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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

現代落語論

2017-11-26 18:33:48 | 読んだ本
立川談志 1965年・2011年第2版 三一書房
柳朝の一代記や小朝の本を読んでて思ったんだけど、そう言やぁ私は談志家元のかの有名な『現代落語論』を読んだことがない。
こりゃあ怠慢だったな、やっぱ一度は読んどかなきゃと、最近になって読んでみた。
現代っていっても出版されたのは50年以上も前だ、でも名著はありがたいことに新刊書店にちゃんとおいてある、2016年で第2版の6刷を重ねている。
サブタイトルが「笑わないで下さい」ってついてるんだが、これは冗談ではなくて重要なテーマ。
いわく、
>笑いを求めてくるから笑わせて帰す。それでもいいけれど、下手にこれをくり返しているとだんだん笑いの量で勝負するようになり、誰にでも、子どもにでも分るような笑いをふりまいているうちに、ラセン階段を下るがごとく、だんだん笑いの質が低下する。(p.40)
っていうんだが、すごいね、これ、50年前に言ってるってとこが。
なんでも大きく笑えばいいって状況に取り囲まれてしまうと、人情噺ができないという危惧もある。
>近ごろでは、そんな噺を演じた時には、お客さんにとってはそれこそ迷惑だろうし、ちょっとでも笑う部分が入るとそこで、爆笑になってしまい、下手をすると噺のおさまりがつかなくなってしまう。
>だからこの節は、この種の噺を演じる時は、つねに観客を笑わせないように、笑う間をあたえないように、
>“これは笑う噺ではないんです”
>といわんばかりに、やらねばならないような状態にまでなってきている。(p.234)
って言ってる「近ごろ」がやっぱ50年前のことなんだが、その後も日本はなんにも変わってないという気がしないでもない。
笑いの質を問うんだから、大衆を相手にしていながら大衆に対してウケることに厳しくもなる。
>人間誰しも笑うことはできる。お金をだせば寄席へ入れてくれるし、入れば落語を聞くこともでき、おもしろいところで笑えばいい。どこで笑おうと本人の勝手だ。
>しかし、もしこの種の人たちが、数が圧倒的に多いということだけで、大衆と呼ぶならば、すくなくともわたしの好きな落語は大衆的ではないし、したがって大衆のものでもないといえよう。
>逆にいえば、落語が大衆演芸だと錯覚された時に落語の持つ本当のよさは失われ、そして落語の堕落が始まったのだ。(p.268-269)
うーむ、思うひとはいるかもしれないが、それ堂々と言っちゃうひとはなかなかいないような気がする、楽屋以外の場所でね、本にまでしちゃって。
一方で、落語にやたらと詳しくて、批評会を開いて、ああやれ、こうやれ、そこはそうしたらおかしい、とか言うひとたちもあまり好きぢゃない。
>昔どおりに噺を演ろう、という理由はよくわかる。(略)江戸をちゃんと再現しようというのも、わかる。
>しかし、昔をバッチリやろうとするあまり、背景の一部分一部分にスポットをあてられたんじゃあ、チト困っちまう。(p.138)
というスタンスである。
正統に古典をやろうと思えば、うまくできるんだけど、そこにとどまんないからねえ、家元は。
噺の途中で、自由自在にストーリーを離れて、べつのことしゃべったりするの得意だったし。
どうでもいいけど、落語のやりかたとして、非常に参考になったのは、「志ん生は色彩であり、文楽は写実だ」というある画家の言葉を解説してあるところ。
人物や風景をリアルに描写することは必要だけど、笑いのためには写実だけではないという。
>落語を語るとき、写実で演じてゆくか、笑いを先にして、写実をあとにするかが、たいへん微妙な問題なので、この点で古今亭志ん生の演じる落語は完全に笑いが先行する。落語の会話として不完全になったとしても、笑いのあるほうをとっている。(p.203)
といって『宿屋の富』の男の大ボラの例をあげてるんだが、それはとてもわかりやすい。
え? 現代落語論って、其の二があるの? それは読まなきゃいけないような。
