kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

命のゴール

2019-09-07 21:14:08 | つづきの海を はろば...

「逗子古文書の会」と略称で書きます、この会とも8か月ぶりかのお付き合い開始になります。今日事務局の山田さんと会い色々この間のお話しを聞きました。

会に顔を出せなくなった間に会長も代わり、新しい人も参加すれば今までの人が来れなくなったりして、会の運営もなかなか難しいようです。

私がこの会に顔を出すようになったのは亡くなった黒田先生から声がかかってのことでした。来週の講演会準備例会から参加しようと思いますが、改めて黒田先生の郷土史に対する思いを確認しておかねば、と以前の当ブログに目を通しました。

ここでは「死に場所」学とありますが、膀胱癌という病を経験してみて「命のゴール地点」と称すべきと考えました。一昨日の句会後の飲み会で「死ぬ」のではない「生き抜く」のだ、と酔いも手伝って大いに主張しました。「結局は死ぬのではないか」とか言われ、同感されたとは思えませんでした。

しかし、今改めて黒田先生の最期のことを思うと、これが「人生を走り抜け、命のゴールを駆け抜けた」というべき姿だと思えるのです。その勢いを感じるからこそ、バトンを受け取り駈け出さねばという気になるのです。


平成の最後の日に……。

2019-04-30 21:38:26 | つづきの海を はろば...

昨日の「つぶやき」の続きです。

黒田康子さんの書かれたものに関心を持たれたということで、お会いした方は60歳代前半、建築士で逗子市をはじめ町づくり運動に携わっておれらます。

こういう方と黒田先生の思いを共有しつつ、郷土史に限らず町づくりを共にすすめられたら嬉しいことだと思い、平成から令和へ、時の区切りを記憶に残せる出会いでした。

先生の書かれたものをまとめた何冊のうちの一冊

から先生の短歌を、

「社会残酷」は昭和の終わる日を詠まれたものでしょう。

 

元号「令和」に対するこの解説を先生が詠まれたら同感!疑いなしです。

 

https://galapgs.com/economics/politics/domestic/meaning-of-reiwa/


黒田康子さんの「手形」

2019-04-29 21:21:38 | つづきの海を はろば...

黒田康子(しずこ)さんの足跡というべきでしょうが、足より手の方が繋がりという意味では適切だと思います。実は明日、黒田先生の遺された郷土史を中心にしたものについての活用を話し合うため、逗子の方とお会いすることになりました。

「つづきの海を」は黒田先生に関する「つぶやき」のためのカテゴリーとして設定したのでしたが、この2年半ほどつぶやいていませんでした。黒田先生が残された「逗子古文書の会」に属してきましたが、先生の取り組まれたことについて直接的に関わることは少なかったと思います。

 手元にある郷土誌「手帳」の最終号を広げてみました。

 

 

「編集後記」は黒田先生の弁ではなく、編集を担当されていた方が書かれたものです。これが記されたのは2008年の末でちょうど10年余前、2015年には先生が亡くなりこの後記を書かれた方もすでに「霊明を別ち」ています。

明日の話のなかでここに言われる「後継の人」たろう、という思いになるのか、楽しみな予感もありますがそれはアシタ……。

「国の歴史を忘れゝば国の未来を描けない如く、町の歴史を探求しなければ町づくりは出来ない」の思いは共有していると考えています。


「最後の葉書」へ ー3ー

2016-11-16 21:53:28 | つづきの海を はろば...

   黒田曻義(のりよし)さん、康子(しずこ)さんのこと。

   このタイトル・「最後の葉書」は黒田康子さんが夫・曻義さんに出した手紙を追いながら曻義さんから届いた「最後の葉書」までのあとをたどってみたいと思っているものです。先にも書きました様に康子さんの手紙には日付がありませんので、交換書簡であるはずなのですが、康子さんの手紙に対する曻義さん手紙が特定するのが難しいでしょう。

  朗読劇「最後の葉書」の台本を書かれた松田光宏さんはこんな風に書いています。

《 曻義さんの手紙は日付通りに対し、康子さんの手紙はバラバラ…、日付も無ければ枚数も紛失していて全く足らない。しかも一行単位で違う。(そこを散々の苦労して)気が付けば、手紙の殆どの内容が頭の中に入り込んでいた。》

