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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

漫画のすごい思想

2017-08-13 17:57:37 | 四方田犬彦
四方田犬彦 2017年6月 潮出版社
6月に出てわりとすぐに買って、先月くらいに読んだ本。
以前はこういうの見つけるの遅かったりしたんだけど、最近の書店ではサブカル系みたいな一角にマンガ関連のもの集められたりしてるんで、ときどきチェックしてれば探し当てることは簡単になった気がする。
「あとがき」にいわく、
>本書は『日本の漫画への感謝』(潮出版社)の続編にあたり、著者が一九六八年に十五歳を迎えたときから現在までに読みふけった日本の漫画について記したエッセイ集である。
ということで、前著がおもしろかった私としては、読むっきゃないのである。
ただ、まえがきにあたる巻頭の言が「一九六八年にはじまる」と題されてるとおり、私よりは世代が上なので、リアルタイムで読んでない、あるいはまったく読んだことない作家・作品ばかりだとどうかな、という一抹の不安はあったのだが、でも帯に、永井豪とか岡崎京子の名前が挙がっていれば、そりゃそんな間違いはないのである。
ヲカザキについては、本文のなかで、
>本書を終えるにあたって、わたしは岡崎京子を最後に取り上げ、彼女の作品のすばらしさを改めて書き記しておこうと思う。(p.307)
という言い方をしているように、やっぱ著者にとっても特別な存在なんだろうと思う。
六十年代からの作家列伝のトリをヲカザキに飾らせるってことは、やっぱ歴史的重要人物ったら大げさか、偉大なマンガ家って認識があるからなんだろう。賛成!
コンテンツは以下のとおり。
・杉浦茂への回帰 佐々木マキ
・花と山姥 林静一
・生という病い 岡田史子
・なぜに陽気な胸の中 つりたくにこ
・海辺の惨劇 つげ義春
・見てはいけない母親 滝田ゆう
・生の摩滅 楠勝平
・宇宙とは遊戯である タイガー立石
・お座敷と野次馬 赤瀬川原平
・自己解体を索めて 宮谷一彦
・鳥籠の鳥の挫折 樋口太郎
・絵師の来歴 上村一夫
・忘れられた人々 池上遼一
・孤児と狂女 勝又進
・裸でごめんなさい 永井豪
・姉の眼差し 妹の眼差し 樹村みのり
・治癒する者 手塚治虫
・漫画における大衆 バロン吉元
・プロという宿命 ビッグ錠
・白土三平の影武者 小山春夫
・乱気流に呑まれて 淀川さんぽ
・牧歌の変奏 ますむらひろし
・美少女のいけない夢想 村祖俊一
・多元倒錯の悦び 宮西計三
・至福の幼年期の後に 大島弓子
・炭鉱町と水のフォークロア 畑中純
・怪物たちが怖いので…… 高橋葉介
・天狗の黒 黒田硫黄
・オシャレな廃棄物 岡崎京子
・漫画と文学
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先生とわたし

2016-09-13 20:06:11 | 四方田犬彦
四方田犬彦 平成22年 新潮文庫版
四方田犬彦の、えーと、なんだろ、カバー裏表紙によれば「評論」だけど。
1990年に亡くなった、英文学者で東大名誉教授、由良君美(ゆらきみよし)の話。
東京大学教養学部文科三類に入学した著者が、二年に進級した1973年に「メルヘンの論理」という全学共通ゼミに参加したときから、その師弟関係は始まる。
当時助教授だった由良氏は、なんせすごい博学で、あらゆる書物を読破してるとしか思えない存在で、その議論は多岐にわたって飛躍するとみせて、実に理路整然としてたらしい。
その独特の雰囲気に魅かれて集まった学生のせいで、
>こうして由良ゼミは、けっして多人数でないが、東大のなかでどこか正統的な教養に不満を抱いていたり、専攻という狭い枠のなかに思考を閉じ込めることを肯じない学生たちを吸い上げる不思議な役割をもつことになった(p.90)
っていう知の場所が出来上がってったそうな。
>すべて教育には顕教と密教の、二つの側面があるといわれるが、金曜日第5時間目のゼミはまだまだ、たかが顕教に過ぎなかった。実はその後に密教の部分が控えていたのである。(p.34)
といって、ゼミの後に個人研究室に学生が訪ねていってからのやりとりが描かれているが、そういうのってとてもいいなあとは思う。
私なんかは、義務のような発表や討論の時間が終われば、同級のみんなと遊び行っちゃうだけだったからねえ。
で、本書は、ざっと5章からなるんだけど、(1)先生との出会いとそのゼミの内容、(2)先生の業績をはじめとする年代記、(3)先生の出自、特に哲学者である父との関係、(4)先生と著者の決裂、(5)著者の考える「教育」とか「師弟」とかについて、って感じの構成になってる。
厚い信頼関係があったようだったのに、やがて弟子のほうから訣別を決意せざるをえなくなるんで、けっこう悲劇的な話ではある。
どっちにも言い分あるだろうし、当事者にしかわかんない機微一杯ある関係だろうから、なんともそれ以上の感想はないねえ。
ところで、あちこちで触れられてるけど、この由良先生の読書量はハンパぢゃなくて、
>彼はもっぱら読むことの愉しみのために読み、読書の範囲を決して限定しなかった(p.167)
ってあるように、いろんなもの読んで、自分のアタマのなかではそれが整理されてたらしい。
んー、本書読むまで残念ながら私はその存在を全く知らなかったんだけど、このひとの著書をなにか読んでみようか、いま考えてる。



