小学校からだった❗️
何回見ても跳び上がる気持ちに同感するね。
下の一文は2016年6月4日の「つぶやき」で私の兄の通夜の時のことです。
私の一番年齢が高い19歳の孫は私の長男の嫁さんの連れ子ですが、通夜に来て来れました。父親の伯父にあたる私の兄と最後の別れをしたいと言ってのことです。
通夜の席で彼が兄に手をあわせるのを見ながら、彼の小学校4年頃の光景を思い出しました。彼の母方の曽祖母の葬儀がありました。彼は母親の離婚後母親と共に祖母のところで生後間も無くからうちの長男と母親が結婚する小学1年の終わり頃まで暮らしていたのです。その頃曽祖母に可愛がられていたようです。
ですから曽祖母の遺体を納めた棺桶の縁に顔を押しつけて泣き伏していた姿が忘れられないのです。その姿が今夜兄を囲むなかの小学生4年くらいの子どもたちに重なり、命のはかなさ大切さを深く心に刻める機会としての葬儀の意義を考えさせられました。身近な人の死を通じて命の意味を知る、ある意味では学校の授業での課題として生命の大切さ、とは違った深さを持っているでしょう。
高齢者の死は身近な若年者にとって何より命の有限性を実感する機会です。そしてその人の命が自分に移ってきていることを知る機会です。高齢者は自分の命を若年者に結びつける機会をつくり、後世に託せる工夫をすることで最終期の生き甲斐も生まれるのではと考えました。
その彼も26歳で、今日結婚挨拶のために親夫婦(私の長男夫婦)が、若夫婦と私ども夫婦を招いてくれましたので、思い出して再アップしました。彼26歳(今月中)彼女22歳のカップルで、実は2年前に婚約し式をと考えていてコロナ禍のなかどうするかで、3ヶ月前に入籍そして2人ともコロナ感染、それを抜け出してきての今日でした。
北海道生まれで育ちの若い妻を前にして、先週観たテレビ「幸福の黄色いハンカチ」の話とか寅さん談で大変打ち解けた場になり、これでアルコールがあったならと、次は車で来なくっても良い場か泊まりで迎えたいものだと思っていました。
身内に若夫婦がいることは、ジジババ夫婦にとっての活力にもなるものですね。そして祖父母、義親夫婦、自分たち夫婦という形で卓を囲み会食懇談したことが、若妻としての席も定まったと感じられたのではないでしょうか。つぎの機会は北海道から親兄弟を招き、あらためて式を挙げる予定だと言います、待ち遠しいです。
石垣島の孫息子を迎えた日に……。
したいひゃー!ちびらーさん!
わったー デニー知事の再選!
「誰ひとり取り残さない沖縄をつくる」と県内各地域で強く訴え続けたデニー知事バンザイ!
翁長雄志さんと新里米吉さんの遺志をしっかり引き継ぎ、デニー知事を支え支えていこう!
この島の未来は私たち県民一人ひとりが切り拓いていく。
こちらも、
昨夜孫娘から帰りの予定を聞いてジジババも成田空港まで見送ろう、と今朝は6時起き、朝飯は昼飯と兼ねて空港のどっかで食べる事にしてお茶一杯で出発。
成田空港まで一本で行く線があることは知っていましたが、乗って知るのとは違います、空港と言ったら羽田という認識が改まりました。2時間半ほどですが、昨夜、じいちゃん電車内で2時間以上だけどトイレ大丈夫? と心配してくれて「まあ大丈夫だろう」と言った通り大丈夫でしたが、その孫娘が車中でじいちゃんこれ頼むとキャリーバックを私の前に、人をかき分けトイレへ。ジジの同行が救いの神になったのです。
かなり余裕を持って出てきたので食事後も、場所を移してかなり話し合う時間がとれてババさんもゆっくり話が出来てよかったね、と。話しながら私のバックのなかの本を渡すのを後にしようと考えました。一つはジジだけでなくババと共有の思いを伝えようと思ったことです、そのためには本をばあちゃんにも読んでもらわねばなりません。
もう一つは本人がいま取り組んでいることの関連で『私のひまわり戦記』の内容について当方で深めておきたいし、もう一冊の『日本軍と戦争マラリア』もよく読んで2冊の内容を前提に2人の孫に共通の思いを伝える。来月くる予定の孫息子を迎え話し合いを通じて、ジジババ世代が孫世代に託すこと、祖父母としての私たちと亡くなった娘の2人の子としての孫2人、その父親に何を託すのか何を伝えるのか、よりはっきりしてくるでしょう。
そんな思いを持ちながら、空港で孫娘と別れ途中下車して成田山新勝寺に寄りました、はじめての参拝です、ここではこの2枚、
