kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

「弟」の謎。

2016-02-22 20:48:52 | 信州、なかでも上田。

   兄の認知症が進行しているのかそうでないのか、わかりません、が去年は一緒に温泉へ行かなかったのが今回は近くの町営の温泉へ、甥と一緒に出かけました。翌日の昨日は一家あげて上田城公園へ、そういう時の兄の後ろ姿には以前の頼もしい兄貴に戻ったようにさえ見えました。

   人生での付き合いで言えば兄弟が一番長いことになるでしょう。一緒に暮らした期間という意味でなく、家族という成長の場を共にし時代を共有してきたという意味です。それでも各々が独自の「家族」であったことを知らされたのが「弟」の存在でした。

   飲み喋りしている最中に義姉が仏壇から小さな板の束を持ってきました。亡くなった者の名前と命日が記されたものです。そいうものがあるということは知っていましたが、私は一枚一枚見たことがなかったのです。姉が見せてくれたのは昭和十八年某月某日の日付とO歳と印された名前です、男の子の名前。私たち三人兄弟の上に姉がいたが数ヶ月かで亡くなっているということは知っていましたし、兄が作った家系図にも載っています。

  私の下にもう一人弟がいた、〇歳と言うのだから生まれて間も無く亡くなったということ? 当時の年齢では生まれたら1歳でしょう、それを〇としたのは? など父母がいたら聞けたものをと思います。それにしても兄も弟もその弟のことは知っていたのです。兄が12歳の頃のことですから当然でしょう、私より3つ下の弟が知っているのは? と言うと聞いていたと言うのです。なぜ俺が知らないのだ!と言うと「兄貴はそれだけ家族との会話がなかったんだ」と言われてしまいました。

   確かに家にいても本ばかり読んでいた記憶がありますし、今でも無口だったという話しか出てきませんから、私だけが知らなかったのでしょう。それにしてもこうして兄弟や兄嫁と話し込んでいると自分が見えてきます。そういう過ぎた自分のうえに今日の自分がいるわけで、自分への愛おしさが湧いてきます。兄宅への訪問懇談は自分への「温故知新」でもあります。


上田から戻り「真田丸」第七回。

2016-02-21 23:08:27 | 「真田丸」

   最初に「いざ、鎌倉!」ならぬ「いざ、真田丸!」という写真を、

   これは上田城公園に入る橋の下です。下の道は堀の跡で私が上田にいた頃は電車が通っていて、真田へ向かう線でした。この堀跡を挟んで左手の建物が新築の第二中学校、元南小学校の後で、小学校は我が母校です。

 

  立ち並ぶ「真田丸」の幟を見ていると「いざ、見参!」という気分になります、単純で純情なものです、場所は上田城公園内旧上田市民会館。

入口は長蛇の列というほどではありませんが、かなりの入りかと思われます。

中の様子は、 http://ueda-sanadamaru.com/overview/ をクリックしてご覧下さい、そして機会があればおいで下さい。

 

   戻って観たのは第七回「奪回」。

  この奪回には人質を取り戻すと領地を奪い返すの二つの意味があるのですが、その内容のことも面白いのです−戦国時代の弱小国主らしく–が今日目に付いたのがこの人の演技です、草笛光子、82歳。

   そこで女優草笛光子のこのドラマにかける思いを見てみました、そこからこの部分を紹介します、全体は インタビュー・とり役草笛光子 で。


消えたのでななく➡︎上田から神田へ。

2016-02-21 00:21:06 | 信州、なかでも上田。

今日午後弟と上田に着き食事、駅にも「真田丸」の飾りが、「上田城甲冑隊」の幟が見えます。

食事はこれ、


その後甥っ子の奥さんの運転で兄宅へ。


その夜の話。

食べながら飲みながら、この写真から父親の昔の話が出て、

父は昭和20年代後半この新聞社の社員でした。そんな思い出話をしていたら義姉が瀬川さんの息子さんの話をしてくれました。瀬川さんの息子の奥さんが松谷みよ子さんだというのです。

(松谷さんについては、https://ja.m.wikipedia.org/wiki/松谷みよ子 )

弟の話では松谷さんの代表作「龍の子太郎」は上田地方の民話が元になっているとのこと、ここにも故郷に来て飲みながら食いながら話すと見えてくることがあります。

その兄が歩けるうちに戦争で焼けてしまった東京神田の家の跡に行ってみたいというので、甥がパソコンでその辺りを検索してこの写真を、

神田美土代町という地名が見えます。道路の関係からこの辺ではないかという辺り、当然70年前の様子はありません。それでも私たち三兄弟のスタートだった地の現在を確認するのは無駄ではないでしょう。


細川議員逮捕!への各議員の「発信」。

2016-02-19 22:03:33 | 葉山そして人
葉山町町会議員・細川氏が覚醒剤取締法違反で逮捕されたことに対して各議員がどういう
メッセージを町民に対して発信しているかを逮捕3日目の時点で記録しておきます。
 
