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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

にぎやかな街で

2022-07-28 19:16:41 | 丸谷才一

丸谷才一 1983年 文春文庫版
困ったことに、この古本の文庫を買い求めたのは、二年前の夏のことだった、ずっと放っておいて最近読んだ。
1966年から67年に発表された古い小説で、丸谷さんの書いたものは、むかしの小説よりも最近に近い随筆なんかのほうが、私にとってはおもしろいので、ついついあとまわしにしてしまっていたんである。
中短篇三作が収録されていて、どれも戦争の終わりの時期を舞台にしている、軍隊が大っキライの丸谷さんの、なんか思うところあったんだろう(吐き出したいもの?)という気がしてくる。
「にぎやかな街で」は、広島のすぐ近くの街が舞台、原爆が投下されて罹災者はひどいことになってる描写はあるんだけど、主人公たちは被害にあわなかった距離。
主人公は、本人の表現にいわく属国人で、焼肉屋を営んでいる、頼まれれば牛とか密殺して肉にするって仕事もする。
そういう人物の視点から日本の敗戦とその後をみるっていう設定が、ちょっとひねってあるところだ、敗戦後すぐの時期は村の住民は集まって酒飲んでバクチ打ったりばかりしてるのが主人公の目に映る。
それで主人公の友人のちょっと年下の日本人が、爆弾の落ちる前の晩に、家の中で口論の末、妻を突き飛ばして殺してしまったという。
翌朝の爆撃で何も残らなくなってしまったから、ホントなのか気絶してただけなのかは今となってはわからない、ただ男はなにかにつけその話を口に出す。
ときどき、章番号を改めるとか空白行を挟むとかしないで、主人公たちのいる時代が変わるんで、油断できない書き方だけど、時間どおりに進むとは限らないのが二十世紀小説の手法だとは丸谷さんの書いたもので教わったことだ。
つぎの「贈り物」は短い短篇、八月十五日には岩手県に近い村にいた独立歩兵砲大隊の小隊長だった男が語る体裁の話。
その村に駐留しつづけて、九月の上旬にアメリカ軍に武器弾薬を引き渡す段になって、歩兵砲のカバーがなくなって部隊が大騒ぎになる。
兵のひとりが、カバーにつかってある豚革を財布に加工して、贈り物にしようとしてたと判明、ばかばかしいよねって話。
三つ目の「秘密」は、鶴岡の士族の家の若者が、昭和二十年の八月六日に山形の連隊に徴兵される話。
鶴岡出身の丸谷さんだから、自身がモデルかと思わされるんだけど、小説の主人公は満洲生まれの満洲育ちって設定にされてて、あんまり鶴岡に愛着ない、祖母の言葉とか聞き取れないとかって、やっぱちょっと視点がひねってあるんである。
それで、山形の町まで同じ運命の若者たちといっしょにぞろぞろ行くんだけど、連隊の営門の前まで行って、発作的に入るのやめて逃げちゃう。
徴兵忌避者といえば、丸谷さんの『笹まくら』の主人公でおなじみなので、そうか、そのへんにつながるのかあ、と思って読む。
途中でたまたま出会ったひとについていき、出羽三山に行ったりするんだが、この予科生は、憲兵の追手につかまるかもなんていうことよりも、自分の徴兵忌避の理由づけが明確にできないことが、知識人の行動として恥ずかしい、とか変なところで悩んでたりする。うーむ。
ということで評論家的には、国家と個人の関係を追求するのが丸谷さんのテーマだろってことになるんだろうが、私としてはそういうのを登場人物に大げさな演説ぶたせたり、悶々とした独白させたりなんかぢゃなく、見ようによってはおかしみすらある日常を描くなかでやってくれるのがいい小説ってもんだと思う。
で、「にぎやかな街で」のなかで、妻を殺したって告白をする友人に対して、主人公が「一体なぜそんなに、罰を受けたがってるんだ?」って言うところがあるんだけど。
そこんとこで、
>「神様とか何かからじゃなしに、国から罰を受けて、それで救われたいという気持なんだろうって気がする。しかし、国家なんてものに、そいういう力があるかな?(略)(p.110)
なんて言うと、友人のほうは、国家ってわけぢゃなくて、世の中というか社会みたいなものかな、なんて言いだして、
>(略)しばらく黙っていたが、急にいきいきした口調で、
>「社会から罰を受ければ社会へ帰れる、なんて気がするんですよ。今はなんだか、世の中にはいっていないような気持なんだ。(略)(p.111)
と答えるんだが。
これ読んでて、現代でも、「死刑になりたくて」とか言って変なことしでかす輩はいるんだけど、あれって世の中に自分が入ってないから国家にかまってほしい、みたいな意味なのかなって、妙に状況がみえたような気がした。