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なつかしい芸人たち

2017-11-25 21:22:07 | 読んだ本
色川武大 1989年 新潮社
前回のつづき、ってのは、同じとき買った古本で、芸人に関するものってことで。
色川武大っていっても、私は阿佐田哲也の麻雀放浪記ひとつしか読んだことはないんだが。
『江戸前の男』のなかに、色川武大が出てくる。
春風亭柳朝がまだ二つ目のときに、新橋の雀荘で卓を囲んで、たいそう負かされたそうで。
色川武大のほうは、寄席でみたことがあって相手が落語家だって知ってた、で、そのあと一緒に飲んで、年も同じくらいだし話が合って仲良くなった。
別れるとき、「芸人さんが博奕に入れ込むと目付きが険しくなっていけない」と意見されて、しばらくその忠告に従った。
でも、その後ずーっと、柳朝のほうは相手の本名も連絡先も知らないでいるんだから、おかしな関係だ、麻雀仲間の言ってた色さんという呼び名しか知らない。
で、晩年、柳朝が病に倒れたあと、色さんは「銀座百点」という小冊誌のエッセイに、柳朝のことがいかに好きかと書いた、1988年のことだ。
病床でそれ読んで柳朝は泣いたらしいけど、もっと悲しいことにその翌年に色川武大は亡くなってしまう、そんときゃやっぱ泣いたって。
その「明日天気になァれ」って題された文が収録されてるのが、この本。
>はじめ、がんばれ柳朝、というタイトルにしようかと思って、やめた。(略)がんばれ、とつければいいってもんじゃない。
って書き出しは、なんともいい。
ところで、ぜんぶ一応読んでみたんだけど、なつかしいっていうよりも、戦前戦中の話が多いんで、私にはリアルには知らない人ばかりで、とても、そうそう、いたいた、なんてことは言えない。
なんでも10歳くらいのころから、浅草のいろんなとこ行って演芸あらゆるもの観てたらしい、やっぱ小説家になるひとはそうでなくちゃいけないのかね。
コンテンツは以下のとおり。
「化け猫と丹下左膳」
「馬鹿殿さま専門役者」小笠原章二郎のこと
「アノネのオッサン」
「故国喪失の個性」ピーター・ローレ
「流行歌手の鼻祖」二村定一のこと
「ガマ口を惜しむ」高屋朗のこと
「誰よりもトテシャンな」岸井明のこと
「マイナーポエットの歌手たち」
「チャンバラ映画の悪役たち」
「パピプペ パピプペ パピプペポ」杉狂児のこと
「敗戦直後のニューフェイス」
「浅草有望派始末記」
「いい顔、佐分利信」
「怒り金時の名寄岩」
「ロッパ・森繁・タモリ」
「青バット 赤バット」
「超一流にはなれないが」原健策のこと
「ヒゲの伊之助」
「パンのおとうさん」
「話術の神さま」徳川夢声のこと
「明日天気になァれ」春風亭柳朝のこと
「歌笑ノート」
「日曜娯楽バーン」三木鶏郎のこと
「ブーちゃんマイウェイ」市村俊幸のこと
「渥美清への熱き想い」
「とんぼがんばれ」逗子とんぼのこと
「エンタツ・アチャコ」
「忍従のヒロイン」川崎弘子のこと
「リズムの天才」笠置シヅ子のこと
「金さまの思い出」柳家金語楼のこと
「アナーキーな芸人」トニー谷のこと
「本物の奇人」左卜全のこと
「あこがれのターキー」水の江瀧子のこと
「エッチン タッチン」
「有島一郎への思い入れ」
「唄のエノケン」
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浮かれ三亀松

2017-11-23 17:29:28 | 読んだ本
吉川潮 2000年 新潮社
春風亭柳朝一代記の『江戸前の男』を読んで、すぐだったか、古本市で見かけて、思わず買ってしまった本。
柳家三亀松ってひと、知らないんだけどね、私は。
なになに、明治34年生まれで、昭和43年に亡くなった、そりゃあ知らないわ。
それを読んでみようかという気にしちゃうのが、著者へというか前掲書への絶大な信頼であって。
芸人だっていうのは想像できたけど、噺家なんかぢゃなかった、都々逸とか、さのさとか、三味線弾いて歌う、なんていうの音曲師でいいのかな。
ちなみに都々逸の発祥は寛政年間の尾張熱田だっていうのは、本書読んではじめて知った。
おかめという娼妓が二十六文字の唄の後に「ドドイツドイドイ、浮き世はサクサク」という文句をつけたんだと。
