信長はいかに死んだか。
【 明智の軍勢は御殿の門に到達すると、真先に警備に当たっていた守衛を殺した。内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には若い武士たちと奉仕する茶坊主(ラバードス)と女たち以外には誰もいなかったので、兵士たちに抵抗する者はいなかった。そしてこの件で特別な任務を帯びた者が、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭いで身体をふいている信長を見つけたので、ただちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀(ナギナタ)という武器を手にして出て来た。そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。だが火事がおおきかったので、どのようにして彼が死んだかは判っていない。我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくんり、彼のものとしては地上になんら残存しなかったことである。】
フロイスは以上のように記しています、『信長公記』には次のように書かれています。
訳注より【「信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の絃切れ、其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是まで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追い出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け來たり候。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か、殿中深く入り給ひ、内より御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ……」】
終わりに『フロイス 日本史 5』(普及版)を紹介します。
帯に杉浦明平氏の書評が見えますが、「キリシタン・バテレンたちは、出島に軟禁されていたオランダ人や、外交特使以外と交渉できなかったロシア人やアメリカ人とちがって、ほとんで権力者の側におり、(略)信長、秀吉、家康と交渉をもったしかれらの麾下のキリシタン大名や近臣からたえず情報を手に入れることができたのである。」ということです。
それではテレビの前に向かいます。