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落語 師匠噺

2022-07-21 18:22:55 | 読んだ本

浜美雪 2015年 講談社+α文庫版
丸谷才一さんの随筆集『人形のBWH』のなかに、
>まづ浜美雪さんの『師匠噺』(河出書房新社)といふ単行本。これは二〇〇七年の最も注目すべき本の一つであります。(略)
>噺家の師匠と弟子の関係を書いた本で、え、これで教育ができるのか、教育とはいつたい何なのか、と不安になり怖くなる、さういふ本、もちろん嬉しくもなる。大笑ひもする。(『人形のBWH』p.82)
とあったもんだから、読んでみたくなって、先月のこと、文庫の古本を買い求めてみた。
うん、おもしろいぢゃない、って読み進んでって、巻末の「文庫のためのあとがき」までたどり着いて、アッと言う破目になった。
>文庫用にサイズダウンしなくてはならなかったため、単行本では収録していた上方の二組の師弟(笑福亭松鶴と笑福亭鶴瓶、五代目桂文枝と桂あやめ(略))については(略)、さんざん悩んだ末、東京の師弟だけでまとめることとした。
>また、古今亭志ん朝、古今亭志ん五についても、紙幅の都合で涙をのんで断念することとなった。(p.299)
ってあったからだ、先の丸谷才一さんは、「十二篇のうち、いちばん泣かせるのが「桂文枝と桂あやめ」の巻。」と言ってるのに、それ載ってないぢゃない。
単行本を再度買い求めるかどうかは、ちょっと検討中。
なかみは、落語家の師弟をとりあげて、なんで師匠と弟子は似ちゃうんだろうねえって不思議を探るもの。
主に弟子にインタビューして師匠のことを聞くかたちになるんだが、柳亭市馬の話なんかはおもしろい。
>弟子になんか小言言ってて、ふと、これ、どっかで聞いたことがあるなってことがよくあるんです。で、つらつら考えてみると、師匠に言われたことを言ってる。(p.93)
なんてえのは、まあ当たり前のことのような気もするが、続いての、
>それより、つまらないことが似てるもんだと思ったことがあります。
>ある時歯を磨いてたらかみさんに言われたんです。『なんでいつもコップの水をツッて音立ててすするの』(略)で、気がついたんです。それ、師匠の癖なんです。
>芸が似ないで、そんなつまらないことが似ちゃう、ねえ。(同)
とかって、なるほど、そういうこともありえそうだなあって思ったりする。
小さん師匠に関する話でおもしろいのは、真打昇進にあたって柳亭市馬って名前を薦めてきて、「いい名前だろ」とか言っておいて、先代の市馬の親族に仁義切ろうとしたが消息不明で連絡つかないって言ったら、
>『(略)もし何か言ってきたら俺がなんか言ってやるから心配するな。第一、なんか言ってきやしねえよ、それほどの名前じゃねえんだから』。
>僕にはあれほど薦めたのにねえ。
>うちの師匠って嘘がつけない人なんですよ。(略)いざとなったら『それほどの名前じゃない』って。(p.86)
ってとこ、笑ってしまった、小さんがあのボソボソっとした感じでそんなこと言うの想像したら、おかしくてたまらない。
