kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

百句選び、なかなか大変です。

2014-04-29 00:56:14 | kaeruの五七五

 始めて自分のつくってきた俳句を振り返っています。

 

 それまでも句会に顔をだしたこともありますし、インターネット句会にも関係

したこともありましたが、今回のように俳句結社の同人を主宰にしての句会

ははじめてのことでした。

 手元にあるものでは2008年の10月から2012年一杯まで約170句、数

からいえばこのなから100句選ぶのは難しくないだろうと思っていましたが、

そうでもない作業です。

 

 半分の50句は全体の半分の80余句からでした。それでも一日の作業に

なったのは、そのまま出せるのが約6割、あとは手を入れたくなるもので、そ

のため時間がとられます。本当はもっと時間をかけるべきなのですが、あと

一日しかありません。主宰の方では10日前に連絡をくれていたのでしたが、

メールアドレスを変えたこともあり、この2年ほど連絡を取らずにいたため気

づいたのが一昨日でした。

 そのためにあわてての作業ですが、それだけに振り返り作業の大切さを

感じています。

 

 自分の句でも当時印象に残った句は読み返しても詠んだときの気持ちが

よみがえってきます。また、まったく覚えのない句も多くあり、詠んだときは

それなりの思いだったのでしょうが。

 だいたいだらしのない性格ですから、詠みぱなし書きぱなしで済ませてき

た訳ですが、反省しなければと思いはじめたのも「句集」づくりの効用のよう

です。


接続しているうちに。

2014-04-28 18:33:07 | 葉山そして人

 なぜ接続されないのか、が分からないのですから、当然なぜ接続された

のかが分からないのです。それも安定していません、2時間前は接続して

いていたのでこれで今日は使えると思っていたら、すこし他のことをやって

戻ると切れていました。そしてまた繋がるようになりました。

 

 とにかく繋がっているうちに、この数値を。

 わが町=神奈川県葉山町=の高齢化率の地区ごとの数値です。

 先週の木曜日の「てんがらもんラジオ」

( http://www.ustream.tv/recorded/46596737 )

でゲストの竹添さんが鹿児島市・伊敷団地の概要を話されていました。

そのなかに団地の高齢化率に触れてその数値が平成24年度で28.1%

とありました。鹿児島市全体では22.3%ですのでかなり高い地区であり、

4人に一人が高齢者だと話されました。

 このこともあったので、昨日ポストに入っていた葉山町の社会福祉協議

会の活動への参加を呼びけけるチラシにあった町の地区別の高齢者率が

目についたのです。

 

 伊敷団地の数値は平成24年度、葉山町のそれは26年度の違いはあ

りますが、いずこも同じ高齢化です。地区によっては3人に一人を越えて

います。協議会のチラシの文面にあるように「団塊の世代」(1947~49

年生まれ)が75歳になる2025年に向けて、包括的なケア体制の構築

地域の絆をつくることが、どこの地域でも求められています。

 

 ブログ 「70歳ー旅の途中  村永チトセ」 を通じて鹿児島市の伊敷団

地でのひとりのご婦人の「地域の絆」づくりの有り様が具体的にわかり私

にとっては貴重な記録となっています。たまたま出会ったブログです、多分

多くの地域でおおくの方が同様な取り組みをされているでしょう。

 ブログを通じての知見の広がりでした。この経験からいえば、インターネット

「地域の絆」づくりに活かすとことは大変有効なことだろう、ということです。

そのためにもまず不安定な接続状況をなくさなければなりません。


合同句集と「ブログ抄」。

2014-04-26 22:12:34 | kaeruの五七五

 以前参加していた句会の主宰からメールをいただきました。毎月1回の

句会が今回100回目を迎えたので記念して合同句集を出したいとのこと。

月1の100回とは8年以上になるわけで私が参加しはじめたのは2007年

頃からですからで、5年位参加していました。

 ここに二年位の空白があっての「句集づくり」の話です、それも100句を今

月中にということです。

 どれほどの句を出せるのか分かりませんが、自分のやっていることを形にし

ておくのも大切なことであろうと思い、100句整理できたらお願いすることにし

ました。

 

 そこで今資料をまとめてみましたらこの間に32回の句会(メール句会も)で

164句を出していました。かなり手元の資料で散失しているかと思いますが、

これなら100句を抄出できそうです。

 そんなことをやりながらブログも期間をきめて整理することが必要なのか、

と思いました。このブロウも600日をかなり越えています。毎日以前をほとんで

振り返ることもなく「つぶやき」つづけていますので、その日暮らし的「つぶやき」

になっているでしょう。

 俳句の場合は、振り返ってみて季語の理解が深まったとか何年前より五・七・五

のリズムを活かすようになったとかいうこともあります。ブログの場合でも成長・変化

はあるのでしょうが、それを自覚する機会はどういう場合なのか。一年間のなかで自

分の印象に残るブログ抄とか、あるいは気のあったブログ仲間で相互に意見交換を

する機会があっても良いんではないでしょう。


金沢着の手前、倶利伽羅峠。

2014-04-25 19:53:51 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅 (4/23日着信)

