亀の川登

難聴に苦しむ男の日記帳。

愛 国 の 至 情

2016-09-11 | 読書

愛国の至情

澤田謙

 春宵は一刻千金と値は決まったものである。そのおぼろ月夜を、頃は文久2年3月24日、ただ一人勝海舟の玄関先に立ったのは、身丈群を抜いた青年武士であった。

 「先生に御面会を願いたい。」

 言葉にはまだ土佐訛りが抜けなかった。

 文久2年3月といえば井伊大老が桜田門外の雪を鮮血に染めてから、ちょうど2年目である。「井伊なき後は勝というのがその頃敵も味方も認めるところであった。軍艦奉行を務める勝安芳こそは、倒れんとする幕府を支える一本の柱だ。

 「勝さへやっつけてしまえば」

 それが勤王攘夷党の世論であった。従って物騒なその頃に、分けて勝の身辺は危なかった。その勝の玄関に、のっそりと現われたのが、土佐訛りのまだ若い武士だった。時節柄、物騒千万な訪問客である。

 「して御貴殿は」

 「以前は土佐の藩士、いまは浪人の身で坂本龍馬と申す。ちと先生の御意見を承りとうて参った。よろしくお取次ぎをお願い申す。」

 堂々と姓名を名乗っている。悪びれたところはない。

 その時、勝海舟は、廊下伝いに離れの一室、南向きの圓窓の下に紫檀の机を据え、端坐して書見に余念もない。

 「先生、坂本という男、何とも、うさん臭い男でございます。お会いになられぬ方が・・・・・・・」

 「大事ない、通せ。」

 「しかし……」

 「正面玄関から堂々と乗り込むくらいなら、刺客でも一流じゃ。愛すべきところがある。よろしい、通せ」

 海舟は机の前に端坐した膝を崩そうともしない。取次の門弟はやむなく、龍馬を案内に立った。

 龍馬は導かれる儘に、幾室かを通りすぎた。廊下をぐいと鍵手に廻ると、海舟の隣室である。襖は開放ってあるので、海舟が読書に耽っている姿がそのままに見える。

 龍馬は思わず、はっと立停った。

 何という落着きだろう……。

 両刀を隣室の襖際において、一歩座敷に足を入れかけた。これは長上を訪問する時の礼儀だ。

 突然、紫檀の机の前から声があった。

 「帯刀のまま、帯刀のまま。」

 穏やかではあるが、底力のある犯しがたい調子である。

 龍馬は一旦おいた刀をとり上げて、つと座敷に入った。春闌けたれど、夜となれば、冷え冷えとする。勝は胸をかき合せながら、龍馬の方へくるりと膝を向けた。

 龍馬は畳についた肱をぐっと張って挨拶をした。当時の志士は、このんでこういう礼をした。

 「当節は物騒な世の中じゃ。いつ何時、如何なる禍が身に及ばうも知れぬ。武士のたしなみじゃ。帯刀は寸時も身を離してはなりませぬぞ。」

 そういう海舟の膝にも、いままで鹿の角の刀掛けにかかっていた秘蔵の一刀が、艶やかな鞘を灯火に輝かしている。

 「今宵如何にお手前が、何しにここに来られたか、俺には判っている。眉間の間に殺気が溢れているぞ。じゃが……」

 そこで海舟はちょっと息を切った。竜馬はぎくりと吐胸を衝かれた。その通りである。彼は熱心な攘夷論者である。19歳の歳に江戸に出て千葉周作に剣道を学んだ。世をみると開港論が高い。しかもその主唱者は勝海舟だ。「おのれ海舟の奴」とは思ったが、海舟ほどの人物が、無暗なことを主張する筈もあるまい。

 「よし、一度勝を訪問し、果たして世間が言う通りなら、一刀の下に切り捨ててやろう。」

 それが龍馬の訪問であった。肚裡満腹の決心が、自ら眉宇に現われたのも無理はない。

 が、勝の態度はあくまでも落着いていた。

 「ぢぁが、人には各、天命がある。お主が死体になってこの屋敷から運びだされようも、それは天命だ。ここでお主に刺されようともそれも俺の天命ぢゃ。俺はそれを避けようとは思わぬ。然し俺の意見は是非とも聞いて貰わなければならぬ。」

 「それを承る為に推参いたしたのでござる。」

 「よろしい。」勝は咳払いをした。

 雲となるか、雨となるか、生命かけの対談である。双方の手には力強く一刀が握られている。

 「貴殿は一たい世界の大勢を何と見ているか。」

 滔々と説き出した海舟の開港論。欧米陸海軍備の盛大なこと我が海軍の微々として振るわざること、彼我兵器の精粗から、戦略の優劣、富の程度の懸隔まで、説き去り説き切って、数千万言。海舟はもとより当時に有名な雄弁の士である。加えるに彼は万延元年、幕府の遣米使として、米大陸の新文明に接してからは、当時第一流の識者であった。