弟子になると師匠の家へ住み込んだり通ったりで身の回りのことをいろいろやるんだけど、肝心の落語の話をおぼえる際には、よその師匠に教わってきなよって展開になるのはよくあることらしいが、そんななかで話の稽古については柳家小三治に関する話が興味深い。
柳家喜多八が小三治師匠について、
>(略)うちの師匠くらい落語の基礎をきちんと教えられる師匠はいないんじゃないかと思いますね。
>たとえば『道灌』という噺にご隠居さんが出てきますけど、『いいかい、このご隠居さんはこういう心持ちで八っつぁんに接してるんだよ』っていうところから教えてくれた。
>つまりは了見。(p.250)
って明かす、登場人物がどんな気持ちでいるのか理解してないとセリフにそれがあらわれてこない、弟弟子の柳家三三も、
>(略)「ご隠居さん、こんにちは」って、ちょっと言ってみろ!』で、『ご隠居さん……』って師匠の前で言ってみるんですけど、言うたびに、ダメだダメだと言われる。
>『その時の隠居の気分、部屋の広さ、間取りなんかがそれひとつでわかるように、万感の思いを込めてやるんだ!』。(p.251)
って言われたっていうけど、なんかすごい話だよねえと感心した。
で、直接に芸を教わったわけでもないのに、年を経るうちに弟子がどんどん師匠に似てくることについては、まえがきがわりの「まくら、のようなもの」のなかで、春風亭小朝が答えている。
>「つまりそれは、師匠の芸よりも主義(イズム)や、物の見方を継承してるからなんです」と、小朝は言う。(p.17)
ってことで、噺の稽古よりも、それ以外のとこで言われた師匠の言葉の影響って大きいからだという。
小朝が柳朝に弟子入りした経緯については『江戸前の男』に詳しいが、中学生のときから落語家を志して、末広亭に通ったそうだ。
>いつも開演前から客席の一番前に座る。そこで文楽、円生、正蔵を聞き、(略)若手の落語家では談志と志ん朝にあこがれた。しかし、最も印象に残ったのは柳朝だった。
>柳朝はいつもいい着物を着ている。子供の目にも、着物だけでなく帯、羽織、紐までが他の芸人とは明らかに違うのがわかる。粋で、おしゃれで、かっこいい。
>噺のほうも、『天災』『鮑のし』『粗忽の釘』などが面白く、おなかの皮がよじれるほど笑わせてくれる。何よりも出てくるだけで高座がパーッと明るくなるような気がする。
>師匠にするならこのおじさんだ。(『江戸前の男』p.368)
というとおりである、惚れこんで弟子入りするんだから似ていくのは当たり前ってば当たり前なんだろう。
コンテンツは以下のとおり。
春風亭柳昇と春風亭昇太 「歳取って、僕もこんな面白い生き物になれたらなあって」
柳家小さんと柳亭市馬 「師匠は死なないって思ってました」
三遊亭園丈と三遊亭白鳥 「師弟って結局は縁なんですよ」
柳家さん喬と柳家喬太郎 「一番弟子っていいもんだなって」
林家こん平と林家たい平 「スピリットを吸収したい」
春風亭小柳枝、春風亭柳昇と瀧川鯉昇 「僕は、長男になりたかったんです」
林家木久蔵(木久扇)と林家彦いち 「家が近かったから」
柳家小三治と柳家喜多八 「そっくりって言われてもいい。弟子なんだから」
立川談志と立川志の輔 「談志が師匠じゃなかったら」

