ゲームホリック

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変わることの必要

2007年06月22日 | 雑記
『セクシーボイスアンドロボ』の最終回。主人公たちを非日常の世界へと導いた地蔵堂の人々は”引退”と称して、主人公たちの街から姿を消して主人公のニコもロボも日常に戻り、別々になる。

地蔵堂の店主との別れに際して、ニコは店主から「変わってゆくこと」の重要性と必要性を説かれる。人間は変わらなくてはいけない。「変わってゆくこと」には自分自身ばかりではなく、周囲やその環境も含まれる。

数話を除いて、このドラマを大半見てきた人間の認識としては、ドラマの魅力の大部分をドラマのキャラクターたちの魅力が占めていたように思う。類型的に云うならば、『うる星やつら』に代表されるような「閉じた学園祭」的箱庭の心地よさが、このドラマの魅力の大きな部分であったと思う。その魅力を最終話で手ずから放棄する。

このドラマに限らず、こういった箱庭的な心地よさを持つドラマは少なくなく、古くは『踊る大走査線』、最近では『時効警察』などがあげられると思うが、多くの場合その魅力であるところの箱庭は視聴者、ユーザーの暗黙の、時には公にされた要望によって閉ざされたままであった。「永遠の学園祭」的心地よさを最終話で軽く批判をした『時効警察』でさえ自らそれを放棄はしていない。


そこに異を唱えて、「変わってゆくこと」を求めたのが前出の『うる星やつら』の劇場版『ビューティフルドリーマー』であり、監督の押井守であった。「永遠の学園祭」の体現作たる友引町の人々に、そこから降りること、現実に帰ること、つまりは変わってゆくことを求めた。
『新世紀エヴァンゲリオン』で、監督の庵野秀明はその変わることの矛先を作品内のキャラではなく、客である視聴者、オタクに向ける。そして劇場版ではオタクを現実に返すこと、アニメと云う「永遠の学園祭」から降りることを促すことを仕掛ける。


どちらも意図は達せ無かったようだろうけれども。



『セクシーボイスアンドロボ』のエピローグでは、結局、ニコは変わってゆくことを決意し、地蔵堂とももう一人の主人公であるロボとも別れる。将来二人の人生がクロスするのかのようなおまけは製作者の視聴者への優しさだったのかな。


人間はいつまでも子供ではいられないわけで、いつまでも学生ではいられないわけで、いつまでも同じ場所にも留まれない。多分そういうことなんだろう。翻って、僕自身はどうなのか。変われるのか、変わるのか。

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