 「さて世界の大勢が、既にかくの如き場合、お主たちは何をもって攘夷を行おうとしているのぢゃ。先年浦賀に現われた米艦とその周囲に集まった和船とを見られたか。彼らの相違はさしづめあれぢゃ。心は如何に逸っても、岩に卵を打ち付けて、喧嘩がなるものか。のう、そこぢゃぞ。俺ぢゃとて、天下滔々として攘夷論の行われる当節、衆に逆らって開港論を唱えれば、身の危ないくらいのことは百も承知ぢゃ。千も承知ぢゃ。だが然し、如何に身が危なくとも、国を謬るような暴論には、同意することは出来ない。今は挙国一致して兵制を改革し、海軍を創設する。我より進んで交易を求めて、我が国富を増進するのが、何をさしおいても目下の急務ぢゃ。」

 こういう海舟の眼には、涙こそ見えね、国を思う一念の熱血が燃えて、悲壮にすら見えたのであった。

 龍馬はいつか首垂れていた。聞きしに勝る勝の博見卓説に打たれた。勝の最後の言葉が終わって、きっと口を結んだその凛たる顔を仰ぎみた時、何思いけん坂本竜馬は、柄も砕けよと握りしめていた帯刀を、傍らに捨てて二三尺あまり下がったのち、畳に両手をつかえて平伏した。

 「先生、どうか私を門下の一人に加えてください。日夜修養していささか君国の為に尽くしたいと存じます。」

 海舟はなおも、この愛すべき青年の姿を飽かずに眺めていた。

 何故だろう。何故坂本竜馬は海舟の前に首を垂れて、みづから門弟になったのであろう。

 勝海舟の威武に怖れたのか。

 もとより海舟は剣道の達人であった。剣を取っては山岡鉄舟、高橋泥舟と共に、天下の三舟とまで称された使い手である。如何に剣道に自信があったかは、剣客と知って、平然と、居間に招じたのでも判る。然し、これほどの剣客を、正面玄関から堂々と訪れて来た彼龍馬である。自分の剣にもいささか自身があったろう。若し武運拙くば生きて帰らぬ覚悟であった。決して海舟の威武に屈したのではない。

 では海舟の雄弁に説き捲くられたのか。

 そうではない。海舟は、西郷南洲とのあの有名な江戸城明渡しの談判に至る最後まで、「幕府の柱石」として健闘して来たのは人も知る通りである。坂本龍馬はまた「海南の飛龍」として、薩長の堤携、討幕の大業の成就に最後まで朝廷方の志士であった。これも人の知る通りである。

 では何故、龍馬は海舟の門下に入ったのであろうか。

 海舟の雄弁ばかりではない。その卓見ばかりでもない。その背後に、烈々として焼くばかりの愛国の至情である。彼が国家の経綸を説くに当っては幕府もない、長州も薩摩もない、土佐も肥前もない。ただ一日本国の運命だけなのだ。この国際的に多難なる日に当たって、日本の国をどうするか、その為には身命を賭しても戦うという、その熱烈なる至情が感じ易い純真な青年の胸を、強く打ったのである。

 「勝先生は幕府方だ。俺は朝廷方だ。いかなる因縁かは知らぬが、これだけは終生渝るまいが、いかなるに党派はちがっても、国を思う至情に至っては、全く同じではないか」

 こうした考えが、坂本龍馬の若い胸に油然として涙と共に浮かび上がったのである。

  かくて勝海舟と坂本龍馬とは、いわば敵同志の間にありながら、先生よ弟子よと呼ばれつつ、同じ釜の飯を食う仲となったのである。

 この師弟の麗しい交情は、遂に終生変わらなかった。勝先生刺客にねらわれて危うしと聞くや、身を挺して助けたのは坂本龍馬であった。龍馬が藩主山内容堂公の怒りに触れて、土佐藩を追われていたのを、周旋して帰藩せしめたのは勝海舟であった。

 この美しい師弟関係については、坂本龍馬が家卿の姉乙女子に次の如く書き送っている。

 「今にては日本第一の人物麟太郎殿という人の弟子になり日々兼ねて思付所をせい出し居申し候」

 或はまた

 「この頃は天下無二の軍学者、麟太郎という大先生の門人となり、殊の外はいがらせ候て、まず、きゃくぶんのようなものになり申し候」

 とある。だいたいその間柄がわかるであろう。

    改新帝国読本(昭和5年発行の中学校の教本より。

旧仮名遣いや昔の漢字を現代用語に書き直したが、分からない所はそのまま現わした。

弁慶と 小町は馬鹿だ なアかかア

弁慶と小町は真面目人間だったようです。

 

 


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