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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

横浜駅SF

2017-06-25 18:17:19 | 読んだ本
柞刈湯葉 平成28年 カドカワBOOKS
たしか5月の連休のおわりに、書店で見かけて、つい買ったやつ、最近になってやっと読んだ。
表紙向けて並べてあったの見て、タイトルと、ごちゃごちゃしたカバーの画が気に入って、なんだこりゃと笑いそうになった。
帯に「緊急重版」とか書いてあるわりには、私の買ったのは初版だった、どういうこと、そういう宣伝のしかたあり? ま、いいけど。
横浜駅ったら、通りがかるたびに、あてもないようなというか果てしないというか工事が延々と続けられているんで、そういうネタかと思ったんだけど。
予想よりもデカいスケールで、膨張をつづける横浜駅によって本州全土が覆われてしまっている世界。
どうも勝手に自己増殖をしてて、構造遺伝界ってのがその仕組みらしいんだけど、そういう理屈は考えてもしかたないので、はあ、そうですかと受け入れて読むしかない。
とにかく、どんどん構内通路が延びてって、エスカレーターとかも自然に生えてくる。横浜駅が積もり積もったせいで、富士山の高さなんか四千メートルを超えてる。
ただ海が渡れないそうなので、北海道と九州には広がっていない。なんとか海峡を突破しようとしてくる横浜駅を、JR北日本とJR福岡が迎撃して阻止してる。
四国はどっかの大橋を伝って横浜駅が延びてきちゃったので、無政府状態。
そもそも日本政府なんて消滅しちゃってる。
最終戦争らしきものが200年以上前に終わってて、化石燃料はない、どっからともなく電気は作られているけど。
横浜駅の内側であるエキナカでは、自動改札というロボットらしきものが見張ってて、ルール違反を犯した人間は駅の外へ放り出される。
駅の外で生きていくのはなかなか厳しい、駅のなかでは何かと必要なものは駅が勝手に生成してくれるようなんだけど。
で、一応の物語は、駅の外の三浦半島のどっかあたりと思われるところで育った少年が、横浜駅に反逆する組織の男から譲り受けたキップで駅のなかへ入り、目的地目指す冒険譚ということになる。
「42番出口」を目指せっていうんだけど、これ、42って、なんかのSFのオマージュだよねと思った。
読んだことないけど、何か宇宙の究極の質問の答えが見つかって、コンピュータがはじきだしたのが「42」っていう話があるんぢゃなかったっけ。
そうそう、JR統合知性体って鉄道ネットワークをベースにした巨大人工知能から、このお話のいろいろが始まってるらしいが、人工知能には興味があるね、最近。
あと、各章のタイトルもそうだけど、いろんなSFの元ネタをぶちこんでオモチャ箱化することで遊んでるとこがあるような気がする。
ある登場人物が、脚のないヒューマノイドに出くわす場面があるんだけど、そこで「なんで脚がないんだ。そういう設計なのか? 偉い人が文句言わなかったのか」っていうセリフが出てくるんだが、それってガンダムからだよね。
章立ては以下のとおり。
1.時計じかけのスイカ
2.構内二万営業キロ
3.アンドロイドは電化路線の夢を見るか?
4.あるいは駅でいっぱいの海
5.増築主の掟
6.改札器官
エピローグ
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食と文化の謎

