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携帯小説は全面化するか?

2007年02月12日 | 雑記
普通の若者が携帯小説 ベストセラーも続々(朝日新聞) - goo ニュース


 携帯小説の一番の特徴である会話の多さは、その多さと情景描写の少なさをもって文学から批判されてきた。 しかし果たしてその批判は的を得ているのだろうか。少なくともそれは旧来的な文学の評価基準の範疇でしかない。

 例えば、この会話の全面化を意識の変化と捕らえることはどうだろうか。これまでの読者とこれからの読者の注視する先の変化というか。これまでの読者はその興味の対象として世界があった。それはすべてを包含した世界。君も僕もあなたもあの人も、通行人や見知らぬ人も含まれる。

 しかしこれからの読者は果たして同じ世界を生きているのだろうか。その世界には「君と僕」のきわめて狭い、言うなれば一次元的な世界しかないように思える。「君と僕」を結ぶX軸しか無いような。それは良い、悪いの話ではなくて、そうとしか捉えられないものである。そしてもっと言うならば、君と僕は掘り下げられない。

 「君と僕」で何が重要かと言えば、二人の関係性でしかない。内面が要らないのだから表層の会話だけでも小説として受け入れられるのではないか、と考える。だから心象風景や情景描写は望まれなくなった。だからこその文学離れであり、だからこその携帯小説ばやりなのだと思う。


 それにこの状況は決して携帯小説に限られないことは明白で、純文学とは言わないまでも文学小説のヒット作品を時系列的に読んでゆけば年々レトリックが減少していることを実感できるはずだ。

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