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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

おもしろくてためになる法律雑学事典

2019-07-28 18:00:46 | 読んだ本

渡部喬一 1985年 日本実業出版社
また実家の押し入れから見つけた昔々に読んだであろう本。
1990年の12刷なんで、ガッコで法律学とか勉強してるときぢゃなくて、読んだのはそれより後の時期だと思う。
それこそペリイ・メイスンシリーズとか読み始めて、娯楽的に興味を法律に対してもってたんぢゃないかと。
著者は弁護士で、とりあげてる内容は、実際に質問されたりしたものだとしてるけど、気安く読めるようにしたと「はしがき」で言ってて、たしかに難しいところはない。
こういう本で読んでるうちは法律問題もおもしろいんだけど、ホンモノの条文とかってのはなんであんなに読みにくいんだろうね。
コンテンツは以下のとおり。
1 夫婦が夫婦であるわけは―戸籍を読み取る
2 法律でも切れない親子の“きずな”
3 遊びすぎにはご用心! ピンクとブラックの境界線
4 罪と罰はいつもいっしょにやってくる
5 罪と罰のメカニズム
6 向う三軒両隣、トラブルはごめん
7 大家と店子のデリケートな関係
8 うまい話にはウラがある―買い物のルール
9 正々堂々と儲ける法―ビジネスがらみの法律
10 ふだん着の法律の番人たち

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用心ぶかい浮気女

2019-07-27 18:46:57 | 読んだ本

E・S・ガードナー/真野明裕訳 昭和五十七年 ハヤカワ・ミステリ文庫版
ちょっとしたひまな時間があるときにサラサラサラと読む、ペリイ・メイスンシリーズ。
原題「THE CASE OF THE CAUTIOUS COQUETTE」は1949年の作品。
持ってる“改訳決定版”ってカバー裏表紙にある文庫は、たぶん古本だと思うけど、どこで買ったかおぼえていない。
事件は、メイスンが、交通事故を扱ってる別件で新聞に目撃情報を求める懸賞金付き広告を出したとこから始まる。
ドレイク探偵社にとどいた情報提供の手紙は匿名で、ルシールって女性が事故の加害者の車のナンバー知ってるってもの。
それが、彼女の手帳を見てごらんなさいってことで、これで部屋に入れって、アパートの鍵が同封されている。
あやしいったらありゃしない、絶対ワナだという探偵や秘書の意見にもかかわらず、いつもどおり好奇心に突き動かされるメイスンは指定のアパートへ出かけてく。
死体を見つけちゃう名人のメイスンのことだから、これは当然殺人現場に足踏み入れちゃうんだろうと読む側は想像するんだけど、すぐにそうはならない。
言ってみると、「小麦色の髪、陽気な感じの青い目、真珠のような白い歯がこぼれる官能的な口もと、三拍子そろったいい女」と出っくわす。
そのルシールは、訪問者がメイスンと知るや、自分の離婚手当のつりあげを手伝ってほしいなんて依頼するが、これをそういうの専門ぢゃない弁護士はことわる。
求める情報も得られなかったメイスンが戻ってくると、二通目の匿名手紙が来てて、これで引き出しを開けて手帳を見ろなんて、また別の鍵が入ってたりする。
それでもう一度彼女の留守中にトライすると、たしかに車のナンバーが書きとめてあるのを見つけるが、おまけに拳銃も一丁あるのが目に入ってしまう。
妙な展開だけど、とりあえずそのナンバーの車の所有者をつきとめて、当て逃げされて重傷の依頼人のための交渉をメイスンは始めるんだが。
そこで、もう一件、新聞広告への反応があり、ちがう車、ちがう人物がその交通事故を起こしたって情報が弁護士事務所にもたらされる。
ひとつの事故に二台の加害者がいて、どっちも示談はおだやかにしましょうなんて具合に反省してるから、なぜ、どういうことってなる、この理由が本作の大きな謎。
で、自分は事故の逃走車の密告の手紙なんて書いてませんってルシールと、なんだかんだとかかわりあってるうちに、とうとう彼女と一緒に、銃で撃たれた死体を見っけちゃう。
そこで一緒に警察の到着を待つわけにはいかないメイスンは、彼女に警察へ通報するようにって任せて、その場を去っちゃうんだが、言われたとおりに彼女が通報しなかったもんだから、義務をおこたったか隠匿したかって困った状況に置かれてしまう。
窮地に追い込まれたメイスンは、今回は彼女の弁護なんかしないって決めてたはずなのに、離婚手当の相談をされたときから彼女は自分の依頼人だってことにする、そうすれば弁護士と依頼人のあいだのことは表立って説明しなくても罪に問われないから。
殺人現場にルシールといっしょにうろうろしてたのがメイスンだってことを目撃者に認定させるために、警察はあれこれ仕掛けてくるが、メイスンはこれを逆手にとって罠をしかける。
予審では、そのときメイスンを見たって言ってたはずの証人を、ちゃんと見たとは断言できないってとこまで反対訊問で追い込んでいく、これは痛快だけど、ずるいなーという気もする。
かくして、検察側と激しく戦いながら、もう一件の殺人も含めて、動機と犯人を推理したメイスンは、警察のなかでも良好な関係にあるトラッグ警部に対して真犯人を追いつめる協力をする。