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囲碁の知・入門編

2022-07-18 19:10:06 | 読んだ本

平本弥星 二〇〇一年 集英社新書
昔読んだんだろうけど長くしまったままで忘れられてたのを再発見した新書のひとつ。
持ってるのは二〇〇四年の第九刷なんだけど、例によって当時の私がいかなる理由で読んでみようと思って手に入れたかはおぼえてない。
んー、たぶん『ヒカルの碁』とか読んでたころかもしれないんで、そのへんから流れてったような気がする。
囲碁の知ってなんぞやと思うんだが、「おわりに」で著者は、
>本書は『囲碁で知る』という書名で書き上げた本です。(略)碁で何を知るか、そのきっかけやヒントが随所に潜んでいる本を作りたい。そう思った私の試みが本書です。
と言ってるし、「はじめに」では、
>私は、今も碁によって多くを学び続けています。学校で学んだことより、碁で知ったことのほうがずっと大きく、深い。(略)脳が自由にプレイする知のフィールド。心で感じ、自分を表現する知のカンバス。碁は万人に開かれている、ひろやかな知です。
とか宣言しているんで、そういうことなんでしょう、たとえていえば「囲碁に必要なことはすべて人生から学んだ。あ。逆だ。」ってやつですね、きっと。(←「あ、逆だ」というのはホリイ氏の著書で使われてるフレーズ、好きなんですいません)
第一章にはけっこう碁の図面があって、これがいい手だとか説明してくれてんだけど、碁を知らない私には内容がよくわからない。
人間の記憶には、身体で覚える「手続き記憶(技の記憶)」と頭で覚えて言語で表現する「陳述的記憶」があるって引用をしたうえで、
>知識として覚えた碁のルールは「意味記憶」です。(略)ルールを意識せずに碁を打つようになったら「手続き記憶」です。(p.61)
なんていってるとこがあって、最近こんなの読み返したようなと思ったら、『世界を肯定する哲学』に技の記憶の話があったんで、偶然かもしれないけど当時の私はそういうのに興味があったのかもしれないって気がしてきた。
第二章には、なんで碁盤は19×19なのかみたいな話があるけど、私はあまり好奇心のようなものを刺激されはしない。
それよか、定石ってのは知識だから、現実の局面に対応するときは既存のものを意識せずに考えなさいって意味で、「定石は覚えて忘れよ」って言葉を紹介してたりして、そういうのを披露するのが本書でやりたいことなのではないかと思った。
ほかにも、「碁は生きもの」といって、変化が変化を呼んで最初の形からは想像できない流れになることがあるとか。
「小を捨てて大に就く」とか、「捨石」として全体のバランスのために捨てられて死んでいく部分があるのは生物と同じようなものだとか。
「部分と全体」を考えるとか、石は単独ではなく「関係」をもつ存在だとか、つながりを持つ仲間がなければ生きていけないものだとか。
>碁は、生物の生存競争と同じように、より良く生きようとするゲームです。より良く生きて、相手よりわずかでも多く同種を存在させた方が優れているというゲームです。
>碁は、相手を否定するゲームではありません。目的はより良い生存なので、必要のない限り相手を殺そうとはしません。相手を殺そうとするより、自分の生存を増やそうとする方が有利だからです。(p.148)
という展開から、人間も攻撃性はあるけどそれをコントロールして共生するようにしようよ、みたいなことになるんだが、おそらくこのへんが「碁に必要なことはすべて人生から学んだ、あ、逆だ」として一番言いたいことなんぢゃなかろうかと思わされる。
第三章は、延々と日本史の時間です、権力者が移り変わっていく記述のなかで、ときどき誰それも碁を打ったはずだ、碁を打った記録があるとか触れられてるんだけど、正直私にはあまり興味が持てない。
章立ては以下のとおり。
第一章 手談の世界――碁は人、碁は心
 碁を打つ
 プロの碁と囲碁ルール
 アマチュア碁界の隆盛
 脳の健康スポーツ
第二章 方円の不思議――碁の謎に迫る
 碁とは
 定石とはなにか
 生きることの意味
第三章 囲碁略史――碁の歴史は人の歴史
 1 中国・古代――琴棋書画は君子の教養
 2 古代(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)――文化は人とともに来る
 3 中世(鎌倉時代・室町時代)――民衆に碁が広まる
 4 近世(安土桃山時代・江戸時代)――260年の平和、囲碁文化の発展
終章 新しい時代と囲碁
 歴史的な変化の時代/IT革命と囲碁/碁は世界語/コンピュータと碁/教育と囲碁/自ら学び、自ら考える力の育成/生命観/囲碁は仮想生命/生命の科学/囲碁で知る