まず、近藤議長名での「お詫び」です。
  葉山町議会議員の逮捕についてのお詫び

昨日、葉山町町会議員が覚醒剤取締法違反容疑により逮捕された事実が本日、マスコミから報道されたところです。

新聞報道による容疑内容が事実であれば、絶対にゆるされないことであり、誠に遺憾なことであります。議長として町民の皆様には多大なご心配をおかけしたことと、深くお詫び申し上げます。

今後、逮捕容疑の内容は司直の手に委ねられることになると思われますが、今回の町議会議員逮捕という事実を重く受け止め、今後とも厳粛で規律正しい町議会運営に当たって参りたいとまいりたいと思いますので、町民の皆様のご理解をいただきますよう、お願い申し上げます。

         平成28年2月17日    葉山町議会議長    近藤 昇一 

 町議は14名で議員紹介に記載されている「ホームページ」欄にアドレスが表示されている者は12名(記載無 待寺、伊東)、そのうち細川議員は「利用不可」、飯山議員は「更新中」でした。10名の議員のなかでこの事件について発信している者は近藤議員も含めて3人でした。

近藤議員  http://hayama.jcpweb.jp/

横山議員  http://www.yokoyamasumiko.jp/

土佐議員  http://blog.livedoor.jp/j71yoko/

他に金崎議員(http://members2.jcom.home.ne.jp/kanazakihi/)の「日誌」

に「細川議員逮捕を受け、緊急会議が開催されました。」とあります。

なお窪田議員は近藤議員と同じページにありますが、自身の「かけある記」では事件

について触れていません。


「てんがらもん」204回 視聴者意識。

2016-02-18 21:49:16 | 「てんがらもんラジオ」

   今日の村永さんのブログのタイトルに「新たな一歩」とありますが、先週の「てんがらもんラジオ4周年お祝い会」を節目として次への歩みがはじまりました。

   番組は  http://www.ustream.tv/recorded/83319137  です。

  今日のゲストは川越孝一さん、お名前だけのとき新しいゲストさんかと思いましたが公開放送でお会いした方、と言ってもインターネットですから川越さんはkaeruとは会っていないのですが。あの日は遠い伊佐市から、それも雪が50センチという中をバスを乗り継いで来られたと話されていた方です。

  居合と空手、武道派ともいえる方ですが、子供の頃は弱い児で高校まで体育の授業時間は授業に出たことがなかったそうです。大学に入って逆に強さを求めてもっとも厳しい空手部に入り鍛えられたのです。居合や空手を教えるだけでなく着付けでは紋付袴姿での大会で優勝したり、鹿児島弁の普及に力を入れています。

  お話を伺いつつ長渕剛のことを思い浮かべてました。長渕も子供の頃体が弱かったと聞きます。そこで本屋へ行って長渕剛の本を買って来て、読み出しました。風土と言葉が育てる情熱というようなことを考えているのですがまとまりません。方言が持つ力を考えることとも通じるのかと思います。

   長渕と柳美里の対談で柳が「受信するということは、その出来事や人を全身で感知すること」と言っているのです。これはゲストの話とは関係ないのですが、この言葉でこれからの「てんがらもんラジオ」のことに思いがいったのです。放送の聴取にしてもインターネットでの視聴にしても受信作業ですが、「全身で感知する」とはパーソナリティーとゲストと視聴者に一体感が生じることだと思います。

   視聴者ではあるがある種の当事者意識が生じる、人ごととは思えなくなるという心理状態です。「てんがらもんラジオ」がそういう番組へと向いつつあるのかと思えます。そこをもっと強める番組運営はどうあるべきか、ひと工夫ふた工夫する楽しみがあります。


葉山町町議会議員逮捕!

2016-02-17 21:56:38 | 葉山そして人

    夕方「葉山新聞社」から電話、「細川議員が逮捕された、覚せい剤だ」とのこと、テレビでも報じていると言われたが見ていなかったので「え!」という感じでした。

    去年の4月の選挙で初当選した新人議員だが私は面識はない、トップ当選して注目されたが、議員になって公約していたことに反した態度だ、ということで支持者から抗議されているという話を耳にしていた。

  先ほどテレビでも見た、神奈川新聞のインターネットでは、


  新聞社として来週緊急に集りをもち、論議をしたいという、日程を確認して話を終え、あらためて目を通したのがこの記事です。

 「しんぶん赤旗」の今日の特集(5回連載の1回目)、今年の夏の参議院選挙から適用される18歳選挙権、記事は主権者としてどう選挙に臨むかの教育現場のことです。

  細川議員のトップ当選には20歳以上ではあってもかなり若い世代の期待があったでしょう。今回の「事件」を通じて政治や選挙に対して否定的にしてはならないと思います。町の有権者としては災い転じて福とする、反面教師として主権者感覚を高める機会にしていかねば、と思います。