門を背にこちらを向いている人がばあちゃんです、
孫が迎えるそれぞれの試練は本人の奮闘努力の結果によるのですが、ジジババとしてはこれです。ばあちゃんが孫娘の受験の、ジジが孫息子の学業への成就を願ったのです。
一昨日孫娘を迎えこの3年間の「成長」を実感しています。彼女に託す期待がこの本を贈ることにあるのです。
本を買う時点で石垣島の孫に贈ろうという思いはありました、それは2人とも小学生の頃だったと思います。書き手の宮良ルリさんも石垣島の人ですし、ルリさんの宮良と孫たちの宮良の繋がりはわかりませんが、何にしても同姓であれば狭い島社会のなかで何らかの繋がりが考えられます。とは言え3年前にはそんな思いは浮かびもしませんでした。ただ母親を失った思春期の彼女がこれからどう進むのかに気持ちが奪われていました。
この3年間2人の孫にとってババさんは本当に支えでした。そして見事二人とも母親の死を受け入れ、生きる力にしてきたと思います。それだけに娘が母親として子供の成長を期してきた地域・石垣島に自分自身を知るきっかけを示す役割がジジにあると思うのです。
実はもう一冊著者宮良名の本があります。
『沖縄戦の記録 日本軍と戦争マラリア』宮良 作 著です。書名と著者の控はあるのですが、肝心の本が見当たらないのです。こちらの方はかなり後から買った記憶があります、こっちは孫息子に贈ろうと最初から考えました。
本を通じて何を託したいのか、それは著者の思いに共鳴してそれを次世代に託していきたいからです。『私のひめゆり戦記』で言えばこれです、
ロシア軍によるウクライナ侵攻が半年間になろうとしている現時点で、21世紀を担う孫世代がジジババ世代の声を心に届ける努力が急がれます。そして台湾をめぐる緊迫した情勢です、歴史から学びつつ21世紀を展望する視野をどう作りあげていくか、ジジ世代として己の視野もそれに重ねあわせるものでなければと思います。
自分の祖父母と言うと父方の父親の写真が兄の家に飾られていますが、いつ亡くなったのかもその歳も全く知りませんし、これを書くまで無関心でした。祖母となるとまったく……、知る手がかりがあるのだろうか? 知る必要があるのだろうか? 実に無関係のなかにいます。
母方の祖父母のうち母の母親、お婆ちゃんは遥か昔の上田の母の実家、東京から疎開して、少し落ち着いたころ母は当然小池家一同で挨拶に行っているでしょう。その時のという記憶では無いのですが、奥まった部屋に背中を丸めた老婦人を思い浮かべることは出来ます。祖父はすでに亡くなっていたでしょう。
私ども夫婦の孫は4人、2人は20歳代後の2人も20歳に2年3年というこれから世代です。さてこの世代へ、何をどう託していくか。明日は孫娘とジジババで考えてみよう。人生100歳時代とはジジババ世代が自分の言葉で直接語りあえる時代だということ、私どもがジジババについて無知であった時代とは隔世の感あり、で世代間に橋をかける直接の工事者である、責任も負っているでしょう。
昨日に続いて孫のことから、
昨日紹介した記事の写真部分に「大学では量子力学を学びたい」とありました。
彼が取り寄せた本です、
私にとっては全く未知の世界ですがパラパラめくってみて、面白いなと感じました。表紙にある相対性理論などには最初から縁なしと決めつけてきましたが、アインシュタインも含めてまったく分からんと決めつけることもなさそうだ、という感じです。
それにこの理論が医学に大きく貢献するのではないか、こんな学部が北海道大学にあります、
がんを病む母親と生活をともにしている日々を通じて、学問が人間の生活の豊かな発展に貢献する為のものだという思考を身につけられるのではないか、そんなことを感じる日々です。
久しぶりに孫のことをつぶやきます。昨年9月1日に横浜港で見送ったことは、9月2日の「つぶやき」に、
横浜に戻って来たのが12月17日でした。最初から戻ったら葉山にいてアルバイト口を探す予定でした。ところが葉山には母親が治療のため寝込んでいたので彼の生活はアルバイトは二の次に、婆爺の手助け中心の生活になってしまいました。
そのなかで、新聞のインタビューを受けていました、先月の17日でした。
石垣島の地元新聞「八重山毎日新聞」(2月1日)ですが、取材は品川で受けたとのことです。記事は石垣島の父親から送られて来ていたのですが……