many books 参考文献

好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

黙約

2018-08-26 17:41:50 | 読んだ本
ドナ・タート/吉浦澄子訳 平成二十九年 新潮文庫版
『村上さんのところ』のなかに、最近のおすすめの小説を訊かれて、村上さんはドナ・タートの『The Goldfinch』がとにかく面白い、だけど翻訳がないので、前作『シークレット・ヒストリー』を読んでみ、はまりますと答えてるのがあって。
編集の註がついてて、『ゴールドフィンチ』も訳されて刊行されたとあるんだが、調べてみると単行本で全4巻だというので、初めての作家だから躊躇してしまい、文庫になってるこっちを読むことにした。
予備知識なんもなしにいきなり取り組んだけど、おもしろいっす。
いきなりプロローグの1行目から誰かが死んだことが書いてある、すぐ右の登場人物紹介欄をみればそれが何人かいる古代ギリシア語クラスの学生のひとりだってことはわかる。
すぐに、その学生仲間でそいつを殺したってことが堂々と書いてある、いったいどういう物語、って困惑する。
舞台はヴァーモント州のカレッジで、そこへ遠くカリフォルニアから運命に導かれて入学することになったリチャードが語り部。
ほかのふつうの学生たちとは一線を画して謎めいたようにみえる一団、ジュリアン教授とそのたった五人の教え子たちに魅力を感じて、そのクラスに入ることになる。
大男で常に冷静な語学の天才ヘンリーと、白い顔赤い髪して黒いマントをふくらませて歩くフランシスと、男と女の美しい双子チャールズとカミラ(なんてネーミングだと思ったが)。
命を落とすことになると冒頭で宣言されちゃいつつ描かれるのが、いつもすこしだらしない風貌で、キーキー大声で話すバニー。
このバニーは困った性格で、友人にカネをせびるのはしかたないとして、ひとの弱点をみつけるとそこ突っつくのが大好きで得意。
語り部リチャードによれば、
>見かけは愛想がよくて、のほほんと無神経なバニーだが、実際はどうしようもなくでたらめな性格だった。その理由はいくつか挙げられるが、なかでも一番大きいのは実行に移す前に考える能力が徹底的に欠如しているという点であった。(p.382)
ということになるんだが、なんかある種の発達障害なんぢゃないかという気がしてくる、そういうのを説明に堕すんぢゃなくて丁寧に描くよね、上手だ。
でも、だからって殺すことないぢゃないとは思うんだが、なんで彼を殺すことになるか追いつめられてく過程がみっちりと書かれていくのが前半、上巻まで。
後半は、失踪が遺体発見という形で明るみになって以降、捜査が入って周囲は騒がしくなってくなかで、秘密を共有する仲間たちが精神的に厳しくなっていくさまが密度濃く書かれている。
少ない登場人物とはいえ、キャラクターの書き分けがなんともいい。
いちばん好人物っぽかったチャールズがアルコールに溺れてくのなんかが痛々しいほど迫りくるものある。
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桜の森の満開の下

2018-08-25 21:51:04 | マンガ
近藤ようこ[漫画]坂口安吾[原作] 2017年 岩波現代文庫版
こないだの『夜長姫と耳男』といっしょに買った文庫本のマンガ。
近藤ようこさんが気になったので、読んでみることにしたわけだが。
夜長姫と同様、原作は読んでない。
主人公は、鈴鹿峠に住む山賊。
旅人とか襲って、怖いものなんか何にもないんだけど、桜の森、花満開の下を通るのは怖い。
被害者のうち男は身ぐるみ剥いで追い払い、女は捕えてきて女房にするというパターンを繰り返してきたのだけれど。
あるとき、男を殺してしまい、女をいつものように連れ帰ってきたのだが。
その八人目の女房というのが尋常ぢゃない女で。
ほかの女を殺してしまえと言うので、山賊は逆らえず、ほかの女を殺して、この女に仕える。
やがて女は都に連れてってくれと言い、都に住むと、女は人の首をとってきてくれと言う。
邸とかに押し入っては、男や女、いろんな身分の人間を殺して、その首をとってくると、女はそれをオモチャ扱いして遊ぶ。
自分よりはるかにヘンな女をおそれつつも、抗えない山賊。
んー、はっきりいって、なんだかよくわかんない話ではある。
