kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

腰は低く志は高く、『資本論』と「大暴落」。

2013-05-31 12:27:22 | kaeruの『資本論』

 腰を低めて痛さをおさえ、志を「不破本」に頼る。

 

 このブログに張り付いている「広告」のグラフです。単純に言えばアベノ

ミクスの「狙い」がわかるグラフです、5月に入って頂点までは……。

 これで、「景気回復」をマスコミに宣伝させて参議院選挙へ、と。

 

昨日「2008年大暴落」のことに触れましたので、このグラフも。

グラフは上と同様「kabunogakkou」によります。

 

 不破哲三さんの『マルクスは生きている』の該当ページを開いてみました。 

 127㌻「世界経済危機をつらぬく恐慌の論理」の見出し。「2008年に始

まった今回の世界経済危機について、……」の書き出しで『資本論』研究で

切り拓いた恐慌理論に基づきこの「大暴落」を解明しています。

 

 なお、昨日の『大暴落1929』の写真も今回同様Amazonからの

転写です。


『大暴落1929』

2013-05-30 15:22:55 | 本のひと言

大暴落1929 (日経BPクラシックス)

この本の1997年版の「まえがき」から

「本書は1955年に初版が~、増刷され本屋の店頭に並ぶたびに、バブルや

株安など何事かが起きる~1955年春上院の公聴会で過去の投機と暴落

について証言したその最中に株価が突然落ち込んだ。そのため恨みを買い

生かしておけないの脅しの手紙や共和党の議員からはガルブレイスは共産

主義の擁護者で資本主義を陥れるために暴落を仕組んだと言われたもので

ある。」

「(株価上昇の)終わりは、つねに始まりよりも突然である。針を刺された風船が

しずしずとしぼむはずがない。」「私は一切予想はしない。言いたいのは、この

現象は何度となく繰り返されてきたということだけだ。」

 

 株などにまったく縁のないkaeruがこの本を買ったのは、やはり2008年の暴

落に関心があったから、でも株市場のことはよく分からず4分の1ほど読んでそ

のままになっていました。

 バラバラとめくっていたら「人は幸福なときほどだまされやすい」という言葉が

引用されていましたが、それに「不幸なときも」と付け加えなければならないで

しょう。 

 賢い有権者になるためには科学的見識が必要で、その一助として

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-05-30/2013053001_05_1.html

をクリックして読んでみてください、あわせて右側の「アベノミクスもうけ」の方も。

 

 kaeruの頭痛は生理的なものですが、この間どれほどの個人(零細)株主が頭の

痛い思いをいていることか、投機にたよらない安定した生活設計が見通せるような

経済のあり方を語れる力をつけなければと思います。


さて、鎌倉は?

2013-05-29 20:03:11 | 逗子 鎌倉 それぞれ

 鎌倉の「世界遺産」は、出直し作戦になりました。「推薦」を取り下げ新規

まき直しでいく、ということです。

 

 私たちは昨日の続きの今日を生きて明日へとつなげていくわけです。歴史

を生きつつ歴史をつくるという毎日です。とはいえ、それは結果論でそんなこと

を意識して暮らしている訳ではないのです。

 鎌倉市民のなかで「世界遺産」反対の世論もかなりある、これ以上生活のな

かに「観光」が入り込んでは困る、というわけです。そういうことも含めて「世界

遺産」への道を切り開いていくには何が必要か。「新規まき直し期間」はその意

味で良い機会にできるでしょう。

 「いざ!鎌倉」という掛け声ばかりでなく、「どうする?鎌倉」と自問自答するな

かにkaeruも加わろうと思います。その意味で下のブログは格好の材料を与え

てくれますので、紹介しておきます。 

http://blog.livedoor.jp/kikurotakagi/

 

 昨日から気になっていた腰痛が気候のせいか酷くなってきました、横にならせ

ていただきます、お休みなさい。


16歳が 『資本論』 を読むということ。

2013-05-28 20:48:20 | kaeruの『資本論』

 宮沢章夫さんが高校時代に 『資本論』 を読み出したということがこの 「カテ

ゴリー」 のはじまりでした。16歳くらいで「資本論」に挑戦するのはどういうこと

なのでしょう。

 ♪♪ 十五、十六、十七と 私の人生 暗かった    藤圭子 

   青春時代の真ん中は 道に迷っているばかり  森田公一 ♪♪

 で歌われるようにこの時期は「明るい青春」ばかりではありません。「自立」へ

歩み出した中学時代をぬけ、より骨太の「自主」を生み出したいという熱望が

心身を焦がします。 身体の世界でも精神の世界でも 「強固な物」への挑戦が

自己目的になります。

 なぜ「資本論」を読むか? そこに「資本論」があるから、という「精神」です。

 