2017-06-24 18:30:41 | 読んだ本
マーヴィン・ハリス/板橋作美訳 2001年 岩波現代文庫版
こないだ読んだ、丸谷才一の『青い雨傘』というエッセイ集のなかに、本書が紹介されていて。
>たちまち重版になつたのを見てもわかるやうに、じつにおもしろい。翻訳もいいなあ。(略)ヒマでヒマで困つてゐる人は、ぜひ御一読あれ。(p.220「牛乳とわたし」)
と、そこまですすめられたら読まないわけにもいかず、さっそく文庫買って、読んだ。
雑食動物である人間は、なんでも食うんだけど、食用可能なものでも、世界のある地域では好かれていても、ある民族は食わない、忌み嫌うといったものがある、それは何でかっていう話。
食文化とか伝統っていうんぢゃなく、そこのとこの理由を、コストとベネフィットの差引勘定によるものであるって説明を試みる。
狩猟採集者についていえば、最善採餌理論とかいう、捕獲採集に費やす時間に対して獲得できるカロリーの比率が最も高いものを捕まえるというセオリーがあるらしいんだが、牧畜なんかについてもそうだというわけだ。
インドで牛を殺さないのは、人と餌の穀物の競合がなくて、病気に強くてスタミナがあって農業のために効率よく働いて、ほかのどの動物よりも貢献してくれるからだという。
イスラムで豚を嫌うのは、反芻動物ぢゃないのでワラなど食わないから人間が食べられる穀物を分けてやらねばならないのと、暑さに弱いので人工的に日陰をつくって泥のなかでころげまわるための水も用意する必要もでてきて、とにかくずっとコストがかかるからだという。
インドにしても、イスラムにしても、宗教が関係してくるんだけど、そこんとこも、
>(略)宗教は、既存の有益な慣習にそった決定をひとびとがするよううながすばあいに力を獲得するのである(略)(p.97)
と、コスト‐ベネフィット関係をうまく説明するために、宗教のタブーは後づけされてるもんだと決めつける。
ほかにも、ヨーロッパで時代によって馬肉が食ったり食わなかったりされるのは、戦争に必要な優秀な馬が多く必要なときは、教会と国家が馬肉を禁止して、馬が増えて他の肉がへると禁止がゆるめられてきたからだという。
アメリカで牛肉の消費が増えたのは、育てるのにはトウモロコシをえさにやる豚と手間ひまに大差はなかったが、自宅の庭でのバーベキューと出かけたときのハンバーガーという消費形態の変化もからむとしている。
どうでもいいけど、ハンバーガーの規格は100パーセント牛でなければならないが、べつの牛の脂身を加えてもいいので、一番安い牛肉である痩せた放牧去勢牛の肉に、ステーキ用の太った飼育牛のそぎ落とした脂肪を混ぜることで、両方の牛の消費がうまくバランスとれてコスト下がるんだそうである。
あと、丸谷才一のエッセイにもあった、ヨーロッパ人とちがってアジア人は牛乳飲むと消化できなくておなかがゴロゴロする件については、中国ではスキ耕作に依存しない農耕だったので牛を飼わなかった、また羊やヤギも酪農用に飼う経済的必要性はなかったとしている。
ちなみに、ヨーロッパ人はカルシウムをとるために牛乳を消化する酵素をもっているが、それができない中国人は大量の濃緑色の葉物野菜を食用に使うことで栄養をカバーしているという。
章をおっていくと、だんだんヘンなほうに進んでいくんだが、昆虫についてもとりあげている。
もちろん、昆虫を食えというわけではなく、
>わたしは、ただ、少しでもましな説明を提示したい、と思っているだけだ。思うに、われわれはなんでも逆に考えている。(略)わたしたちが昆虫を食べないのは、昆虫がきたならしく、吐き気をもよおすからではない。そうではなく、わたしたちは昆虫を食べないがゆえに、それはきたならしく、吐き気をもよおすものなのである。(p.213)
と、けっこう冷静。
なので、ヨーロッパ人が虫を食べないのは、
>一定の収穫量に対する時間的、またエネルギー上のコストという点からみると、大部分の昆虫は、普通の家畜や多くの野生脊椎動物、無脊椎動物にくらべて非常におとっている。(p.229)
っていう理由にすぎないとしている。で、逆に熱帯地域に住むひとびとのなかで昆虫を食べる文化があるのは、大型脊椎動物を手に入れる機会が少なくて、食物品目の幅が広いからではないかという結論にいたる。
虫を通り過ぎると、こんどはペットの話になる。
>ある動物種がなぜ食べられず、そしてなぜ忌み嫌われる動物ではなくペットにされるのかは、一つの文化の、食料その他、有形、無形のすべてをふくむ全生産体系のなかにおける、それらの適合性のいかんにかかっているのだ。(p.252)
ということで、西欧人が犬を食べないのは、例によって、肉の供給源として効率が悪いからだという経済的な説明になる。
ペットのあとには、とうとう人間のはなしになるんだが、どうもこのあたりが、私はよく知らなかったんだけど、この著者である人類学者が異端扱いされる原因らしい。
ちなみに、とりあげる食材については基本的に肉なんだが、肉が食いたいってのは人間の本性なんだからってとこから、すべての議論はスタートしている。
>穀類が人類の主食になったのは、ほんの一万年前、農耕という生産様式をとりいれてからのことである。麦や米中心の食事は、肉中心の食事より、人間の本性にとって「自然」なものである、と主張する人は、文化にせよ自然にせよ、なにもわかっていない。(p.50)
それは賛成だな、牙のない肉食獣だ、人間は。
章立ては以下のとおり。原題は「GOOD TO EAT」、1985年の出版。
プロローグ 食べ物の謎
第一章 肉がほしい
第二章 牛は神様
第三章 おぞましき豚
第四章 馬は乗るものか、食べるものか
第五章 牛肉出世物語
第六章 ミルク・ゴクコク派と飲むとゴロゴロ派
第七章 昆虫栄養学
第八章 ペットに食欲を感じるとき
第九章 人肉食の原価計算
エピローグ 最後の謎
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横しぐれ