  「集い」では様々な意見が出るでしょう、その上に立ってどう取り組んでいくか地元の問題だけに難しさとやりがいのある課題です。


こんな選挙風景。

2016-02-16 22:11:59 | せいじの政治カフェ

以前にも紹介した本ですが『マルクスに凭れて六十年』。

そこにあったある選挙風景です。

頃は昭和五年、1930年一月、所は信州上田地方。

語っているのは『資本論』翻訳者岡崎次郎氏。

【   翌昭和五年一月には衆議院が解散され、二月の総選挙で社会民衆党に属する義兄の友人が、上田・小諸を中心とする長野二区から立候補したため、若干の好奇心も手伝ってその応援演説を引き受け、約一ヶ月間雪の山野をおんぼろ車で走り回った。マイクなどはもちろんなく、一高の寮歌で鍛えた喉が大いに役立った。演説会場は小学校の講堂かどさ回り用の芝居小屋だった。農閑期のことであり、娯楽も乏しいところから、無産政党にたいする物珍しさも手伝って、どこも超満員の盛況だった。演壇の片隅には臨監という役の警官が腰掛けていて、演説が高潮に達して満場の拍手が起こると、弁士注意と怒鳴り、なを同じ主旨で話を続けると、中止と叫び、それでも止めないと、検束! と叫んで、聴衆のなかに混じっていた二三人の私服も壇上に跳び上がって弁士を引っ立てた。私は軍縮と福祉とをと叫んで(なんと世の中は変わったようで変わらないことだろう!)よく中止させられたが、検束はされなかった。】

   この太字部分(太字にしたのはkaeru)が目につき今夜の「つぶやき」にしました。岡崎さんがこの本を出したのは昭和58年・1983年、53年前と比べて変わったようで変わらないと嘆息されています。それから30余年経った現在も叫ぶべきことに軍縮と福祉があります。変わらない!と嘆息しているだけではいられません。


死者は生者を近づける。

2016-02-15 22:53:03 | どこまで続くかこのブログ

   小父さんというと他人めきますが、妻の従姉妹の夫という関係ですから赤の他人ではなく、そうかと言って伯父叔父でもないので小父さんと表してます。その亡くなった人の月命日には夜小父さん宅で食事を共にすることになってかなり経ちます。

   今夜は小父さんがアキレス腱を切って1ヶ月半入院をしていた話をはじめて聞きました。60歳になる前のことだそうで、今年86歳ですから20年以上前の話です。私も妻も仕事に追われていた頃ですが、伺っていれば当然お見舞いに行っていたはずですが、はじめて聞きました、と言いましたら「そーかなー」と言ってました。多分奥さんが気をつかって知らせずにいたのでしょう。

   そんな話をはじめ年賀状を出したが家族からの本人の不幸の知らせが何通かあったこと、息子さん家族のいる地方へ移るタイミングが掴めないまま、この地に住み続けたいという思いなどなど、日頃思い悩んでいるであろうことが食べ終わり飲み終わると次々と話されます。

   20数年前は一ヶ月半の入院も知らずにいた関係でした、こちらは仕事中心の生活でした。小父さんたちも夫婦二人の生活を守っていたのでしょう。盆と正月と春秋の彼岸の年に何度かの行き来での消息でした。それが月一度の食事を重ねてきて一気に身近になってきました。第一お宅に出入りして実感するのは台所の近さです。

   小母さん(妻の従姉妹)のおられる時はそこは小母さんの聖域で、他の人は立入出来ない場所で、息子さんのお嫁さんが手伝いに入ろうとしたら入らないでくれと言われたそうです、昔の「女の城」の感覚でしょう。確かにお正月などお邪魔して感じられたのは、台所の遠さ-精神的距離感-でした。

  それに類する距離感が一切無くなっているのです。「死者が生者を近づける」と表したゆえんです。


宣教師フロイスの記した「本能寺の変」その5(了)

2016-02-14 19:55:46 | 「真田丸」

    信長はいかに死んだか。

【   明智の軍勢は御殿の門に到達すると、真先に警備に当たっていた守衛を殺した。内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には若い武士たちと奉仕する茶坊主(ラバードス)と女たち以外には誰もいなかったので、兵士たちに抵抗する者はいなかった。そしてこの件で特別な任務を帯びた者が、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭いで身体をふいている信長を見つけたので、ただちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀(ナギナタ)という武器を手にして出て来た。そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。だが火事がおおきかったので、どのようにして彼が死んだかは判っていない。我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくんり、彼のものとしては地上になんら残存しなかったことである。】

    フロイスは以上のように記しています、『信長公記』には次のように書かれています。

訳注より【「信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の絃切れ、其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是まで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追い出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け來たり候。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か、殿中深く入り給ひ、内より御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ……」】

終わりに『フロイス 日本史 5』(普及版)を紹介します。

   帯に杉浦明平氏の書評が見えますが、「キリシタン・バテレンたちは、出島に軟禁されていたオランダ人や、外交特使以外と交渉できなかったロシア人やアメリカ人とちがって、ほとんで権力者の側におり、(略)信長、秀吉、家康と交渉をもったしかれらの麾下のキリシタン大名や近臣からたえず情報を手に入れることができたのである。」ということです。 

それではテレビの前に向かいます。