亀の川登

難聴に苦しむ男の日記帳。

どこが違う。話し方の違い。

2017-10-07 | 日記

先日の市民大学で増田明美の話を聞いた。

いつもは何を言っているのかよく分からないのにその時ばかりは何故かよその人と同じように聞こえて良く笑った。

どこがどう違うのだろうと過去の録音と比較して見た。

発音に関しては何処も変わらなかった。

なのにどうして増田明美さんの話だけ解ったのだろう。

それは発声の問題だけではなさそうです。

話すスピード、音の間隔が微妙に違っているのだった。

どんな音どんな間隔で発するかによって聞こえ方が全然違うような気がした。

ようするに、自分が人の話がよく分からないのは、耳が遠いせいばかりではなく、人との会話になれていないからなのだと思った。

兄と話をすると「お前は何を言っているのかさっぱりわからない」と言われる。

それは兄が耳が遠いからだ、いや、それもあるが、そればかりでないような気がする。

人とあまり話をしない自分が人との会話術が下手なだけなのだっだ。

過去に網膜剥離の手術を受けたことがある。

不本意にも眼内レンズを近眼用の物を入れられた。

レンズの入った方の目は肝心の読書をする部分の網膜がやられていて、レンズは何の役にも立たない。

本当は遠くを見るためのレンズを入れてほしかったのだが、何故か意思の疎通が上手くいかなかったようだ。

「もしかしたらレンズを入れなけばならないので視力を測りますね」と言われたので、大して真剣に考えもせず。

「いつもどのくらい離して本を読みますが」と問われ、40センチくらいかなと答えたのが運のつきだった。

まさがそれが眼内レンズのサイズに結びつくとは思いもしなかった。

手術中に、「レンズを入れますね。」と言われ、あわててそれは困ります。と言ったら。

「手術したら白内障になる可能性があるので・・・・」と言われ、それは困るのでしぶしぶ承諾せざる負えなかった。

そのときは、眼内レンズの焦点がどこに決められているかということは考えもしなかった。

お陰で随分不便な思いをしている。斜視になったのも合わない眼内レンズの性かもしれない。

いまさら何を言っても始まらないが。コミュニケーションがもっとうまく出来ればこんな思いをせずに済んだものをと、何度考えても情けない。

昨日はいつものお寺の報恩講だった。

コーラスがあるからというので、何か仏教独特の節が聞けるかなと思ってわざわざ聞きに行ったが、何のことないどこにでも聞けるただのコーラスだった。

こんなコーラスならわざわざ聞きに来る必要がなかった。

耳がおかしくなり様な大音響だ。なんで音楽というのはこんな大きな音を出さなければいけないのだろう。

オレは耳が悪いのだからもっと静かにやってくれよなとは言えなかったけど・・・。

金沢のど真ん中香林坊の交差点にお地蔵さんがいる。その昔、越前の国からこの地にあった薬屋さんに香林坊というお坊さんが養子に入った。その香林坊が藩祖前田利家の目の病を治したと書いてある。

いつも観音扉が閉まっているが、どういう訳か最近開いていて中の観音像が見える。

コメント (3)
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