原作読んでないでいきなりマンガだからスッと入ってしまったのかもしれないけど、首遊びを小説で想像するしかないって経験してたら、ビジュアル化にもっと衝撃受けたかもしれない。
第一話 鈴鹿の山
第二話 八人目の女房
第三話 都の風
第四話 首遊び
第五話 退屈
最終話 虚空
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男女論

2018-08-19 16:29:26 | 読んだ本
山崎浩一 1993年 紀伊國屋書店
『愛しあってるかい』(1981年)の編集・制作をしてたということを知って、気になっている山崎浩一さんの本、ことし5月に古本まつりで見っけた。
おもに1989年から1992年くらいにかけて、雑誌とかに書かれたエッセイの、男性・女性の関係についてとりあげたのを集めたもの。
その時代は、
>「女たちの意識はススんだけれど男たちの意識はオクれてる」「女たちは元気がいいけれど男たちは元気がない」といった類いの言説を、80年代からのこかた耳にタコができるほど聞かされ続けてきた。(p.235「あとがき」)
というような状況。俺も若者として同時代を生きてたはずだけど、あんまりおぼえてないなあ。
1983年のアンアンのクリスマス特集から女性主導の恋愛ストーリーが始まったというのは、日本史の常識ではあるが、90年代に入るとそのテのイメージの情報が出まわって、パターンが確立されていた、と思う。
>ぼくたちの意識の中には、恋愛とは「私の恋愛」である以前に「~のような恋愛」の集積イメージとして刷り込まれる。恋愛はもはやこの国では個人的な体験などではなく、集団的な幻視なのだ。(略)
>こんな情報資本主義的恋愛環境の中で、だれかが「ああ、恋愛したい」と言う時、その恋愛はすでに特定の、そして既成の物語にすり代わっている。いまや恋愛とは、好みの物語を選択し、それと同化するということと同義なのだ。その物語に合致しない場合は「こんなの本当の恋愛じゃない」ということになり(略)
>恋愛が市場の中で消費できるモノでありモノ語りである限り、それは完成品でなければならない。(略)「未完成品を愛し、それをなんとか自分で完成させる」などという奇特な発想は、もはやこの市場からは消滅しているから。けれど元来、恋愛とはそんな奇特な発想の方に属するものだったはずなのだ。(p.36「エロトマニアの王国」)
なんて言われると、うん、たしかに世の中そんな感じだ、という気はする。
同じようなことは別の章で、結婚相手に不満な女性たちに対して、
>そして、結婚適齢期の男に一方的に「完成品」を求めることが、もはやないものねだりの幻想以外の何物でもないことは、肝に銘じておくべきだろう。そもそも結婚などというものは、元来「未完成品」同士が生活を共にしながら成長するためのプロセスでしかない。「そんなのイヤ、あたしはあたしを幸福にしてくれる完成品が欲しいの!」というあなたは、それなりの激烈な長期戦を覚悟すべきだろう。(p.90「マザコン男に不平不満を言う前に」)
なんて言ってます、まあ、そうでしょう。
恋愛論なんかよりも、私が読んでおもしろいと思ったのは、ドラマとかの登場人物の男女の構成の話。
70年代の小説やマンガや映画やテレビドラマでは、主人公たちのグループには女性がひとり、紅一点ってのが基本パターンだったと。
これは、
>一言でいってしまえば、おそらく当時の女という性(セクシュアリティ/ジェンダーともに)の社会的(パブリック)イメージは、たったひとりに代表させることができるほど画一的なものだったのだ。(p.58-59「トレンディドラマにみる《黒一点の時代》」)
という理由によるものだという。
で、紅一点だった『宇宙戦艦ヤマト』から、男女同数になった『機動戦士ガンダム』の時代を経て、90年代には主要登場人物のなかに男がひとりだけの恋愛ドラマができるとか、逆転が起きたと。
>これはつまり、いまや女性性のステレオタイプが崩壊し、イメージが多様化したのに対し、逆に男性(特に若い男性)のそれはたったひとりによって演じられてしまえるほど画一的なものになっているということではないだろうか。つまり「男はみんなおんなじよ」なのだ。(p.59-60同)
ということで、女性の意識が多様化する一方で、男性の意識は画一化してて、女は「イイ男がいない」と、男は「女は男にどうなってほしいのか、わからない」と、すれ違いが起きて、恋愛市場がおかしくなるのではないか、っつー話なんだが、いいとこ突いてる感じがする。