で、それはいいとして、この主人公も、やっぱ江戸っ子なのね、木場のあたりの生まれ。
子どものころから、川並っていうんだ、あの川の上で木材に乗って走り回れるような、仕事について。
自然と聞きおぼえた唄なんか歌うと、声がいいもんだから、まわりにホメられて、いつしか芸人になりたいと思うようになって。
ひょんな縁から幇間になったんだが、嫌な客とケンカしたのはまだしも、禁止事項である芸者と恋仲になったことで、やめる。
その後、流しの三味線コンビをやるようになったんだが、関東大震災の翌年に寄席に出るデビューを飾る。
しかし、なんだね、江戸っ子の話はいつ読んでも気持ちがいいねえ。
>要領がよくてテキパキしているのを江戸言葉で「小取り回しが良い」という。
>江戸っ子は「小」を好み「大」を嫌う。小ざっぱりした髪形に小ぎれいな服装をして、小腹がすくと小体な小料理屋の小座敷へ陣取る。日々食するのは鰯や沙魚といった小振りな魚である。(略)
そして、正面切ったい粋よりも、何気ない「小粋」を良しとした。(p.16)
って万事がその調子なのがかっこいい。
三亀松は、芸の世界に入っても、「人一倍の見栄っ張りで、芸人仲間や客の手前、格好をつけたいだけのために大金を使う(p.233)」んで、宵越しの銭なんてもたない気前のいいタイプ。
売れっ子の後輩にポンと高価なオーバーコートとかカメラとか買ってやって、「その代わり俺のことを『アニさん』と呼べよ」とか言ってる。それで、みんなの前でそう呼ばれて、満足してたりする。
まあ、そんなんだから、晩年には美空ひばりから「お父さん」とか石原裕次郎から「おやじさん」とか呼ばれたらしい、それってすごいな。
それはそうと、たいそう女性にもてたらしく、数々の浮名を流したんだが、最大の逸話は、結婚したときに別れ話のついてない愛人が五人残っていて、それを披露宴の途中で抜け出して、切れてくれと回ったってやつだろう。
思い立ったらすぐに行動に移るのがすごいとこだが、主役の新郎がいなくなっちまって、帰ってきたのは四日目の朝だったっていう話。
結婚してからは浮気はしないようにしてたけど、芸人仲間に奢っちゃうのはあいかわらずだから、その年の大晦日には掛け取りが押し寄せたっていうが、ホントにあるんだそんなこと、落語のなかだけかと思った。
なんぼ稼いでも使っちゃうんだけど、芸はたしかだし、そのキャラは相当人気があったそうで。
東京でデビューしたものの、すぐに関西の吉本に引き抜かれる(吉本って昔っからあったのね)んだが、当時の吉本の女社長は、挨拶で顔を合わせただけで、「あの男には客がころっといかれる愛嬌が備わっとる。特にご婦人の客がな。わての目に狂いはあらへん。(p.92)」と言ったそうな。
戦時中におぼえたヒロポンのせいで、晩年はだいぶ心身が不健康になったらしいが、中毒から抜けて回復したら、やっぱとことん粋だったんで、すごいエピソードとして、銀座のキャバレーでの遊びぶりを見て、吉行淳之介が遊蕩指南の弟子入り志願をしたという。
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新版 酒呑みのまよい箸

2017-11-19 18:05:16 | 読んだ本
浅野陽 平成九年 講談社
『酒について』といっしょに9月の古本まつりで買った。
酒、食べもの関係の本が多く並んでたんで、つい、もう一冊くらい、なんて買ってしまう。
古本屋行くと、一冊だけで済むってことはないねえ、私は。
これは、なんとなくタイトルだけで、選んぢゃったんだけど。
だから著者はどんなひとかも知らなかったんだけど、読んでみたら、料理家ぢゃなくて陶芸家だった。
小田原のほうに住んでるらしく、家に客人がくると好きな料理をしてもてなす、その献立をならべたもの。
おいしいものを通じて他人と仲良くなるのが得意なんで、いい食材を手に入れることができて、それを活かすべく知恵をつかって、凝ったものつくる。
まよい箸ってタイトルから、なんか気楽なもの想像してたんだけど、そうぢゃなかった、すごい手のかかった料理だす。
だけど、いろいろ並べられても、私はあんまり食べてみたいとか作ってみたいとかって気にならない、なんでだかわかんないけど。
