他に書かなければならない事があるのですが、今日のタイトルを「遺言」にしたのには二つわけがあります。
今日投函した柳誌「つばさ」への川柳に
〝遺言ってあれですこれです「つばさ」です〟
と詠んだのです。
それは友人のFacebookを見てのことです。彼は私の小学校時代の親友で、もう一人の3人でよく遊び、学びの方も連れあって、という記憶があります。中学に入って1年位は友だち付き合いだったかもしれませんが、いずれにしても中学高校でまったく離れててしまいました。
それだけに、十年くらい前偶然Facebook に彼の名前を見た時、本人⁉️ と思ったことを今でも覚えています。写真から当時の面影は感じられず、書かれている内容でもどうも一人暮らしで、猫を相手に暮らしている、という感じで、「本当に彼なのか?」の思いが強まっていました。
その後中学の同窓会で彼の名前を出したら、同じ大学を出て同じ会社に入った者がいて、本人だと分かりました。大手の会社でも同級生は事務畑、友人は技術関係であまり付き合いはなかったようです。
そんなことで、確か同級生から連絡先のメールアドレスを知り、小学校時代のこと、同級生のことなどなど懐かしく思っていると送信しました。しかし、返信が無くもう一度送ろうかと思いましがやめました。同級生の話では彼は離婚し一人暮らしをしていること、大学会社関係との繋がりも弱いとのこと、多分古い縁者との関係を意識的に避けているのか、と思いました。
同級生は既に数年前に亡くなっています、彼は? とも思います。
それでもFacebookは2017年のまま、今でも見られます。あらためて見ると2012年から始まって、その当時の顔写真が……。見ていると、会って見たくなります。
そんなことで彼のFacebookは「彼の遺言」だと、思ったのです、もちろん謂わゆる「遺言」でなく、しかし社会への「遺言」と思います。私にとっては彼の「遺した」もの=Facebookです。
そう言えるなら、特にこの年齢で柳誌であれFacebookでも、ブログでの「つぶやき」であろうと「叫び」「説教」などなどは「遺言」として遺るでしょう。
さて、一つ目が長くなりました、次は本当の遺言です。
7年前の今日です。


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赤木俊夫さんの私への、あなたへの遺言だと思います。