まあ、そうやって、いろんな現象にスポットあてて解説してくれるとこが独特のおもしろさなんだが、
>いやまあ、意味を探そうと思えばいくらでも探せるけどね。それがぼくの仕事みたいなもんだから(笑)(p.151「ボディコンと「超大国の戦略核兵器」との関係」)
なんて、こういう議論は遊びにすぎないかもしれないけどさぁ、みたいにわかってて書いてるとこがクールだなあと思う。
章立ては以下のとおり。
I 反・恋愛論
II いまどきの女・いまどきの男
III 美とエロスのデスマッチ
IV ポスト・フェミニズムの光と影
V 男と女の未来学
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とりかへばや、男と女

2018-08-18 17:48:10 | 読んだ本
河合隼雄 平成六年 新潮文庫版
河合隼雄さんの本をまた何か読みたいけど、むずかしそうなのはヤだなとか思いつつ、たしか5月の古本まつりで買ったやつ。
『とりかへばや』というのは、私は全然知らなかったんだけど、わが国の古典。
ただし、作者も成立年も未詳、って、おいおい、それぢゃ教科書とかに出てくるわけもなく、私みたいなものが知るわけもない。
一応、平安朝末期の作ということらしく、1201年の『無名草子』において論じられてるというのがその根拠だという。
作者は誰だかわかんないけど、男性説と女性説の両方があるらしい、ほんと誰だかわかんないにしても、そこまでわからんかね。
ストーリーはというと、男と女のきょうだいの話。これが兄と妹なのか、姉と弟なのかも諸説あるらしい。河合先生は姉弟派。
で、なぜか小さいときから、姉は男みたいな性格、弟は女みたいな性格してて、どうにも修正しようがないので、しょうがなく姉を男として弟を女として育てちゃう、父親は二人をとりかえられたらなあなんて思いながら。
どっちも美しいと評判になりながら大人になるんだけど、世間向けには性別逆にしてるんで、嫁にくれとか嫁をもらってくれとか言われても困っちゃう。
かくして、イロイロあるんだが、最後はふたりとも王朝において、男として女として最高の出世をきわめ、めでたしめでたしとなるんだが。
途中のイロイロあるところが、なんせ性別逆にしてたんで、ほかのふつうの平安文学の恋愛とはちがうわけで、そのへんでこの物語の歴史的評価が低いらしい。
なぜにそんなものを心理学者がとりあげるかというと、男と女とか、精神と身体とか、とかく人間の文化は二分法的な思考で秩序をつくろうとするんだが、実際の人間の存在ってのはそんな簡単にはできてない、そういうムリな枠組みにあてはめてとらえようとするから、精神病んぢゃうひとが出てくる、ってあたりの問題意識によるものと思われる。
>平安時代の、男と女の役割が――現代のそれとは異なるにしろ――堅く決定されているときに、それを変換してみせる。それは実に思い切った試みであり、人間や世界を見る、新しい視座を提供してくれるものである。(p.89)
なんて評価してますが。
男と女が立場入れかわってという、ヘンな設定に関しても、性の顛倒ということについて、
>人間は「未分化」な存在を考えたり「反秩序」の存在について考えたりするときに、動物のイメージをよく用いる。「畜生にも劣る」などという表現もある。しかし、動物は人間が勝手に考えるほど無秩序に生きているわけではない。動物で性の顛倒などが行なわれるだろうか。(p.107)
などと未分化イコール動物って言い方はどうなのと言いつつも、古来洋の東西を問わず人間の祭にはトリックスターが登場するもんだという解説もしてくれてる。
私は、最近は対称性思考とかに染まっているので、そういうわりと二分されやすい軸が顛倒する話は大好きだ。
どうでもいいけど、心理学ぢゃなくて、この物語の国語的というか文章読解に関する解説のほうに、私としては興味をもったりする。
>この物語の主人公は誰であろうか。『とりかへばや』には、固有名詞がひとつも語られないのが特徴的である。(p.31)
みたいなことで議論が始まるんだが、登場人物の名前が無いうえに、人物を指す宮中での肩書も出世するにつれて変わってっちゃうから、油断すると誰のことだかわかんなくなるという。
>(略)原文の方を読むと、この頃の文章はしばしば主語を省略し、また、ひとつの文のなかで主語が入れかわったりすることも多いので、ますます何が何かわからなくなる。(略)しかし、逆に「主語、述語、目的語」をそろえてつくる「文」などというものは、人間の意識の自然の流れからすると、随分と無理をしているのではないか、とも思わされるのである。(同)