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よしきた、ジーヴス

2022-07-13 18:50:38 | 読んだ本

P・G・ウッドハウス/森村たまき訳 2005年 国書刊行会
これは『それゆけ、ジーヴス』といっしょに5月に買った古本。
ジーヴスものって短篇だとばかり思っていたら、これは長篇でした。
原題「Right Ho,Jeeves」は1934年の刊行だという。
いつものとおり「僕」という語り手はバーティーこと、バートラム・ウ-スター、ジーヴスのご主人様。
その他主要登場人物のひとりが、ガッシーことオーガスタス・フィンク・ノトル、バーティーの友人。
ガッシーは田舎にひきこもってイモリを飼ってさえいれば満足だったのに、ひょんなことでマデライン・バセットという女性に惚れてしまったんで、バーティーのとこに相談にくる。
もっとも、困ったときには僕がついてるぞと請け負うバーティーに向かってガッシーは、
>「ありがとう、友だち。それとジーヴスもだ。無論こっちのほうが重要なんだけど」(p.27)
なんて正直に言う、バーティーの友達はいつもみんなこの調子で、ジーヴスは偉大な頭脳の持ち主でバーティーはとるに足らない人物扱いするので、バーティーはいらつく。
しかし、バーティーのほうだって、ジーヴスがガッシーについて報告してきたときに、
>かような記憶の錯乱は、フィンク=ノトル様のような、本質的にいわゆる夢想家タイプに属する方には珍しいことではございません」
>「いわゆるまぬけタイプだな」
>「はい、ご主人様」(p.53)
とかってハッキリ言ったりしてんで、どっちもどっちではある。
それはさておき、今回の事件勃発前には、バーティーの金ボタンのついたメスジャケットって服について、例によってジーヴスが「不適切でございます」とかダメだししたんで、二人のあいだには冷ややかな空気が流れちゃってる。
そういうわけで、カンヌぢゃ最新モードのこの服を認めないジーヴスのことを、ご主人様は彼は不調だと決めつけて、友人の困りごとは自分で解決してやるって意気込む、できっこないのに。
さて、もうひとりの主要登場人物でバーティーの友人なのは、タッピーことヒルデブランド・グロソップ、彼はバーティーの従姉妹のアンジェラと婚約してたんだが、些細な口論から決裂して婚約を解消した。
その事態を聞いて、バーティーはアンジェラの母であるダリア叔母さんのブリンクレイ・コートって屋敷に出かけていく、ガッシーの件といっしょに、こっちの二人の仲も自分が直してやるつもりで。
でも、そんな意気上がるバーティーに対して、ダリア叔母さんは、
>あんたじゃないわ、もちろん。ジーヴスの方よ。(略)この状況は明らかにジーブスを求めてるわ。(p.80)
とか、
>全部彼に任せるつもりよ。ジーヴスみたいな人はいないものね(同)
とか、さらには、
>お願いだからでしゃばらないでちょうだい。あんたは事態をもっと悪くするだけなんだから(p.83)
とバーティーはだめ、頼れるのはジーヴスだけって表明する。
なお、ダリア叔母さんは、自分が理事をつとめる学校で近く夏の表彰式が行われるんで、バーティーにその表彰式をやれって命令する、大勢の生徒を前に何かスピーチして成績優秀者に表彰状みたいのを渡す大役。
そんなのまっぴらごめんなバーティーは、代役にガッシーを推薦してブリンクレイ・コートに客人として送り込む、そこにマデライン嬢が滞在してるんで、作戦は一石二鳥にみえたんだが、後日この表彰式は大変なことになってしまう。
ほかにもダリア叔母さんは、自らが主宰してる雑誌の発行につかうはずの資金を、カンヌ滞在中にカジノで全部スッてしまったんで、夫のトム叔父さんから改めて資金援助を引き出さなくてはならないとか、いろいろ問題を抱えてる。
そういうのを一切合財、ジーヴスぢゃなしに、自分で解決してやろうとバーティーがいろいろ策を練ったものだから、すべては悪い目しか出ない。
そんな甥に向かってダリア叔母さんが言う、
>「アッティラ」やっと彼女は言った。「そういう名前だったわ。フン族の王アッティラ」
>「へっ?」
>「あんたが思い出させてくれたのは誰だったかって考えてたの。破壊と荒廃を振りまいてまわって、そいつが来るまでは幸福で平和だった家をぶち壊して歩くの。アッティラって男よ。驚きだわ」再び僕に見とれながら彼女は言った。「あんたを見たってね、誰だってただの普通の気のいいバカだと思うじゃない――多分、キ印だけど、害はないって。だけどね、本当はあんたは黒死病よりもたちの悪い疫病なのよ。(p.291-292)
って罵倒は最高である、アッティラって誰だか知らないが、なかなか印象に残る。
かくして収拾不能になったブリンクレイに集った不幸な人たちすべてのトラブルを、最後の最後にもちろんジーヴスが解決することになる、それはそれは見事な手並みである。
おもしろいけど、私はどっちかっていうと短篇集のほうが好きかもしれない、短いなかでピシッと技が決まるタイプの話に味の良さがあると思う。