 トーマス・マンの長編小説 『魔の山』 にレオ・ナフタという人物が登場します。

彼が16歳のときのある神父と語り合う場が書かれているのです。

 「彼(神父)は少年の答えから~ふかい知識と、思考の辛辣な洗煉性にふれ、

この二つは少年(に)~意外な感じをあたえた。マルクスの話になったが、レオ

はその「資本論」を普及版で読んでいた」。なお、レオはすでにヘーゲルの「文

献もなにかと読んでいた」と。

 この長い小説はまだ読み終わっていないので結論ではありませんが、レオが

社会主義者になったわけではありません。それどころか「解説」を先読みすると、

小説のなかで革命的、民主主義的な市民時代のイデオロギーを代表するセテム

プリーニに対して、レオは「陰惨な保守主義、全体主義、ファシズム」の非合理主

義者として描かれるようです。

 

 16歳という年齢は順調にいけば10年後は社会人としての当初の関門をくぐり

ぬけたという時期です。その時自分を取り巻く「社会」の本質について、解くカギ

に目を向けはじめるのか、すでにそのカギを持っていることに「気づく」のか、で

は大きな違いがあるのです。

 宮沢本の「あとがき」に、

“ 「読む」という行為のなかで、なにか自身のなかに「教養」とはべつの、「気づき」

のようなものがあってこその読書ではないか”

と述べていることとつながっているでしょう。


死んだ親があとに残す、「仕事の歌」 『資本論』。

2013-05-27 17:21:57 | kaeruの『資本論』

 http://www.youtube.com/watch?v=Vy29Jga6GyY

 昨日タイトル「死者があとに遺すもの」と口に出たとき、この「仕事の歌」

が思い出されたので今日はそこからです。 この歌を聞いたことがある人な

い人、歌ったことがある人ない人、上の3wをクリックしてみて下さい。

 以下 三番の歌詞(繰り返し部分略)を

   死んだ親があとに残す 

   宝物は何ぞ 

   力づよく男らしい それは仕事の歌

   力づよく男らしい それは仕事の歌

 音痴kaeruが一時「うたごえ」に参加したのも、採点されない音楽を楽しむ

ことを体感したからですが、それは合唱のもつ楽しさと歌詞への同感があり

ました。そのなかでもこの歌は印象に残るものです。

 

 それに加えて『資本論』とは?

 宮沢本を読んでいても、『資本論』そのものにも目を通しているのですが、

これはかなり『資本論』→『労働論』→『仕事論』となるのではないか、と思

えるのです。もちろん「作業・動作」の仕組みとしての「仕事」が「単純労働」

の基本にあるという意味です。 だからテイラーの『科学的管理法』というの

もあるのでしょう。

 それとkaeruも親世代から爺世代に移行してきて、何を孫に残すか?とい

う課題を担う時期になりました。

 一番上が高校二年生、そこで彼に『高校生からわかる「資本論」』の購読を

すすめようと思います。あわせて、「kaeruのつぶやき」につきあうようになれ

ば常連が増えるというものです。


「死者があとに遺すもの」、 逗子市/まんだら堂・やぐら群。

2013-05-26 20:47:21 | 逗子 鎌倉 それぞれ

 

 逗子市の「名越切通」の「やぐら群」です。晩春とも初夏ともいえる快い

風が切り通しを抜けていくなかを行ってきました。

 今回の公開最終日で、「受付」の人に「資料は無くなりました」と言われ

残念と思いながら歩き、写してきました。

 いまこの写真で気づいたのですが、「やぐら」は三階建?なのでしょうか。

建てたわけではないから三層というべきでしょう。

 「やぐら」の前の「広場」に一つだけ小さい「石塔」があり、いかにも昔から

「あった風」ですが、話では以前ここが私有地であった頃は石もバラバラに

分かれごろごろしていたそうです。なんとか組み立てて「やぐら」に納めた

りしたそうですが(もちろん以前から内部にあった物もあります)、そういう

なかでこの場に遺されたのでしょう。

この写真は掲示されていたもので「火葬跡」、

下は斬首された頭部だそうです。

このURLは逗子市のHPです、よろしければ覗いて下さい。

http://www.city.zushi.kanagawa.jp/syokan/syakyou/newbunkazai/nagoe/nagoe.html

帰りは鎌倉へは出ず、小坪に下りてきました。

紫陽花の季節が近いとの「知らせ」です。

さきほど立っていた場所は火葬場の跡で、人骨片が出るそうです。

「年年歳歳 花相似たり 人同じからず」


商品の声、「知らざあ言って聞かせやしょう……」

2013-05-25 19:40:32 | kaeruの『資本論』

 「知らざあ言って聞かせやしょう」、これ歌舞伎の「白浪五人男」の「弁天小

僧菊之助たァ、おれのことだ」の名科白ですね。ついでに、この台詞には鎌倉

関係の地名が「七里ガ浜、江の島、(江の島の)児が淵、上の宮、岩本院」が

よみ込まれています。

 この場面で女装を見破られ、居直って正体は盗賊であると明かすわけです。

見破られる切っ掛けになったのは腕の桜の刺青です。さて、弁天小僧は居直

りの正体暴露に及んだのですが、商品が自分で暴露する前に見破ることはで

きないのでしょうか。

 