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犬たちの肖像

2015-10-22 21:33:52 | 四方田犬彦
四方田犬彦 2015年6月 集英社
書店で買ったのは7月ころだったかな、最近ようやく読んだ本。
四方田犬彦のエッセイ集、帯によれば「古今東西文学エッセイ集」。
タイトルのとおり、古来、いろんな文学とか映画とかで、犬がどのように描かれてきたか、っていうのがテーマ。
著者のほかのエッセイもそうだけど、書物がいっぱい紹介されてると、すごい刺激的で、私なんかはほとんど読んだことないものばっかだけど、いつか読んでみようかなという気になる。(実行するかはわからないが。)
知ってたのはシートンと里見八犬伝くらいで、『オデュッセイア』とか『マハーバーラタ』については概要もろくすっぽ知らないでいたのは、教養が無くて情けないなあという気がする。
あと、いろいろ例を挙げられてみると、犬の視点で人間世界を描いたって文学作品は思ったより多いんだな、って感想をもった。一度やったらネタとしては終わり、ってわけぢゃないんだ、こういうの。
とりあえず一度読んでみたなかで、おもしろかったのは、「犬をどう名付けるか」という章で、レヴィ=ストロースの『野生の思考』を紹介してるところ。
>(略)名前は名付けられた対象を語る以上に、それを名付けた側の人間のことを物語る。こうした事態から導き出されるのは、その犬の名が何であるかではなく、誰がその犬をそう呼んでいるのかという問いである。
とか、
>(略)構造人類学とは(略)人間が無意識的に過ごしている日常生活の根底にある構造を、冷静な距離のもとに抽出してみせるところから出発する学問なのである。
とか言って、
>犬とは隠喩的名前をもった換喩的人類なのである。
なんて結論に至る。ちょっとむずかしいが、楽しい。
あー、犬、飼ってみたいなー。
コンテンツは以下のとおり。
00 ハーマン・メルヴィルを讃えて
01 乞食の帰還 ホメロス
02 二人の動物物語作家 シートンとロンドン
03 孤独の友だち ブニュエルとセリーヌ
04 犬、人を襲う 鏡花、多喜二、ギャリ
05 四つん這いになる ドヌーヴと金石範
06 犬婿入り 『後漢書』と馬琴
07 冥府より来りて グラス
08 犬を人間にできるか ステープルドンとブルガーコフ
09 犬をどう名付けるか
10 密談ピカレスク セルバンテスとホフマン
11 犬族から遠く離れて パニッツァとカフカ
12 東西名犬対決 『タンタン』と『のらくろ』
13 復員兵という名の野良犬 吉岡実と北村太郎
14 犬の眼でモノを見る ジョイス、原將人、岡部道男、森山大道
15 文学的ジャンルとしての、犬の追悼
16 犬は人なり 谷崎純一郎と川端康成
17 愛犬と闘犬 江藤淳と川上宗薫
18 法(ダールマ)としての犬
あとがき
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ハイスクール1968

