亀の川登

難聴に苦しむ男の日記帳。

分かりやすい講座

2023-10-21 | 歴史
毎月一回行われる高砂大学「OB歴史会」の講座について書いてみた。
今回は「蓮如と吉崎御坊」という課題だった。
講師は市内にある あるお寺の住職さんらしい。
課題は「蓮如と吉崎御坊」。なのに史料は「御文」と書いてあるものだけだった。
 資料の御文
お寺の住職だというのに仏教じみた話ではなく歴史に関するものだけだった。
嫌味がなく非常に分かりやすい話だった。
耳の悪い私にもその内容がよく分かった。
加賀一向一揆というと有名。
石川と福井の県堺に吉崎という町がある。何故か一つの町の筈なのに福井県と石川県に分かれている。
そこを蓮如上人が北陸の布教の拠点として吉崎御坊という大きなお寺を築いた。でもそこにいたのは6年間だけっだという。彼は何か都合の悪いことが起きて吉崎にはおられなくなって京都に帰ってしまったという。何があったんだろうか。
その部分はよく聞き取れなかった。
資料の空白の部分に一生懸命メモをしていたが、話はよく分かるが何故か覚えていられない。
耳で聞き取ったことを書こうとすると、何故か字が頭に浮かばない。さてどういう字だっただろうと思い出そうとしている間に話がどんどん先に進んでしまい、いま何を書こうとしていたのかも分からなくなってしまう。分からないことは平仮名で書けばいいものをそれがなかなかできない。どこかプライドというものが邪魔しているのだろうか。
これじゃメモにならない。でも後で、見返してみると結構書き取っている。
何とか無理してでも参考にできそうだ。
聞き取れた部分をちょっと書いてみよう。
当時は応仁の乱の真っ最中で、西軍と東軍が争っているのは京の都だけと思っていた。どうもそうとばかりは言えないらしい。加賀の国にも東軍と西軍がいて加賀の国は西軍が多かったらしい。問題の富樫政親は東軍の方だったらしい。
政親は都での戦に巻き込まれて借金の山を作りそれを返すために税金(年貢)を吊り上げ百姓たちに嫌われて戦になった。と思っていたがどうもそうでもないらしい。
ここでいう百姓とは農民のことを指すのではなく、そこで暮らす住民をそう呼んだらしい。一向一揆と言えば筵旗に鍬や鎌を持って戦ったとイメージしがちでそれは農民だと勘違いしていた。もっともその当時は住民のほとんどが農民だったからそう思っても仕方がない。
蓮如上人は、どうやらあっちに付いたりこっちに付いたりしていたらしい、それで信用がなくなって京都に逃げ帰ったのかも。
資料の御文は親鸞の教えを蓮如が分かりやすく手紙に書き記したものらしい。
それを受け取ったお寺は御堂の壁に貼り付けて信者に読んでもらっていた。
私は親鸞さんが書いたものと思っていた。じゃなかったんだね。蓮如上人は親鸞の教えを分かりやすくして書面に記したのが御文なのだ。

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 謡曲教室 「岩船」 | トップ | 春栄 (謡曲教室) »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (みゆきん)
2023-10-21 12:45:09
お坊さんの話しって面白いよね
私もお坊さんの説法が好き♪
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

歴史」カテゴリの最新記事