と、スゴイことを言っている。
そーかー、と思う。日本の古典って、誰が何をどうしたみたいなのがようわからんなと、よく思ったものだが、それって、近代教育で毒された私のアタマのなかのほうが無理をしてつくられて、その視点でみてるからかと、目からウロコ。
使う言語で思考が変わってくるっていうのは、『あなたの人生の物語』でハッとさせられて、以来気にかけているものだけど、そうだよ、きっと平安時代のひとは、主語述語とか5W1Hとかそういうんぢゃなくて、ほんとにあのサラサラと流れてときどき歌が出てきてしまう、そういう文章のような論理で生きてたんぢゃなかろうか。
>このようなことを考えると、この物語は、いわゆる「主人公(ヒーロー)」およびそれをめぐる一人一人の人たちの話なのではなく、川の流れのように滔々と流れる事象を全体として記述しているのであって、川の流れから水滴をひとつひとつ取り出してみても、「流れ」そのものを記述できないように、全体としての流れが大切なのかも知れないとも思えてくる。(p.31-32)
って、そうだよー、日本の物語ってのは、主人公がどうしたとか話のテーマはとかってんぢゃなくて、事象を全体として語ってんだよって教えてくれればよかったんだよ、学校の古文の授業でも、そこがいちばん大事なことじゃん。
主人公論については、べつのとこで、
>この物語をある程度、現代的な小説としてみようとすると、このようになるのだが、当時の「物語」というものは、そのような構造を予想して作られたものではなく、多分に重層的な、あるいは、多中心的な構造をそなえている、と見た方がいいのではなかろうか。つまり、ある特定の主人公についての話である、と思わない方がいいのではなかろうか。(p.112)
というふうにも解説してくれてて、やっぱそうか、そう読めばいいのかと思わされる。
このあたりの全体ってことの重要性については、最後のほうで、やっぱ心理学にむすびついてくるんだけど、
>従って、この世の何かが明確な「目的」としては描かれず、それぞれは大事なこととして描かれはするが、要は全体としての流れそのものがもっとも重要だったと思われる。
>興味深いことに、最近の深層心理学では、人生における過程を重要視し、目的を軽視する傾向がある。これは近代自我を超えようとする試みのひとつである、近代自我の確立という点を目的として見るとき、そこにはある程度の成長の段階を設定したりできるものだが、近代自我を超えて人間の意識を考えはじめると、このような段階的成長ということに疑問を持たざるを得ないのである。(p.252-253)
だなんて、またスゴイことになってくる、この古典はポストモダンなんだと。
自我については、
>『とりかへばや』の頃は、人々は運命や神や天狗や、その他もろもろのともかく人間の意志の力を超える存在を疑うことなく受けいれていたことであろう。現代人は自我の力によって何でも出来るような錯覚を起こしているので、運命などというと馬鹿げていると思ったりするわけであるが、実際のところ、人間の自我はそれほどのオールマイティではない。(p.223)
なんて言ってるところもあって、自我ってなんぢゃいってとこは私は全然詳しくないんだけど、要は近代的思考だけぢゃ解決できないもので人の心はできてるのねって気にはなってくる。
※目次を並べとくの忘れてたので、8月19日追記
第一章 なぜ『とりかへばや』か
第二章 『とりかへばや』の物語
第三章 男性と女性
第四章 内なる異性
第五章 美と愛
第六章 物語の構造
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うつ病九段

2018-08-12 17:47:41 | 読んだ本
先崎学 2018年7月 文藝春秋
サブタイトルは、「プロ棋士が将棋を失くした一年間」。
去年、先崎九段の突然の休場が発表されたとき、もちろん驚いたんだけど。
詳しい理由がわからないので想像するしかなかったわけだが、まあ、年齢もぼちぼち身体のどこか悪くなるトシだろうし、酒の影響で胃腸のどこか壊したんだろうかと心配した。
ところが、ことし春に復帰してしばらくたって、この本が出版されるちょっと前になって、うつ病だったって情報をポツポツ目にすることになった。
うつ病? こともあろうに、先チャンが!?