2017-06-18 18:31:39 | 丸谷才一
丸谷才一 1990年 講談社文芸文庫版
ことし1月だったかな、古本屋で買った、丸谷才一の短編集。
1992年の三刷だけど、以前の持主の'95って書き込みがあるよ。
収められてるのは四編。
「横しぐれ」
国文学研究者の「わたし」が語る中編。
町医者だった父が、亡くなる前に話した戦前に四国に旅したときの思い出話、そのとき出会ったという乞食坊主について、息子は山頭火だったのではないかと想像する。
話上手でうまいこと酒をおごってもらった坊主は、横しぐれという言葉にえらく感心して去っていったという。
横しぐれという言葉については、源頼政がある歌合のときに用いたところ、判者の藤原俊成が「優にもきこえすやあらむ」とか咎めたという由来があるという。
語り部の「わたし」は、
>さういふ正統思想、古典趣味、保守主義と決定的に対立する何か直接的なもの、露骨なもの、粗野なものを、この「横しぐれ」といふ言葉は持つてゐるのだ。(p.67)
と分析しているが。
どうでもいいけど、巻末に「文庫版のためのあとがき」っていうのがあって、著者がこういう題材をこういうふうに書きたかったと解説したりしている。
書きたいことを書きたいように書けるんだから、やっぱ、うまい。
「だらだら坂」
若いときにした喧嘩の記憶のひとりがたり。
戦後五年目の道玄坂近辺で、刃物をもってカネをたかるゴロツキ三人と喧嘩した話。
「中年」
新聞社につとめる四十男の話。
死んだ姉の思い出や、兄は自分のことを故郷を捨てた裏切りものだと怨んでいたのだと気づいたことなどが、物語の流れのひとつ。
もうひとつの織糸は、、むかし家庭教師として勉強を教えてやったことのある、今は新劇俳優の男の結婚にまつわる相談にのること。
「初旅」
新宿に住む高校三年生になる有吉が、母と叔母に頼まれて、家出をしたらしい従弟の啓一を探しにいく。
手掛りははっきりしないが、盛岡の牧場で働きたがっていたというので、ひとり汽車に乗って盛岡へ旅することになる。

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蚊がいる

2017-06-17 18:11:11 | 穂村弘
穂村弘 平成29年2月 角川文庫版
たしか、同じ著者の『もしもし、運命の人ですか。』と一緒に、ことし2月末くらいに買った、当時新しく出てた文庫、読んだの最近。
歌人の穂村弘さんは、あいかわらず日常のいろんなことをうまいタイミングで処理できなくて困ってます。
街頭でティッシュペーパーを配ってるひとを見ると、自分には必要ないから受け取らないって心に決めるのに、距離が近づいてくるとどうやってかわそうかとドキドキしてしまったり。
渡そうとしてるのを受け取らないのはいけないことなのではないか、とか妙な心配するからプレッシャーを感じる。
>普段ティッシュを配っているひとは、渡される立場になったとき、どうしているのだろう。正解を教えて欲しいものだ。(p.176「配られるマナー」)
だなんて言ってますが。
>もともと内気なわけじゃなくて、波長がズレているこの世界では、うまく生きることができなくて心が削られるから萎縮してしまうのだ。(p.28-29「内気だけが罪」)
とか自己分析していますが、改善はできない、居場所がみつけらんないし、ひとと自然にコミュニケーションできない。
そこを堂々と書いてくれるとこがおもしろいからいいんだけど。
今回いちばんおかしかったのは、
>そんな私がいちばん怖ろしいと思うのは、オーケストラやブラスバンドなどでシンバルを鳴らす係である。ずっと出番がなくて、「ここだ」というところで一回だけジャーンと叩くこともあるらしい。なんという重圧。(p.45「咄嗟のタイミング」)
という一節。ムリだ、ムリでしょ、それは。
だって、音楽どうこうぢゃなくて、いろんなことが難しいと思い詰めてるのは、そういうタイミングをはかる系のことだけぢゃないんだもん。
>特急電車のリクライニング席もそうだ。自分にとって最も快適な背もたれの角度がわからない。ひとつに設定しても、座っているうちにもっといい角度があるように思えてくる。だから乗っている間中、微調整を繰り返してしまう。(p.112「ふわふわ人間」)
とか、相手のいないことでも逡巡しちゃうひとなんだから。
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熊から王へ