主張されてんのは、料理は想像力だってことで、決まりきったつくり方ぢゃなくて、そのときの材料で何かおもしろいことできないかって工夫することの重要性があちこちで言われてんだけど。
だしのとりかただって、いつもお決まりの引き出し昆布でとるんぢゃなくて、うんと煮つめてもいいとか、調味料入れる量は数字で説明しない、材料次第で加減が変わるからとか。
うまく私が同意できないのは、たぶん内容が高尚すぎるからぢゃないかと思ってはいる。
>私がしたいのはこういうことじゃなくて、普通、この料理の温度はここまでだというのを、ちょっと工夫して下げてみた瞬間にみたもの、その過程にわたしは造型意欲みたいなものをみるわけです。(p.70)
なんていうのは、はあ、そうですかとしか言いようがないんだが、それ説明されちゃうと、かえっておもしろくないというか。
掘り下げていくと、日本の文化というか精神構造の話になったりして、他民族に征服されたことないから、仲の良い人たちだけで集まって共通の美意識に従っていよう、ってことになりがちだと。
そういうのは、へたするとすぐ堕落しちゃう、もろい文化だってことで、茶道とか侘びとかは意外とあやういという指摘をしてる。
まあ、精神論はともかくとして、実際の調理であちこちに出てくるこだわりのひとつに、グラデーションってのがあって、そういうのは楽しそうだと思う。
たとえば海老を焼くとき、片側しか焼かないとか。そうすると、片側は生で、反対側は焼けてて、そのあいだには半分火が通ったとこあって。
多くの食材について、そうやって扱うことで、色とか食感とか味とか、ひとつの皿のなかで変化があるのがいいってんで、それはたしかにそうだ、つくるの大変だけど、うまくできたら楽しい。
あと、やってみたいかもと思ったののひとつは、天ぷらを揚げるのに小麦粉ぢゃなくて蕎麦粉で衣つけて揚げるってやつ、それはうまそうだ。
でも、いろいろオリジナリティーを追求するようなこと言ってるわりには、揚げ物に陳腐にレモンかけて食べるんだよね、そいつはどうかと思うよ。
それにしても、いろんな食材をつかいますねえ、あまどころとかしどけとか、私のボキャブラリーには無い。
あ、どうでもいいけど、メモっときたい一行知識があった、「飛竜頭はポルトガル語のfilhosからきた言葉だそうです。filhosとは糯米と粳米の粉を半々に混ぜて揚げた食べものだということです。」
ちなみに、「新版」ってなってるのは、昭和54年に文化出版局から出た初版が絶版になってたのを、再度出版することになったからだそうです。
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酒について

2017-11-18 17:55:37 | 読んだ本
キングズレー・エイミス 吉行淳之介/林節雄訳 昭和51年 講談社
『反死連盟』読んだあとだったかな、9月に古本市で買ったエイミスの、小説ぢゃない著書。
いや、いまだに『ラッキー・ジム』は見つけてないんだが、あまり熱心に探す気はない。
原題『ON DRINK』英国で1972年に出版されたこの本は、そのまんま酒についての本。
この訳書は、ページの下に、註解、エイミスによる註、翻訳の林氏の註、おなじく吉行氏の註がついてんだけど、いきなり最初の吉行註で、
>(略)とりあえず、私の「後書き」を読んでから、本文にとりかかってもらいたい。(略)
>(略)林節雄氏の「解説」の文章も読んでからのほうが、適当だとおもう。
なんて書いてあるんで、すなおにそれにしたがって読んでみた。
「後書き」には、「ところで、この本はやはりかなりハイブラウなもので、最初は取りつきにくいかもしれない。したがって、興味のないところは飛ばして、まず拾い読みすることをおすすめする。」なんて書いてある。
「解説」には、「これは酒の本であると同時にエイミスの文学の延長であり一部であるから」なんて書いてある。
そんなにむずかしいのかなとやや警戒したんだけど、まあふつうにあたまっから読んでって、さくさくと楽しく読むことができた。
エイミスの文章は難解らしいけど、それを感じなかったのは、この翻訳が上手なんだろうという結論でいいのかね。