休場の報以上に驚いたんで、さっそく読んでみることにした。
そんな大変な病気患ったあとで、何を書いたんだろ、って不思議だし。
読んだら、なんか、スゴイなと思った。
こんなの書けるんだ、よくおぼえてられるし、ふりかえることができるな、精神力というかなんなのか人間が強いなと思わされた。
六月に変調を自覚して、どんどん悪くなって、七月から一カ月の入院。
退院したあとが、また大変、ちょっと読んだことない闘病記である。
最後のほうまでいって、また驚いたのは、三月いっぱいまでの休場で四月復帰を目標に回復を図ってるんだけど、この本を書き出したのが一月だという、治って書いたんぢゃなくて途上で書いてたの!?
リハビリの一環になるんぢゃないのなんて気楽なひとは言いそうだけど、ふつう出来ないだろうと思うよ、そんなこと。
読んでてもつらいことばかりだけど、やっぱ将棋の存在が大きいからね、このひとの場合、そこが救われる。
単なる職業ってのにとどまらない何かだよね、自分の全身全霊をかけてきた、かけられるもの。
でも、入院したときは、
>そのころの私はトーナメントプロに戻ろうという欲など微塵もなかった。そのこと自体考える能力もなかった。(p.41)
という状態だったんだけど。
回復してきたときに、いい後輩たちを呼んで、将棋を指すことをするんだが、そこで、
>うつ病はよくなっているかどうかの判断がしにくい病気である。(略)患者自身は本人だから当然のことながら回復の度合いが分かるが、それとて気持ちがすこし持ち上がったような気がするとか、意欲が出てきたような気がするとか、要は曖昧なものでしかないのだ。
>その点、将棋は絶対的なものだということに気がついた。(p.100-101)
ということに気づく、自分がどれだけ集中できているか自分ではっきりわかるんだと、これは大きい。
そういうときに盤を挟んで真っ向から対峙することをしてくれた後輩棋士たちはえらい。
もっとも、棋士という人種のエピソードで、おもしろかったのが別の意味でもあって、入院したばかりのとき、見舞客が来るのだが、
>正直にいえば現金がもっともありがたかった。先輩の棋士はだいたい現金を包んで来てくれて、さすがだなと思った。(p.40)
ってのがそれだが、そういうところが、いい世界なんである。
あと、先崎九段の場合は、実の兄が優秀な精神科医というのも助けられた環境のひとつではあったと思う。
もちろん、入院した病院の医師も、見込みをきかれたら、大丈夫です、治りますって、即答するようなとこはあるんだけど。
お兄さんは、闘病中もずっとアドバイスしてくれて、長々と説明なんかしないでも、毎回「必ず治る」みたいなLINEを送ってきたという。
そのお兄さんが語る、
>時間を稼ぐのがうつ病治療のすべてだ(p.50-51)
とか、
>究極的にいえば、精神科医というのは患者を自殺させないというためだけにいるんだ(p.174)
とかって言葉は重い。
あと、だいぶ回復してきたところで訊かれて答えた、
>「偏見はなくならないよ」(p.171)
っていうのもね。
うーん、とにかくスゴイ、私だったら同じ状態になったら抜け出せるだろうか、自信ない。
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