 見破る方法について「(弁天小僧の場合は腕の刺青でしたが)商品の分析に

は腕をまくらせても、叩いても拝んでも正体が現れるものではない」と、マルクス

的に言えるでしょう。

 それなら何が必要か? それです、推理する能力=どうしてこうなるのか? こ

の中はどうなっているのか?と、見抜く力です。「抽象力」と言い表わせる人間

的能力です。対象(物)の本質をつかみ出す能力・分析力と言っていいでしょう。

 これはkaeru的俗話ですが旧漢字の「戀」、これを分析したウタ。

「戀の一字を分析すれば、糸し糸しと言う心」とは粋なことです、これを「恋」に

すれば、「恋の一字を分析すれば亦で抑える下心」とか。どちらも「戀・恋」の

本質を言い当てていると思うのですが。

 

 弁天小僧に戻ります、小僧が男だとバラされるだけではなく、盗賊だと明か

すには、もうひとつ舞台解説が必要です。小僧は武家の娘としてお供と鎌倉・

雪の下の呉服屋へ現われ万引き(をした様に装い)、番頭の振り上げた算盤

で額に傷を負い、それをもとに百両をせしめます。それを居合わせた武士が

見破ります、「詫び金目当ての騙りだ」と。

 私は歌舞伎などと縁の遠い者ですから、本を見ながら筋を追っているので

すが、呉服屋の店先、店主、番頭、丁稚が居て武家の娘とお供が絡む、そし

て武士がそれらしい役割をする。この関係が小僧の正体・本質を顕にする舞

台になっていると感じます。

 「商品の分析」というのも、「商品」とはどういう関係のなかで「商品」になれ

るのか、を見抜ければ武士(労働者)らしい役割がはたせるのでしょう。

 

 かなり宮沢本から離れてkaeru話になってしまいましたが、もうしこしお付き

合い下さい。


「展望」か「虚望」か。

2013-05-24 18:23:45 | kaeruの『資本論』

アクセス アクセス   訪問者 88 IP UP! (昨日・5/23の「アクセス状況」より)

       

 昨日の「アクセス状況」欄の右側がこの写真でした。法性寺の裏から

「名越え」に行く道を探しこの場に立ったとき、道の先が拓け明るく見え

たのでこの先が「名越え」だと、思ったのでした。道の先の「明るさ」に

小さな「展望」を感じ、さらにそこにたどり着けば大きな「展望」が拓ける

という風な感じで登りはじめました。

 

 なぜこんなことを「つぶやく」のか、実はこのブログに「株価16000円

への展望」 という風な広告が貼ってあったのです。 昨日、「暴落」で1万

6千どころか1万4千円台という「現実」のなかでもありました、先ほど見

たらさすが無くなっていましたが。

 株の世界では「3万円台も見えてきた」とか「囁きながら」、その世界に

資金を引き込もうとする動きがあるとか。 そういう「展望」をなんと名付け

たらいいのでしょう、「虚望とか幻望」ではどうでしょう。虚報という言葉は

辞典にもありましたが「虚望」はkaeru語です、虚報を「事実」として組み

立てられた「展望」とでも定義しておきます。

 

 さて、昨日・88IP、開設以来最多の「訪問者」数でした。これは「虚」では

なく、たしかな手触りのある数字です。PCやアイホなどへの「作業」がこの

数字の「正体」です。そういえば、「商品への問いかけ=お前の正体は?」

に対する「商品」からの答えをまだ聞いていません。

 宮沢本(これから「『資本論』も読む」をこうよびます)でその答えを探って

みます、明日は。


「アクセス状況」欄、復活!

2013-05-23 17:19:47 | どこまで続くかこのブログ

 いつ頃からか「アクセス状況」を示す欄がパソコンから消えうせていました。

ある時、「編集画面」とやらをいじってていたら、消えてしまったのです。どう

したらまたブログ画面上で見れるのか? せっかく待望のランク入りをしたの

に、その都度皆さんに見てもらえないのは残念だ、と思っていたのですが今日

「復活」しました。

 これはただイジッテいたら直った訳ではありません。 こうやればこうなるの

だと分かったのです。 いまさらそんなことも分からずブログづくりをしていた

のか、とお笑いの方もおられると思いますがご寛容のほどを。

 

 「テンプレート編集」という機能がありました、どだいこの「テンプレート」という

用語さえ 「?」 という有様ではじめたブログですから、その「編集」などとは縁

も所縁(ゆかり)もなかったわけです。まぁブログづくりも一歩一歩というわけで、

「kaeruのつぶやき」よりも「kameのつぶやき」が似合っているでしょう。

 

 いずれにしても画面左の「アクセス状況」欄をとくとご覧ください。なにしろお一人

お一人のアクセスの結果が数字化されています。貴方・貴女の「関心」もこの数値

の1とか2とかになっているので、そういう意味では「あなた」にその結果をお知ら

せするのは当然でした。

 この5月でブログ開設10ヵ月を超えました。この「ブログ世界」は不案内のうえ短

期間ではありますが「自己主張・自己表現、そして連帯」のあり方としてかなり広く

深い可能性をもっている世界だという実感をもつことができました。

 その実感をもとにあと二カ月ばかり次の段階を探りたい、と思います。今後ともよ

ろしくお願いします。