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奇談の時代

2022-07-06 19:35:58 | 読んだ本

百目鬼恭三郎 一九七八年 朝日新聞社
表紙のタイトルは「竒談」の文字を使ってるが、本文中や奥付には「奇談」という活字になってるんで、「奇談」でいいんでしょう。
著者の名前は丸谷才一の随筆でよく見かけて、『現代の作家一〇一人』なんて読んでみたことはあるけど、これは全然知らなくて、五月に地元で見つけて勢いで買ってみた古本。
まえがき代わりにある「この本の宣伝のための架空講演」の冒頭で、
>これは、昭和五十年八月から五十一年八月まで、朝日新聞の文化欄に連載したものを全面的に書き改めたのでして、簡単にいうと、過去日本において記録された奇談の中から、現代の読者に面白いと思われる話を拾い集めて紹介しようという本なのであります。(p.2)
といってるんで、まあ中身はそういうことになります。
『今昔物語集』とか『古事談』とか、江戸時代になっては『耳袋』とか、そういうのにのってる怪異譚集、私はその類はけっこう好きですね、前から。
奇談をおもしろがって集めるということと、説明できない不思議を信じるかってことは別であって、
>龍は空想の動物であることがはっきりしているし、殊に日本では、中国から入ってきた存在である。だから、その実在を信じるというのは、ちょうどフランケンシュタインの怪人が野尻湖に現れたといううわさを信じるようなもので、龍そのものより、それを信じるということのほうが奇怪な現象のはずだ。にもかかわらず、説話の世界では、この外来の空想の動物が日本の到るところに出現しているのである。この不思議の構造が解明されれば、龍のみならず、一般に奇談に対する人間の意識構造がわかるようになるにちがいない。(p.268)
とかって冷静に言ってる態度が著者の基本スタンスではなかろうかという気がする。
漢の武帝が不死をもとめていろんなあやしい人物の術に興味をもったということなんかにも、
>古代中国でもっとも偉大な皇帝の一人である武帝が、このようにだまされやすく、方士らのいうなりになっては落胆を繰り返すすまは、滑稽というよりはむしろ壮観ですらある。(p.124)
という調子で冷ややかだが、もしかして史記の作者の司馬遷は武帝に罰せられたから、その恨みでバカにしてんぢゃないのっていう考察もあったりする。
なお、自身のことについては、中国の器物の怪の話で、古い箒が人の姿に変われるまでになったのに、怪異を起こしたばかりに退治されてしまった話に、原典で「何かを会得すると隠しておけない連中があるが、この箒のたぐいと言えよう」と書かれているのをあげたのに続き、
>他人の著作物の中から怪奇譚を拾ってきては並べて本にしようとしている私なども、さしずめこの箒の口なのであろう。(p.217)
なんて卑下してたりするとこがおもしろい。
伝わる話の出来不出来について、あまりにつくりが凝っていて理屈をあわせるようにしていると、「話の作り手のさかしらがみえていて苦笑させられるが」(p.197)みたいに評価しない。
名人が技くらべをした話なんかも、つまらないとバッサリいうが、ぢゃあ、どういうのが著者は好きなのかというと、
>『古事談』に、岩清水八幡の神宮寺の所司で、笛の名人だった永秀という法師の話が出て来るが、この永秀は朝から晩まで笛を吹いているので、近所隣が閉口してみな引っ越して、無人地帯になってしまう。そこで、人里を避けて男山の南面に引っ越したところ、近辺は草も生えなくなった。これも笛の音のせいだろうといわれた、などという話は、私は好きだ。(p.82)
なんて言っている、まあ怪物も出現しないし、仏教的な因果応報の仕掛もないな。
さらに、つづけて、