   そういう状況ですから、手紙のはじめは康子さんの手紙より日付のある曻義さんの手紙からはじめましょう。引用は久保岳明さんの編集された冊子「最後の葉書」によります、この件については久保さんのご好意により了解を頂いています)。

昭和15年9月9日  

   第1便拝見、あなたの計画はたしかに大胆であった。しかしその神速にして率直な方法は賞讚するにあたいすると思う。まことに鮮やかな新体制です。

   しかしあなたの手紙はあなたを捕捉すべくあまりに空漠としている。だがあわてなくてもいい。この手紙一本であなたを結論づける程、僕も粗悪ではないつもりです。

   このあと自己紹介から家族の紹介と続き、

《 これであなたの志向に動揺が来ないようでしたら、まず僕がおやじに報告して事務的な処置をとろうと思います。即ちあなたのOKと、おやじのOKをまって早急に東京で逢い、一気にイエスかノーを定めるのです。東京にはあなたのお兄さんがおられるし、僕の畏敬する叔父もいますから、それらに同席していただいてあなたと懇談し、僕の結婚を組成するわけです。》

   ここに書かれている康子さんが第1便を出すに至るまでを紹介しなければならないのですが、少し先に伸ばして朗読劇「最後の葉書」でいただいた〜黒田曻義・康子夫妻〜を、    


「最後の葉書」へ ー2ー

2016-11-14 21:48:49 | つづきの海を はろば...

   ー1ーの続きとして黒田先生の「私の手紙」を紹介しようと思い、それには「手紙」を一通り読みもう少し黒田先生のことを知ってからと考えたのです。そしたら冊子「最後の葉書」の「黒田康子先生の足跡」にこんな記録がありました。

《 昭和54年 1979  3月  江上波夫氏率いる「東アジアの古代文化を考える会」の一員として、2週間ウルムチ(新疆ウイグル自治区)を旅行》

この時の話を先生から聞いた記憶があり、その時これを頂戴したのでした、

話をしながら見せてくれて、手に渡してくれ「持って行ってもいいよ」と言われたので頂いてきたのですが、写真では赤味がかっていますが全体は灰色でラベルの文字もかすんで見えません。電気スタンド光のせいでラベルの1979が読み取れます。

   その時はただ聞いただけで記録もとらず他の資料も見ずでした、終わって、「また聞かせて下さい」「いいですよ私の方も整理しておきますから」と言うようなことで終えてしまっていました。その事だけでなく何時も話だけでこちらもノートをとるわけでなく、テープを取っとおけばといまは後の祭りなのです。

   「私の手紙」もまずは先生の書かれたものを記録していくべきなのでしょう。「先生の書かれたもの」と言っても手紙そのものを写すわけではなく、黒田夫妻の手紙を編集された「最後の葉書」(久保岳明氏編集・平成二十七年六月十日 第七刷)によってつぶやいていこうと思います。

 

 写真で見える「やはりうかうかしては……」あたりから写し開始とします。

《 やはりうかうかしてはいられないと思う。しかし、考えてみれば何も慌てる事もないよう気もする。別にとりたてて他人と変わった人生でもなかったし、まあ、云ってみれば、戦争で国に夫を奪われて、以後四十年を一人暮らしして来た事ぐらいが人と変わった所かもしれない。この体験だけは日本人にも他国人にもさせたくない。七十年を生きてきて、私の終始変わらない思いはそれだけだ。

   私は五年程前、「この海の続きの海を」  という、夫の鎮魂の書を出した。ベストセラーにするつもりでいきごんだのだが、見事ワーストセラーになって、世の無情を知ったのだが、その時に書き残した部分がある。それは私の彼への手紙の部分である。それを書き残した ーーー つまり書くべき所を書かなかったのは、偏えに自分のずるさによる事は分かっている。いや、ずるさだけではなく、もう一つの理由もある。私の手紙は、どうもある時点で一部分焼き捨てた事があるらしく、どう見ても揃っていないのだ。それに、残っているものも、余程心臓を強くしないと人に見せられるような代物ではないので、このまま私と一緒に棺に納めて貰おうとも思っていたのだが、思い直した。恥は生きている内でなければ書けない。土曜会の久保先生の還暦記念誌に書き残しておくのもよかろう。昭和十五年に二十五歳だった女の記録である事は確かだ。せめて会の人たちが読んでくれれば…などと、これは七十二歳の老女の感傷のさせる業である。》   