さてさて、なかみはどんな酒をどんなふうに飲んだらいいかとか、そういうことがならんでたりするんだけど、たしかにハウツーって感じでもないし、ウンチクって感じでもなく、読み物としておもしろい。
ところどころ「G・P」ってのが番号つきで掲げられてて、それはジェネラル・プリンシプルの略で、公理のことだという。
公理って、あれだよねえ、数学でのあったりまえみたいなルールのこと、同じものと等しいものは互いに等しい、とか(だっけ?)。
一読して私が気に入ったのは、たとえば
G・P・4 冷やして飲む酒は、できるだけ冷やして出すことのほうが、できるだけ濃くして出すことよりも大切である。(p.104「酒のいろいろ」)
G・P・5 フルーツジュース、野菜ジュースなどのジュース類、甘味料、強い風味のあるリキュール類などをミックスする酒は、信用の置ける範囲のもので最も安い品物を求めること。手もちのロシア製、ポーランド製の本場のウォトカなどを無駄使いしてはいけない。(p.108「酒のいろいろ」)
といったとこだ。
この「酒のいろいろ」の章は、カクテルのつくりかたがたくさん出てるんだが、吉行註によれば、
>文中のカクテルの処方どおり実際につくってみてもよいが、結局は読んでその文章の味を愉しむための章である。
ということになる。
おもしろそうなレシピがあった、「タイン・ローズ」(THE TIGNE ROSE=マルタ島タイン基地の薔薇)という名前のカクテルで、
 ジンを微量
 ウイスキーを等量
 ラム酒を等量
 ウォトカを等量
 ブランデーを等量
>強く望みたいことは、どの酒も微量におさえることだ。しかも、それを守っても、ショート・ドリンクス用のグラスは背丈が短くて大した分量が入らないのにひどくきく。(略)
>夢想するだけの酒であって、飲む酒ではない。
ということで、「飲む酒ではない」というのは、この酒を教えてくれた砲兵少尉が土曜の昼にこれを3杯ふるまわれて、朦朧とした気分が月曜の朝まで続いたというエピソードが紹介されているからである。
味がどうこう言う以外に、カクテルをつくる手際なんかのことについても文章がいちいちおもしろいのがいい。
たとえば、ノルマンディーって酒のところでは、
>(略)グラスに入れ、猛烈に掻きまわす。氷を加えて猛烈に掻きまわす。(略)
なんて具合で、そうかそこまで掻きまわさなければうまいカクテルにはならないのかと合点がいく。
掻きまわすことについては、このカクテルのつくりかたの前に、うちでバーをやるときの必要な道具についての章があるんだけど、そこではシェーカーを除外している。
>ジェームズ・ボンドには失礼ではあるが、マティーニは掻きまわすものであって、シェークするものではない。濃厚な果物のジュースやリキュール類を使った飲物の場合には事情は多少異るが、そのときでも1分間余分に掻きまわしておけば、満足できる結果がいつも得られることを、これまでに私は見てきた。(p.80「酒飲みとしての道具類」)
ということで、掻きまわせば済むというのが主張されてる。
もっとも、シェーカーの問題点としては、「あまりにも小さすぎて、せいぜい6人前ぐらいの酒しか入れることができない」ということも挙げているんだが。
電気ミキサーについては、掃除しなくていいなら使えばいいと言ってるけど、やっぱ
>私の経験によれば活発に動くスプーンで間に合わないようなことは何ひとつとしてない。
ってことで、手で掻きまわせばいいというのがどこまでいっても主題であるようで。
んー、私はジン飲むときベルモットをちょっと垂らすけど、全然かきまぜないでグラス揺らすだけで飲んぢゃう。
章立ては以下のとおり。
・酒飲みのための文献
・ワイン考(その1)
・ワイン考(その2)
・ワインを買う人のためのガイド
・どの料理にどの酒を飲むか
・海外では
・酒飲みとしての道具類
・君流儀の酒を置く戸棚
・酒のいろいろ
  ショート・ドリンクス
  ロング・ドリンクス
  ホット・ドリンクス
・けちんぼ野郎のためのガイド
  けちんぼなかみさんのたものガイド
・二日酔
・呑み助のための節制食
・飲み過ぎないための方法
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