>鳥羽院の笛の市販だった大神元正(基政)が、ある月夜に、山井の自宅にいると、不思議な曲を吹いている笛が聞こえてきた。そこで坂を走りのぼり、藪に隠れてうかがうと、笛を吹いているのは僧である。声をかけると永真という寺主で、万歳楽を逆様に吹いている、と答えた。逆様に吹け、という人もいるかもしれないから、練習しておくのだ、といったという話である。この話はどこかとぼけていて、私は大好きだ。(p.82-83)
とかいう意見も表明しているが、なんとも微妙な線という感じがする。
読んでておもしろいのは、本題の奇談のスジとかぢゃなくて、平安時代あたりの帝とか貴族には奇行で知られるひとがいたみたいなことがちょろっと書いてあったりして、みんなが雅だったわけぢゃなく、ヘンなひともいたし、何かと失敗することもあったのね、ってこと教えてくれるとこである。
いろいろあるんだけど、たとえば歌の道についても、いい歌の話ぢゃなくて、
>たとえば、住吉神社の神主だった津守国基は、撰者に小鰺の樽を贈って『後拾遺和歌集』に自分の歌を多く入れてもらい、そのためこの勅撰集には『小鰺集』という仇名がついた、などという話(『井蛙抄』)がそれである。
>『後拾遺和歌集』の撰者は藤原通俊だが、これはおそろしく評判の悪かった勅撰集で、これが出ると源経信が『難後拾遺』という論難書を書いたほどである。ひとつには、妹が白河天皇の典侍だった関係で、通俊も天皇の親愛が熱く、経信や大江匡房などの先輩をさしおいて撰者に任ぜられた、というやっかみもあったらしい。また、その後の歌壇は、経信の子の俊頼の系統が主流になるので、彼らが実質以上に『後拾遺和歌集』を誹謗した、ということも考えられる。
>『袋草紙』によると、この「小鰺集」という仇名は、秦兼方が自分の歌を入れてもらえなかった腹いせにつけたのだという。そうなると、どっちもどっちという感じで、なおさら話は俗っぽくなって来る。(p.24-25)
なんてゴシップだらけのエピソードにふれると、勅撰和歌集とかいってもウラにはドロドロしたものあったのねって感じで、いやー、そんなもんか、人間なんて昔もいまも変わんないんぢゃないの、って気になる。
コンテンツは以下のとおり。
この本の宣伝のための架空講演
人異篇 第一
1 奇行
 長柄の橋井出の蛙 増賀上人の入滅 強盗に返した小袖 鋳物師と枕草子
2 執着
 小鰺集という仇名 ますほの薄の事 鬼と戯れる染殿の后 愛玩の鶉を焼く侍 隠した銭を守る蛇 極悪者源大夫の往生 経をよむ髑髏の舌
3 宿恨
 悪霊の左大臣 朝成生霊となる 広相の死霊犬となる 行基悪霊を見破る
4 遊魂
 水中に見える妻 海底からの遠隔感応 カントも認めた事実 青い火の玉の遊魂
5 予知
 脈搏で津波を知る 眠ったまま相手を倒す 予知能力のなかった行基 豆をはさむ慈恵僧正 入滅を予告した僧
6 占験
 障子越しの観相 伴善男の大きな夢 餓死した観相家 待ち伏せていた法師 命あっての僧位 勘文を信じない白河院
7 術の一
 涙で病を治す験者 父を蘇生させた浄蔵 浄蔵の将門調伏
8 術の二
 地神に追われた陰陽師 呪い殺された算博士 式神を隠した安倍晴明 晴明道摩の術を見破る 式神に殺された陰陽師
9 術の三
 道範外法の術を習う 陽成天皇外法を習う 口を利く外法使いの人形 馬の沓に変わった饅頭
10 名人
 眠りながら打つ鼓 百割る二を算盤で弾く 菓子を弁別する老中 老姥、鼓の上達を知る 碁の名人に勝つ怪しい女 曲を逆様に吹く笛の名人
11 武勇
 名人の矢を外す従者 目をつぶった加藤清正 隣家の刃傷を察知した居候 死人を警戒する武者 強盗を切り捨てる飛脚 源頼信人質を救う
12 大力の一
 馬を差し上げた中小姓 大石を投げる道場法師 硬くて歯の立たない握り飯 成村と常世の対決
13 大力の二
 宗平に挑んで敗れた時弘 負けて出家した相撲 相撲を押しつぶした重忠 公達、相撲の首をくじく 踵を千切った大学生 二階の戸をたたく大男