   こうつぶやく様に書き写していると、 まだ先生の話を聴いていた頃は耳も不自由なく聴き取れていた筈だから何かと記録をとっておくべきだった、とまた後悔が……、あるいは記憶にないがどこに記録したものがあるかもしれない、とかすかに雑然とした文書の山に目を向けます。

   写真の新疆ウイグル自治区の古代の壺の一部か、擦ればその地の砂か土かこちらの手に移る、この物も雑然とした机の上に置かれたままでいた物です。先生の縁がこの物を近づけたとすればあるべき物は私の周りに出てくるでしょう、 そんなことも期待しながら後を続けたいと思います。                   


「最後の葉書」へ ー 1 ー

2016-11-13 21:36:55 | つづきの海を はろば...

   昨日の朗読劇「最後の葉書」について今日友人に会って話をして、二言三言付け加えようと考えもしていたのです。それが先に伸びたので、朗読劇の元になった黒田先生の書かれたものに目を通してみました。

   そして自分で黒田先生の手紙を追ってみる必要があると思ったのです、朗読劇「最後の葉書」は文学座附属演劇研究所出の松田光宏さんによって台本化されたものです。昨日は最前列に座って、それこそ足を伸ばせば、女優・九里(くのり) みほさんの足に触れる位置でしたが、例によって聴こえないところもありました。本当は台本そのものを見られればと思うのですが、そんな機会が来ればありがたいのですが。

下の写真は九里みほさんのブログからです、ブログはこちらです。    http://ameblo.jp/kunoapa2/entry-12216617596.html

 

   今、この「kaeruのブログ」を振り返ってみたら2012年8月18日に「学ぶべし、老女パワー」とのタイトルで黒田先生のことを「つぶやき」下の一文(太字)がありました。(Bさんとは黒田先生のこと)

  97歳のBさん、郷土史家として現役の日々を送られておられる。

「なんでもかんでも忘れてしまうから、なんでもかんでも書いておく」 と白紙を自分で綴じたノートにびっしり万年筆で書き連ねてありました。 夫を戦死させた戦争への怒りが、その後のこの人の姿勢となっています。 地元の 「憲法9条の会」 の活動家でもあります。 人間がぎりぎりのところまで自分の信念に忠実に生き抜いていく姿には、 「敬すべし、 学ぶべし」の思いを深くします。

   この日のブログでは黒田先生と当時77歳のご婦人・Aさんの二人についてつぶやいています。Aさんとは今も黒田先生の関係のことを一緒に取り組んでいます。

 「黒田夫妻の往復書簡集・最後の葉書」の6頁に「私の手紙」と題しての一文から往復書簡がはじまっています、それは後日にします。以前、黒田先生関係のタイトルを「この海の つづきの海を」にしたことがありました。今回「つづきの海を はろばろに」として引き継いでいくことにしました。


朗読劇「最後の葉書」逗子上演。

2016-11-12 22:17:25 | つづきの海を はろば...

    9月5日「100歳の命を引き継ぐもの」 で紹介しました朗読劇「最後の葉書」の地元逗子での上演がありました。今夜は少し先を急ぐとことがありますので写真とひとことだけで失礼します。

   今日2回明日1回の上演。

 

東逗子駅前のスタジオ955の入口前。

 

スタジオと言っても椅子で50席の板敷きのままの部屋、舞台と言っても前の人が足を伸ばせば出演者の足とぶつかるような空間、椅子に先生の遺影が置かれていました。

二言三言は明日にします。


自分の地域をもっと知りたい。

2016-11-01 20:30:50 | つづきの海を はろば...