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ボーッとディズニーランド行ってんじゃねーよ

2019-07-21 20:09:28 | 堀井憲一郎

堀井憲一郎 2019年6月 双葉社
私の好きなライター、ホリイ氏の新しい本をみつけたので、さっそく読んでみた。
副題は「~ディズニーアトラクション34 本当の物語~」ということで、ディズニーランド、ディズニーシーのアトラクションの元ネタ解説。
「“スプラッシュ・マウンテン”はなぜ急斜面へ飛び出すのか」といったことを、そのバックにある原作映画から明かしてくれるわけで。
スプラッシュマウンテンは、1946年の映画『南部の唄』が原作で、アトラクションが急降下するのは、作中でキツネがウサギを崖の上から空高く投げるシーンからきてるんだそうですが。
まあ、私なんかは、それ知らなくてもべつにかまわない、としか思わないんだけど。
と思ったら、「はじめに」のところに、
>この本は、そういう「ディズニー作品をそんなに真剣に見てなかったのにディズニーリゾートに行かなきゃいけなくなった人」のための緊急本です。
ってあるし、行かなきゃいけなくなりそうにない私にはおそらく関係ないだろうから、いいのかもしんない。
んー、でも、ディズニーであまり意味とか背景とか考えてもしかたがないんぢゃなかったっけ、ただ提供された楽しさを享受してればいいんぢゃなかったっけか。
でも、私は乗ったことなくて知らないんだけど、“白雪姫と七人のこびと”って乗り物の解説のとこに、
>出口のところにいると、唐突に現実へと戻らされた小さい女の子が「えっ、えっ、王子さまは? 王子さまは?」と哀しく叫んでいるのを聞いたことがあります。現実世界には王子さまはいないのだよ、ということを教えているのかもしれません。(ちがうとおもうけど)。二十年後も同じセリフを叫ばないようにお気をつけください。(余計なお世話だとおもうけど)。(p.65)
なんて書いてあるから、そういうときにストーリーというか、物語のどこを切りとったものなのか知ってたほうがいいのかもしれないけど。
どうでもいいけど、「あとがき」までたどりついたら、
>本書は新潮社から出ている『東京ディズニーリゾート便利帖』にあった原作アニメ解説の部分をもとに、あらたに書き加えて一冊の本にしたものです。
ってあって、その本は読んでないからわかんなかったけど、なんだ、焼き直しかー、しょーもない誤植もあるし、なんか雑なのはそんな事情もからんでんのかと思ってしまった。
しかし、なぜ今この時期にそうまでしてこのテのもの出すんだろう、わかんない。

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君がいない夜のごはん

2019-07-20 21:00:53 | 穂村弘

穂村弘 2019年2月 文春文庫版
新しめの文庫なんだが、最近買った中古もの。
単行本は2011年のNHK出版で、「きょうの料理ビギナーズ」に連載されてたものらしい、読んだことないなー。
なかみは、そういうわけで、食べものに関して書いたものが集められている。
とはいえ、なんかめずらしいものとか特別うまいものとかのレポートや、素材や料理法に関するうんちくなんかぢゃない。
著者のエッセイにありがちな、世間のひとのようにふつうに対応することができなくて困っちゃう、といった感じのテイストがいっぱい。
お好み焼き屋にいくと、「混ぜが足りないよ」ってまわりから指摘されちゃうとか、ミスドで“D―ポップ”を頼むと女友達に「ださー」って言われちゃうとか、そういう経験にあふれた日常みたいな。
若い長身のきれいな男の子がホームパーティにお稲荷さんを持参したときの次のような感想とか笑う。
>日本男子はレベルアップしている、と実感した。
>きれいでおしゃれで若い男の子に漏れなく「お手製のおいなりさん」がついてくるのだ。
>きれいでもおしゃれでも若くもない私には「コンビニの菓子パン」がついてくる。
>比較の結果はあきらかだ。後者をパートナーに選びたい女性はいないだろう。
>私は未来における自分の孤独死をありありとイメージした。(p.57-58「苺のヘタをみたことがない」)
食べものの好みに関する話でも、ちょっとそんじょそこらのエッセイとはポイントがちがってたりしておもしろい。
>先日、或る編集者と御飯を食べながら打ち合わせをしていたときのこと。不意に彼女が云った。
>「カレーは温かいのがいいって云う人が多いけど、私は御飯かルウのどっちかが冷たい方が好きなんです」
>「おおっ、俺もです!」
>興奮のあまり、思わず一人称が「俺」になってしまった。だって、人生の四十五年目にして初めて出会ったのだ。(略)仲間だ。(p.99「「どっちかカレー」現象」)
この、自分だけがほかのひとと違うのか、みたいな感覚は、こと食べものについてってなると、ひときわ精彩を放つような気がする。
ある公開対談で、「ところてんを箸一本で食べる」と発言したら、会場に同意してくれるひとが誰もいなくてシーンとなってしまったとか。
それで家に帰ってからネット検索したら、自分の育った地域に特有の習慣だとわかって、ちょっとほっとしたなんて言いながら、そこからさらに妄想がすすむとこがおもしろい。
もし、夜通し検索して、ヒットしたのが一件だけだったなんてことになったら、
>自分以外にところてんを箸一本で食べる唯一人の人。
>充血した目でその画面をみつめながら、私は決意する。
>この人に会いに行こう。
>どこの誰かはわからない。
>でも、運命の人だ。(p.151「ところてんの謎」)
っていうんだけど、このおおげささがサイコー。