2017-06-11 18:31:01 | 中沢新一
中沢新一 2002年 講談社選書メチエ
前に『人類最古の哲学』を読み返したら、とてもおもしろかったので、ほかのも読みたいと思っていた“カイエ・ソバージュ”のII。
2001年から2002年にかけての大学での講義録、とても読みやすい。
重要なテーマは、対称性、人間と動物のあいだに同等の関係が成り立っていた社会。
タイトルにでてくる熊は、その動物側というか自然界の代表的存在。
世界のどこでも古き狩猟社会では、熊を刈ったあと解体するときは、非常に慎重にとりあつかって、魂を送り返すような儀式を行う。
そうすると、熊は身体は死んだけど霊みたいなものが動物のところにかえって、丁重にもてなされたことを他の動物にも語り、自然の恵みをまた人間たちにもたらしてくれる。
ところが発達した武器で乱暴に動物を虐殺するだけになると、人間は自然から一方的に奪うだけになり、対称性が壊されてしまう、その結果、自然も人間をやさしく迎えてくれることはなくなる。
対称性の成り立ってた社会では、熊と人が夫婦になったり、兄弟・親子の関係を結ぶような神話が伝えられてた。
あるいは、人間が熊になることもあるし(皮をかぶっただけで熊になってしまう)、熊が人間に変身することもできた。
そんなことあるわけないじゃん、バカバカしい、とか言うひとに、中沢新一先生は厳しいよ。
>そうしてみますと、人間が熊に変容していく可能性を、いかなる意味においても否定する近代科学などは、あさはかな思い上がりによって、象徴を操る詩的生物としての自分たちの本性を、正しく認識する能力を失ってしまっていると、言えるのではないでしょうか。(p.76)
とか、
>神話の思考をあわれむような目で見ている現代の私たちこそ、おびただしい映像の洪水と、マスコミをつうじて絶え間なく繰り返される独善的なものの考えに取り囲まれて、スクリーンに投影されたありもしない幻影を信じて生きている、救いがたいポストモダンの「洞窟人」なのではないでしょうか。(p.61-62)
とかね。
ちなみに、「詩的生物」っていうのは、人間の脳のニューロン組織の発達によって、異なる領域を横断していく流動的知性の活動ができるようになって、比喩をつかった言葉ができるようになったのが、現生人類の特徴だということ。
『俳句の海に潜る』でも出てきた、ホモ・サピエンスとは詩を作れるヒトって論理、とても刺激的、かっこいい。
だから、熊は人であり人は熊である、みたいな比喩的な思考ができないひと、ありえないとバカにするひとは、実はそっちのほうが野蛮なんぢゃないのということになる。
そんなの学問ぢゃないでしょ、みたいな反論にも中沢新一先生は負けないよ、
>こういう「ポエジー」の精神にみちた学問を、もういちどよみがえらせてみようではありませんか。荒唐無稽がいつか真実に変わるような学問。人間を本当の意味で豊かにする知性とは、そういうものでなければならないと、私は信じます。(p.166-167)
とまで言ってるから。なんか開き直りにもみえなくもないが(笑)
かくして本書は、熊や自然との関わりかたから、たとえばインディアン社会におけるシャーマンや首長の存在に触れて、やがて王や国家の発生について説いていくんだが、
>国家の発生については、これまでにもいろいろな考えが提案されてきましたが、神話的思考の分析からそこへ踏み込んでみようとする私たちのような試みは、たぶんいままでになかったものだと思います。(p.155)
と言ってるのには、なるほどととても興奮させられる。
序章 ニューヨークからベーリング海峡へ
第一章 失われた対称性を求めて
第二章 原初、神は熊であった
第三章 「対称性の人類学」入門
第四章 海岸の決闘
第五章 王にならなかった首長
第六章 環太平洋の神話学へI
第七章 環太平洋の神話学へII
第八章 「人食い」としての王
終章 「野生の思考」としての仏教
補論 熊の主題をめぐる変奏曲

どうでもいいけど、今回買った2006年の12刷、3月の新橋の古本まつりで手に入れた。
知らなかったんだけど、奇数月に定期的に市が開かれてるらしい。とてもいいことだ。
(5月はその週は出張で不在にしてしまって行けなかった。)

ところが、読み終わってから最後のページの古本屋の値札をあらためて見たら、前によく行った(住んでたんで駅行くのに前を通るとこにあった)学芸大学の古本屋さんだった。
なーんだ、まだ健在なのかな(創業はたしか昭和二十年代である、あの街はけっこう古い店が多い)、こんどまた店をのぞいてみよう、と思った次第。
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