   一昨日でした、この講演会があったのです。今回で6回目私が係わったのは故人になられた黒田先生から声がかかって出た第4からでしょう。その都度こういうチラシ的ポスター的なものを何十枚と葉山町図書館などにおいてもらったのです。

   ところが今回はそういう話がないうちに当日になり、葉山町から逗子市内に来てみても広報板にこれが貼ってありません。あれ? と思って逗子の人に聞いたら一部に貼っただけとか。

人手が足らず間に合わなかったのか? ならば参加状況は? と思いつつ受付にいると来るは来るは、という感じです。

 定数60をはるかに超え、

部屋の中入れず、

外でノートを取っている人も。

大変評判がよかった話はこの人、神武寺の副住職・土屋慈恭氏。

* 続「神武寺を知ろう」をたのしみにしています。2回といわずずーと続けて下さい。

* 時代がわかり、お寺の歴史その他とても良いお話でした。又聞きたいです。

* 楽しくお話を聞かせていただきました。続きをぜひお願いします。

* 直接お話しをお聞きする機会に感謝‼︎  もっと知りたいので次の機会をつくって下さるようお願いします。

* とてもよかったし、立ち見もいたそうですので、第2回、第3回も続けてやってほしい。

* 大変有意義な話であった。次回もこの「続き」をお願いします。

 

   身近にありながら、それも自分の生まれてくる前からあるものの歴史をきちんと知ることに大きな関心があることが分かりました。これも故黒田先生の願っていたことでしょう。一周年忌に相応しい催しになったと思います。


100歳の命を引き継ぐもの。

2016-09-05 21:49:56 | つづきの海を はろば...

   昨年の10月1日に黒田康子(しずこ)先生が亡くなりました。その時のことは「kaeruのつぶやき」でも触れてきました。

黒田さん、亡くなりました。  

それからほぼ1年経ち、今日こういう形で先生の生き様を描いたものに接しました。

 「最後の葉書」とは、黒田康子先生の夫・曻義(のりよし)氏が戦地から送った最後の葉書のことです。お二人の手紙を構成して書きあげられた朗読劇を題して「最後の葉書〜黒田曻義・康子夫妻の往復書簡〜より」としたのでした。

出演者のひとり・九里(くのり)みほさんは黒田先生の教員生活最後の教え子で、女優、声優等で活躍しています。

彼女のフェイスブックです。

 


   実はこれからが今日の本題なのです。

   先生の死の直前の言葉は「栄養剤を」だったそうです。あらためて生きることへ、なすべきことへの執念ともいうべき気迫を感じるのです。その先生の死の寸前まで示したエネルギーが生きている者を励まし、若い人を行動に向かわせていたのです。

   実は今日は逗子と葉山の知人と黒田先生の没後一年を前にして、その仕事や志を受け継ぐべく「何をなすべきか」の下相談に集まったのでした。その場でこの朗読劇を知りました。現在取り組んでいる10月30日の講演会「神武寺を知ろう」もその活動の一環ですが、より広く活動を進めたいという思いがすでに広がりをもっていることに心強さを感じました。  

   この朗読劇を地元・逗子で観劇出来ないか、その取り組みを通じて先生の事業と遺志を発展させる確かな方向を自分として見出したいと思います。


「死に場所」学。

2016-07-09 22:10:40 | つづきの海を はろば...

   以前、黒田先生と何人かで話をしていて、郷土史と地域史の違いが話題になったことがありました。

  その時の先生の言葉がこの新聞の記事になかにありました。

「郷土とは自分の生活の場、死に場所である。郷土史とは名所旧跡を宣伝して町おこしに使われる手段だけではなく、我々庶民が現在までこの国をどう生きてきたかを知り、永久平和に近づく手段を模索する学問である」と。

   また「時の為政者の圧力の中で、如何に服従し、抵抗し、より自分達の暮らし易い生活を築こうとしてきたか」、より良い未来を築くための手がかりが郷土史だ、と。

  先生の書かれたものによれば、郷土史研究の発端は中学校の教師であった時期「逗子の過去・現在の総合調査を行い子供達の教育に役立てようという」ことにありました。過去の知識を未来に役立たせる、この立場は一貫しています。

 「死に場所」学などと気になるタイトルですが、我が身の終焉の地が定まっている以上、この地をより良い場にしていく努力のひとつである郷土史はこう呼んでもそう間違いではないでしょう。