河口俊彦 1995年 NHK出版
これは今年2月の、よく行く古書フェアで見つけて、たぶん読んだことないはずと、ちと迷ってから買ったもの。
同じワゴンに将棋界関係の本がいくつかあったのはいいとして、丸谷才一の単行本があれもこれもあったのには、ついつい欲しくなって、「文庫で持ってるぢゃないか、本置くとこもう無いぢゃないか、やめとけって」と自分を抑えるのに一所懸命だったのをおぼえている。
あるジャンルとか著者の本がまとまって古書売り場に並んでると、あー好きで集めてたひとが売っちゃったんだなって、当然思うんだけど、どうも最近では、「もしかして持ってたひとが死んぢゃって、残されたひとが処分したのかなあ」みたいな感にとらわれるのは、私自身がトシをとったせいだろうか。
閑話休題。
著者は現役棋士として自分の将棋指しながら、ほかの対局も見てまわって取材して文章にしちゃうという、現在風にいえば一種の二刀流をやってたひとなんだが。
巻末の初出一覧を見ると、本書に収録されているのは、平成4・5・6・7年ころ月刊誌などに寄せたエッセイと、おなじみの「対局日誌」と、NHK将棋講座テキストに連載されたものとなっている。
NHKテキストに連載されたものは、平成5年8月号~平成7年3月号分ってことなんで、だいぶ前に読んだ
『将棋界奇々快々』の続きなのか、と後から気づいた。(どうでもいいけど、ここで確かめるため『将棋界奇々快々』をウチのなか探そうとしたら、なかなか見つからなくてホコリ巻き上げる家探しになってしまった。)
「対局日誌」からの抜粋は、昭和61年から平成4年までのうち羽生善治(新四段~B級2組)を描いたものが集められている。
要は、本書は、出版側の意向で、羽生善治を特集してくれってことなんだろうと思う、1995年5月発行なんで、同年3月に羽生が七冠独占に失敗した直後なんだが、とにかく売りたいなら羽生で行こうって出版社の意図は透けて見えるよね。
強くて人気あるの採りあげときゃ間違いないだろってのは、昔も今も変わらなくて、現在におけるその遠慮しない傾向を、私はひそかに「翔平・聡太・玉子焼き」と呼んでいる。
どうも話が逸れてっちゃいそうでいかんね。
でも、著者が、
>曲者同士、ベテラン同士、おもしろい対局がたくさんある。大河小説で名作といわれるものは、本線の物語より、傍流の余談におもしろい話が多い。(p.223)
って書いてるとおり、個性派同士の対戦のぶつかりあいとかにも見どころあって、それを一人の棋士だけとにかくクローズアップするってのは、おもしろさに欠けるものあるよね。
さて、それはそうと、羽生新四段は昭和61年1月31日デビュー戦なんだが、本書に
>「どうしてあそこに谷川さんがいたのかな」
>カメラマンの弦巻さんが首をヒネった。羽生がデビュー戦で勝ったあとの感想戦を、谷川が見ている写真を懐かしそうに見ながら言った。(略)
>たしかに、あの写真はこの世界に特有の因縁を感じさせる。(p.106)
ってあるんだけど、それだと偶然の運命が二人の天才を同じ場にいさせたみたいな感じだが、たしかこのあいだ弦巻カメラマンはNHKEテレに出てたときに、「もう相手が投げるから見に来てよ」って谷川を呼んできたようなことを言ってた。
それなら作った構図だよね、こういうのを語り部みないなひとが、運命だったんだみたいな逸話としてひろげてったりするうちに、真相は藪の中、伝説が勝手にできあがっちゃったりするから油断ならない。
写真をめぐる真相はともかく、羽生は勝ったんだが、著者は、
>ここまでを見て、なるほど強い、とは思ったが、何かもう一つ物足りないものを感じた。だからフォーカス誌の取材に「甲子園の優勝投手みたいに完成されていて、荒けずりの魅力がない」という意味のことを言った。(p.110)
というような終局直後の感想をもっている。
これってのは、
>プロ棋士たちが、新しく入ってきた棋士の卵の実力を値踏みするとき、見るのはただ一点である。「腕力」があるかどうか。スジの良さでも定跡の知識でもない。わけのわからない乱戦を勝ちきる力強さなのである。(p42)
ってあたりと関連してると思われる。
ぢゃあ羽生の将棋を評価してないのかっていうと、そんなこと当然なくて、デビュー半年後くらいのとこで、相手が間違えて詰みを逃れたりして勝ち続けてることなどをとりあげ、
