三途の川
光明寺
三途の川
人は死ぬと400㎞の険しい山道を7日間かけて越えて行き、漸く三途の川に辿り着きます。
平安時代には、三途の川には橋がかかっていました。
善人は橋を渡ることが出来たのですが、罪人は渡してもらえず川の中を歩いて渡らなければならない。
罪が軽い罪人は浅瀬を、罪の重い罪人は深くて流れの激しいところを渡らなければなりません。
室町時代になると、橋はなくなりました。
その代わり渡し舟が出来て、船賃として6文取られました。それが無いと川の中を歩いて渡らなければなりません。
そのため、昔の人は、死者が無事に三途の川を渡れますようにと棺の中に6文を入れました。
その頃はまだ土葬だったので、本物を入れましたが、現在のように火葬になると燃えないお金は入れることが出きません。
その為、頭陀袋に6文銭の絵を描いてもたせます。
三途の川を渡ると、そこには衣領樹という木があってその下に脱衣婆(だつえば)と言うおばあさんがいて衣類を残らず剥がされます。
その着物を懸衣翁(けんえおう)というおじいさんに渡すと、おじいさんはその着物を衣領樹(えりょうじゅ)の枝にかけ、その枝のしなり具合で罪の重さを量りました。
1週間ごとに7つの法定で生前の罪を裁く裁判があり、49日目に判決が下る。
第3法定の宋帝王は猫と蛇を使って、邪な男女の生前の罪を裁く。
猫は男性のあそこに噛み付き、蛇は女性のあそこに潜り込で罪人を苦しめます。
第4法定の五官王は死者を計りに乗せて罪の重さを計る。
第5法定で始めて閻魔大王が出てきて浄玻璃(じょうるり)の鏡で生前の行いを映し出します。
平安時代では閻魔大王は最初に出てきました。それが時代が新しくなるにつれてどんどん後へ追いやられました。それは閻魔様は情が深くて中々罪を裁けないだろうとの理由です。
閻魔さんたちはもともと仏様で、法定では優しい顔をしていては罪を裁けないので恐い顔をしています。
最終的には行き先を自分で選ばさせます。
賽の河原
10歳に満たない子供は三途の川を渡れません。
子供は親より先に死ぬと罪が深い。罪の償いの為に河原で石を積む。
やっと積み上げた塚も鬼によって簡単に壊されてしまいます。
鬼が言う。「我を憎むな親の嘆きが子供の苦しみを受けるのだ」。
最終的にはお地蔵さんによって救われる.
死後に渡る川のような話は、仏教国ばかりではなく世界中にあるらしく、キリスト教の国にも有るらしい。
川を渡るのではなく、海を渡ると言う所もあるが、多くの国は川を渡るとなっているらしい。
三途の川というのはインドの国で伝わっている話で、釈迦の教えではなく、仏教と共に我が国に伝わったものです。
合掌。
最近のおじいさんおばさんは学力があるから子供だましのような話は通用しない。お説教も時代と共に変わっていかねばなりません。
死んだあとのことを想像するのはこわいんだけど・・・なんだか知りたいと思う・・・
三途の川、チャン渡ってすんなりあちらにいきたいものです・・・
金持ちは、昔、太井川渡る籠のようなもので渡るのかな~?