去から使われてきたものを重要視する、良き保守的な精神があるんぢゃないかと。
(なんか、西部邁さんの言ってた、民主主義ってのは、今生きている人の意見だけで決めていいってことぢゃなく、過去に死んでいった人のつくったものや、これから生まれてくる人に残すものにも責任もつべきものだ、みたいな保守主義を思い出した。)
明治になって西洋から入ってきた事物などに漢語をつくって当てたはいいけど、同じ音で「想像と創造」とか「私立と市立」とか衝突が起きてるのに平気でいることについては、
>これはどうしてかというと、明治以後日本人の言語感覚が変り、文字がことばの実体であって音は影にすぎない、とみなすようになったからである。影である音が衝突しても、実体である文字が区別されておれば気にしない。つまり文字には細心になったが、音には鈍感になったのである。(p.182)
みたいに指摘している。
おもしろいのは、いわゆる「ら抜き」言葉のところで、不快ならハッキリ「いやだ」と言うべきだというんだけど、
>これはことばの問題だけにかぎったことではない。それに、実はたいていのことは偶発的か趨勢的かはその時にはわからないのである。
>特に年寄りは頑固でなくてはならない。いやにものわかりのいい年寄りくらい見苦しいものはない。だいいち存在している意味がない。(p.241)
ってブチあげてるところ、年寄りの存在意義をこう言い切るのは痛快である。
コンテンツは、以下のとおり。
ミズもしたたる美女四人
ミズもしたたる美女四人
ごらんいただけますでしょうか
月にやるせぬわが想い
新聞社のいじわるばあさん
大学生らイタされる
フリンより間男
漢和辞典はヌエである
震災語の怪
重いコンダラ
はだ色は差別色?
こうづけさん、お久しぶり
モロハのヤイバ
美智子さま雅子さま
日本語は二人称なし
馬から落ちて落馬して
重いコンダラ
トンちゃんも歩けば
お米 おけら おもちゃ……
どちらがエライ、「君」と「さん」
トンちゃんも歩けば
名前の逆転
立ち上げる
天声人語のネーミング的研究
雨のいろいろ
ウメボシの天神さま
ひとり曠野に去った人
遺書と遺言
相撲ことばは日本語の花
女がしきいをまたげば
「しな」学入門
年寄名は歌ことば
ウメボシの天神さま
みづほの国の元号考
人間の問題
ら抜きトカトカ
人生七十古来稀なり
人心と民心、どうちがう?
みづほの国の元号考
龍竜合戦
老婆ダメなら老女もダメ
もんじゅマンジュ
点鬼簿
もんじゅマンジュ
見れます出れます食べれます
ふりがな御無用
昔観兵、今演習
台湾いじめ
「づ」を守る会
あの戦争の名前
「べし」はどこへ行った
一年三〇〇六一〇五日?
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あの戦争の名前
ジッカイとジュッカイ
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