>さて、前に羽生の強運と書いたが、それは大方が言っているのであって、私は羽生が勝つべくして勝ったのだと思っている。つまり、羽生はどう指せば相手が間違えるか、という勝負にはいちばん重要なテクニックを、生まれながらに知っているのである。相手を誤らせる雰囲気があるのだ。これは大変な素質である。棋譜を何万局暗記し、詰将棋を何千局詰ませるといった勉強をしても、相手を誤らせるテクニックは覚えられないのである。(p.113-114)
と語っている。
それってのは、
>羽生の将棋には逆転勝ちが多い。すると、「羽生マジックだ」と騒ぐ。その言い方に私はしらける。羽生の使う術は、大山以来の伝統的なものだからだ。将棋は逆転のゲームで先取点を上げてそのまま逃げ切る、というケースはごく少ないのである。また、チャンスに、きれいなタイムリーヒットが出て得点するより、凡ゴロを打ったら、エラーしてくれて点が入る、といったゲームのほうが多いくらいだ。大山はそれをよく知っていて「将棋は悪い手を指したほうが負けるのだ」と言った。そして、悪い手を指させるため、盤上盤外、ありとあらゆる手を使った。相手の気持ちを読み取るのも天才的だった。チャンスに打席に立てば、誰だってうまくヒットを打とうとする。ところが大山はそうでない。内野陣を見回し、固くなり、打球が来ないでくれと思っている選手を見つけ、そこへゴロを打つのである。(p.18-19)
ってあたりとつながっていると思われる。
将棋は逆転のゲーム、将棋は腕力、の老師が、いまの将棋を見たら何て言うのか分からないが、平成3(1991)年の時点で、
>ここ数年、若手棋士たちの研究会が盛んになったおかげで、序盤が進歩したといわれる。(略)
>そこで感じるのだが、どうも将棋が、よく言えば細かく、悪く言えばセコくなっている。
>最近のプロ野球は、初回先頭打者が出塁すると、判で押したようにバントで進めるが、あれは、1点を大事にするというより、ゲッツーでも食らったときの批判を怖がってのことではなかろうか。
>野球なら、1点の先取点は大きな意味があるかもしれない。では将棋はどうだろう。こちらは、9回2死から5点差ぐらいは簡単に引っくりかえる逆転のゲームだから、最初の失点ぐらいはどってことはない。むしろ少し不利ぐらいが、相手に勝ちを意識させ、悪手を誘うのに好条件ともいえる。大山やかつての米長の将棋術は、そういうことも考慮に入れてあり、人間くさい味があるのはご存じのとおりである。(p.208-209)
なんて言ってるんで、コンピュータが55対45だとか言ってるくらいで何を騒いでんだ、みたいな調子なのはまずまちがいなかろう。
情報収集して暗記することより、才能が大事だっていうような話は、自身の感覚が悪いと卑下するような例を持ち出しつつ、たとえば、
>(略)私などは、第1図で、どうしても▲7六金と上がりたくなってしまう。(略)
>形が悪いと笑われそうと思いながら、つい指してしまうだろう。しかし、本当は、▲7六金は悪手なのである。形を見て、これはだめだとピンとこなくてはならない。そのピンとくるところとは、口で言い表せない。音楽でいえば絶対音感、投手でいえば球を放すときの指先の感覚、と同じで、これは天性のものである。
>(略)結局、プロ将棋は90パーセント以上才能のあるなしで決まる。センスのない者はいくら勉強してもたいしたものにはならないのだ。(p.221)
なんて言ってますが。
昔はよかった、って、つい言ってしまいそうになるのは、コンピュータが示す最善をどうこういうようなもんぢゃなくて、才能と美学みたいなもんの話があるからで。
平成6(1994)年の、羽生の対局ぢゃなくて傍流の余談かもしれない、内藤國雄九段の対局を観ていて、終盤の勝ちを決める一手を「これが内藤の手である。」と紹介して、終局後に感想戦に加わって、控室ではそこでこういう手を指せば相手の攻撃戦力を封じ込めて確実な勝ちと言ってたんだけど、どうかと聞いてみて、
>富岡はすぐ「それでいけません」と言った。しかし内藤はうなずかない。「そういう筋はわかっても指せんのや」と笑った。
>これにかぎらず、感想戦を聞いていると、内藤の美学と才能にほれぼれさせられる。プロ将棋の表に現れた手は氷山の一角にすぎない。真の素晴らしさは、指されなかった手のなかにあるのだ。(p.246)
みたいな話を書き残しておいてくれてる、いいなあ。