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ベスト・オブ・映画欠席裁判

2019-07-15 17:48:43 | 読んだ本

町山智浩・柳下毅一郎 2012年 文春文庫版
これは4月くらいに買った中古の文庫なんだけれども、2002年・04年・07年の『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判・2・3』単行本三冊の再編集版なんだという。
先日も録画しといた「モンキーボーン」って映画観たりして、町山さんの解説はおもしろいなと思ったわけだが。
本書は、著者みずからが「漫才」って称してる、掛け合い型の映画評である。
とっても過激、狭い業界だろうにそんなこと言っちゃってだいじょうぶなの、ってくらいスゴイこと言ってる。
>ハリソン・フォードって最近はどんな映画のどんな場面でもあの表情だからね。世界の支配者になれる聖杯を渡された時も同じ顔。顔面麻痺か?(p.146「男のツボを知り尽くした『チャーリーズ・エンジェル』」)
ってのもよくぞ言ったもんだが、
>ブラッカイマーの映画って予告篇以上のことは絶対に起きない。客がチケットを買えば商売は終わりで、来た客をさらに満足させる必要はないと思ってる。(p.127「『コヨーテ・アグリー』に妄想爆発!」
なんてのも、誰のこと言ってんのか私にはわかんないけど、厳しい。
>僕も何本か字幕やったことあるけど、はっきり言っていい商売だと思ったな。文芸翻訳なんて三カ月ヒイヒイ格闘して六百枚訳してやっと100万円ですよ。ナッチは一週間で適当に訳してウン十万円もらってるんですから。(p.205「『ギャング・オブ・ニューヨーク』の主役は誰なのよ?」)
とか、出演者や制作者以外にも矢は飛んでいくんで、油断なんない、それがおもしろいんだが。
町山さんは、2005年時点で、
>いやあ、今年は本当に面白い映画がないね。これからは夏休みでご家族向けの大作ばかりになるから、ますますロクな映画がなくなるな。失敗したよ、映画評論家なんかになっちまってさ。(p.364「『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』は銀河版『巨人の星』である!」)
なんて嘆いてますけど。
あらためて言われてみるとそうだなと思うんだが、特に邦画においてレベルが低くなってて、それは観客の側にもわるいところがあるみたい。
>でも実際、最近、映画も小説も「行間」がなくなってるよね。
>言葉じゃなくて描写とストーリーにテーマを語らせると「で、何が言いたいわけ? わかんなーい!」って言うバカが増えてるんだな。昔は映画や小説のテーマは絶対に表面には見えないものだったのに。(p.302「小説読んだことも、映画観たこともない人のために『世界の中心で、愛をさけぶ』はあった!」)
とか、
>いや、どうも監督は「全部セリフでわかりやすく説明してやらなきゃ観客にはわからないんだ」と信じてるみたい。(略)
>観客に自主的に考えさせる隙をいっさい与えないんですよ。
>最近の小説やマンガもみんな同じだけどね。「悲しい」とか書き手の感情がそのまま書いてある。それこそ夕日や風景に託して言外に語るという和歌や俳句の伝統はどこに行っちゃったんだ? (p.451「『ALWAYS三丁目の夕日』は皿洗いしながらでもOK! 『クラッシュ』すると桶屋が儲かる?」)
とかって、嘆いている。映像で語るってことをしないんぢゃ、映画って表現方法をとる意味ないじゃんってことなんだが。
画の撮りかたとかって表面的なことだけぢゃなくて、テーマに関わることも現在の映画はダメになっちゃってて、
>映画はお子様向けのおとぎ話やお茶の間で楽しく見られるテレビと違って、現実の笑っちゃうような残酷さを見せて人生を学ばせてくれるもんだよ。
>(略)昔の映画は1本観ると確実に少しだけ成長したような気にさせてくれたもんだよ。
>そんなこと映画に求める人はもう全然いなくなったと思いますよ。(略)自分を否定したり、考え直すことを迫るような映画は観たがらない。(p.537「『映画欠席裁判』単行本第3巻あとがき」)
なんて言ってますが、たしかにそんな感じはする。

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