14 長寿の一
 八十九歳で子を設ける 百五十五歳の志賀随応 薩摩から届けられた箱 武内宿禰と浦島子伝説 死んだ白箸翁を見かける
15 長寿の二
 ケチで長生きした荻野喜内 枸杞で長寿の竹田千継 灸で長生きをした満平
神怪篇 第二
1 不死
 入京した八百比丘尼 霊水を飲んだ越前の大男 生き残った常陸坊海尊 地仙丹と地骨酒
2 神仙
 殺されても死なぬ仙人 石羊になった修羊公 城市を移動させる太玄女 左慈、曹操を翻弄する
3 詐術
 始皇帝を欺いた方士 『史記』、武帝を皮肉る 寒食散を飲みすぎた道武帝 錬金術に失敗した劉向
4 仙道
 白石を煮て食った鮑靚 空を飛んだ陽勝仙人 子供の竿に追われた仙人
5 法力
 材木を飛ばした久米仙人 尸解仙となった都良香 雷神を縛った泰澄
6 飛鉢
 空を飛ぶ米俵の列 寂照が飛ばした鉢 空中で鉢を襲う鉢
7 死後
 死後の霊を疑った孔子 天に帰る魂、地に帰る魄 城隍神も手を焼く鬼
8 冥府
 中国で格の下がった閻魔 現世の官庁を模した泰山府 賄賂をつりあげる冥吏 清廉で飢えている神
9 地獄の一
 供応を催促する冥吏 死者と口論する冥吏 小野篁、藤原良相を救う 藤原高藤、篁をおそれる 藤原重隆、死後冥官となる
10 地獄の二
 無間地獄に落ちた源義家 現世に出張して来る地獄 母を殺そうとした防人
11 証言
 三途河を渡った広国 地蔵に助けられた盛高 牛頭の非人に捕らえられた金持ち 四十日目に蘇生した行者
12 実見
 ギリシャの冥府タルタロス 冥府に交渉に赴く県令 富士の人穴を探る新田四郎
13 地蔵
 馬上から拝まれた地蔵 地蔵と閻魔は同一の仏 戦場で矢を拾う地蔵
14 転生
 牛に生まれ変わった恵勝法師 鯰に生まれ変わった父を食う別当 二度も馬に生まれ変わった乳母 転生による報復は繰り返す
15 前生
 牛から生まれ変わった僧 犬の吠えるのに似た読経 どうしても覚えられない経文
16 再生
 伴大納言の生まれ変わり 官僚政治家の理想像 花山院の前生は大峰山行者 藤蔵再生して勝五郎となる
17 記憶
 自家に生まれ変わった非熊 縛られた熱田大宮司 握りしめた掌の文字
18 鬼の一
 こわくない中国の鬼 無鬼論に負けて怒った鬼 人を食う仏教の鬼
19 鬼の二
 庁舎で鬼に食われた役人 節穴から鬼に引き出される 追って来る繩状の鬼 鬼となった猟師の老母
異類篇 第三
1 霊威
 なぐりかかる門額の字 通行人を踏みつける逆髪の童子 清正の鉄砲悪口に怒る
2 器物
 杓子と話をする枕 鞠の精と問答した成通 窓から顔をのぞかせる法師 名刀にうなされる足軽
3 木精
 人夫を蹴殺す木の精 木から飛び出す妖怪 主人に説諭される松の木 夜ごと現れる石の馬
4 野猪
 普賢に化けた野猪 野猪とむささびは光る 生贄を膾にしようとする猿神 猿神をとらえた旅の僧
5 蟇
 鼬の精を吸いとる蟇 人を転ばす陽明門の蟇 細川勝元の本性は蟇か 蛙合戦と政情不安
6 川怪
 人を水に引きこむ怪 鉄砲で打たれた河童の図 夜ごとに現れる亀の怪
7 虫怪
 報復にやって来た蜂の大群 寸白が生まれ変わった国守 鏡のように光る谷間の蜘蛛
8 猫怪
 主人の枕頭で踊る猫 「南無三宝」と声を出した猫 尾を切られた老母 妖鼠と戦う忠義な猫
9 狐怪の一
 狐の法事によばれた僧 馬に乗せてもらいたがる若い女 狐に化けた詐欺師
10 狐怪の二
 狐と暮らす賀陽良藤 門限を守る尾張藩の狐 人に憑いて食事をする狐 足軽狐との約束を破る
11 狐怪の三
 先住権を主張する狐 石を投げこむ騒霊 歌をまちがって書く狐
12 龍譚
 最初はなじまなかった龍 昇龍の多くは龍巻か 山崩れから現れた龍頭 硯の中にひそむ龍

コメント
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