2013-12-18 23:44:04 | 四方田犬彦
四方田犬彦 2004年 新潮社
著者の「批評的自叙伝」(帯による)。「どこまでも個人の物語ではあるが、その個人は歴史に属している」(あとがきによる)という思いで書かれたドキュメント。
1968年に東京教育大学農学部附属駒場高校に入学したところから始まるんだけど。
メインは、ほかの著書でも触れられたことがある、1969年12月に「もうこんな高校はやめてしまおうと決意して」、実際にしばらく学校へ行かず、銀座のケーキ工場で卵を割り続ける仕事を始めちゃったとこだと思う。
どうしてそうなったかというと、その前に一日だけ教室をバリケード封鎖したことが関わっている。
同じ年の1月に東大安田講堂で闘争があって、その後いろんなとこでもバリケード封鎖が行なわれて、やがて高校にも飛び火してきたってことは、薄々とだけなら知ってたけどね。
卒業式が荒れるとか、意味がわかんなかったんだけど、当時の当事者たちの事情は、ちょっとだけわかったような気がした。
まあ、紛争はともかく、名門校らしい、個性的な教師や同級生の話や、現代詩や映画やビートルズと出会っていく高校生の感性みたいなものは、楽しく読めた、読み返したのはすごいひさしぶりだけど。
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黄犬本

2013-11-13 21:01:32 | 四方田犬彦
四方田犬彦 1991年 扶桑社
いま二十年以上ぶり(←たぶん?)に、書店の紙カバーを外してみたら、帯に「最新エッセイ」ってあるけど、内容は1989年から90年にかけてのものだ。「週刊SPA!」連載のコラムの2か年ぶん。
どんなこと書いてあったか、今回読み返すまでほとんど憶えてなかったけど、「かばんは靴と同じだから机の上に置いてはいけない」とか、出典忘れてたのに、ずっと私に影響与えてたものもあった。
著者がおもしろいとおもった映画や書物について書いてある回もあるけど、私には興味の共通項がないものが多くて、その後もぜんぜん知らないものばかり。
それよりも、台湾の料理学校の第一日目は「鶏のさばき方」で、まるごと一羽の鶏を巨大な中華包丁で解体することから始まるとか、フルコースというのはロシアで発明されて、狭いテーブルでいかにうまく食べるかというための形式とか、わりとどうでもいい話のほうがおもしろい。
1990年10月の「わたせせいぞうの『ハートカクテル』はバカにでも読める村上春樹である」って章は、タイトルそのままなんだけど、辛辣でおもしろい。
当時、角川文庫が夏目漱石のカバーをすべてわたせせいぞうに描かせたことに憤ったあまり、ケチョンケチョンに言ってんだけどね。
ついでに松任谷由実と柴門ふみについても、「ああいうことを商売にしてる人もいるんだよね、くらいの感想が精いっぱい」とか「上等のセーターの本当の着心地を知っている人間は安物には手を出さない。ただそれだけ」とか、ビシビシ断じてるし。
それはそうと、1988年12月の岩波書店の「ちびくろサンボ」絶版に関する章があって、そこで語られてる憂慮が、きのうからのつながりっていうか、最近読んだ本とも関連してたのが、私にとっては奇遇。
>ひとつは差別を糾弾している市民団体が誰を代表しているのか、という問題である。彼らは(日本人の親子三人で構成されているそうだが)いったい黒人の誰に依頼され、彼らの声なき声を代弁しているのだろう。差別問題でもっとも重要なのは差別された側の当事者の直接の声なわけだが、寡聞にしてぼくは日本のこの場合、それを聞いていない。考慮すべきは、安全地帯にあるある声が別の人間の別の状況の声を代表=表彰してしまうという、今日の政治=社会的システムではないだろうか。(略)
>もうひとつ生じる困難とは、この絶版事件によって、童話のみならず日本のマスメディアにおける黒人の映像が消滅してしまうのではないかという問題だ。白人や中国人の絵は描いてもいいが、黒人だけはウルサい文句が出るから描かないにこしたことはないという暗黙の了解が横行しかねない。結果的に黒人は登場させないということになれば、ここにさらに深刻な差別が発生する。(略)
だって。「紋切型というのはそれを単に禁止したり隠蔽するだけでは不十分で、逆により性質の悪い紋切型を産んでしまうだけだ。」と。
(ちなみに、ちびくろサンボを絶版にさせた「黒人差別をなくす会」というのは、当時小学四年生の子どもが書記長もつとめていた家族三人で、1988年の黒人マネキンや当時の渡辺美智雄自民党政調会長の発言への抗議の報道をみて活動を開始、1990年くらいまでに、次々と出版社に改善を求める郵便を送ったらしい、ってことは『消されたマンガ』に書いてあった。)
どうでもいいけど、本書のタイトルは、「黄色の犬が宮殿に入るならば、入りたるその門は壊れるであろう」という古文書からとられている。
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