○現在地  倶利伽羅峠に到着しました。

○次の目的地  金沢

○次の目的地までの距離  45.9km

○次の目的地までの歩数  61,496歩で達成です。

また到着の知らせの着信を見落とすところでした。

「おくのおそ道」の「金沢の段」冒頭に

≪卯の花山 ・ 倶利伽羅が谷を越えて、金沢は七月中の五日なり。≫

とあります。七月中の五日とは、十五日のことです。

 

「おくのほそ道」文中には触れられていませんが、倶利伽羅が谷は倶利

伽羅峠の谷で、寿永二年(1183年)木曽義仲はここで平氏の軍七万と

対峙しこれを破ります。数百頭の牛の角に松明をつけ突進させ、この勝

利によって義仲は一気に京都へ攻め上るとことになります。

 芭蕉は義仲びいきで、後に自分の墓を義仲の墓と並べてほしいとし、

大垣市の義仲寺境内で義仲の墓の近くに作られているそうです。

木曽義仲は長野県の歌「信濃の国」 のなかで 「朝日将軍義仲も」 と歌わ

れていますが、その義仲をなぜ芭蕉がひいきにしたのか興味のあるところ

です。


春眠一日おぼえず(蛙の目借り時)。

2014-04-24 21:10:24 | どこまで続くかこのブログ

 「春眠暁をおぼえず」とはこの時期の言葉としてよく引用されます。 今日

あたりは暁どころか昼も眠気にとらわれまさに蛙の目借り時でした。

 「蛙(かわず)の目借り時」といっても一般には何のことか?でしょうが、

俳句の季語のひとつでなかなか面白い言葉です

 『角川俳句大歳時記・春』 の解説を紹介します。

≪春も深まる頃、人は眠くてたまらない。これは蛙が目を借りてゆくから

である、という俗説に基づく俳諧味のある季語である。この時季は蛙の交

尾期であり、異性を求めてしきりに鳴きたてる時期であるので、「目借り」

とは本来「妻狩る」、あるいは「雌離る」であるともいわれるが、俳句では、

やはり「目借り」と詠むべきであろう。≫

 目借時 老いては妻の御意のまま    宇田椰子夫

 目借時骨を抜かれしごとくゐる       下斗米大作 

 

、そんな目借状況の目と脳を覚ましてくれたのが薩摩おこじょ、平均年齢

70歳の四人の笑顔と声でした。その内容はこのURLで。

http://www.ustream.tv/recorded/46596737

 4月から1時間枠の放送時間が2時間になって3回目、一段と地域の姿

が見えるようになりあわせてインターネットを通じて、全国の声もよせられ

てきています。

 放送のなかで小生のコメントも紹介されていましたが、それに応えてくれ

た形で、地元の方が伊敷団地の概要を話してくれました。 半年前は全く

見も知らぬ一地方の団地が鹿児島の地名とともに身近になりました。そし

てこの団地でも高齢者が多くなっている有り様は全国に共通したものでし

た。 あわせてそのなかで高齢者が元気に活躍されている姿が生き生きと

伝わってくるのは魅力です。

 この元気が春の惰眠を覚ましてくれました。 


花冷え。

2014-04-23 21:29:33 | どこまで続くかこのブログ

 季語の「花冷え」について、「桜の咲く花時は陽気が変りやすく、ふいに薄ら

寒さが訪れてくることがある」とは、山本健吉『基本季語五〇〇選』のその項

の書きだしです。 例句のなかに

  花すぎて花の冷えある昨日けふ   /  占魚

がありました。丁度今日のことを詠んだかのように思い、挙げておきます。

 

 昨日の記事 『市振の段=最初の「別れ」、その3』 を書き終えたのが22

日の午前3時過ぎでした。実は21日中にほぼ書き終えていたのですが、

どういうはずみか、途中の操作中突然画面が変わり「あれ?」と思ってあわ

てたのがまずかったのか、書いた画面が出てきません。

 前にもこんなことがあった、その時は完全にでてきたので今回も大丈夫と

高をくくっていたら甘くみたことになって完全に消えていたのです。どこをどう

操作したのか不明でこれからもあり得る?

そんなことで、一日のリズムが狂い昨日今日と調子が出てきません。花冷え

がいっそう応えていました。

 

そこに「うれしいコメント」があり、冷たい夜に暖かいココアを口にした感じです。

今日のコメント欄の「yoshitaka/ 都議会議員・尾崎あや子さん。」です。

多分、私のブログ(都議会議員・尾崎あや子さん。 2013-06-26 |) 

を尾崎都議のブログと勘違いされたのだと思いましたので尾崎さんに転送し

ましたが、去年の6月26日付でもいろいろの繋がりができるものです。


市振の段=最初の「別れ」、その3。

2014-04-22 03:21:56 | kaeruの「おくのほそ道」

 芭蕉は 「おくのおそ道」 の中で「恋」にかんする事柄を三か所で述べて

いると上野洋三さんんは 『芭蕉自筆 「奥の細道」の謎』 で書かれてい

ます。

 そのキーワードは「契り」。 (文中の太字はkaeru)

 

 まず、「末の松山」 の段、こう書かれています。

≪末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松の間々皆墓原にて、翼を交はし

枝を連ねる契りの末も、つひ(終)にかくのごときと、悲しさもまさりて、(略)≫

解釈<有名な末の松山は、寺を建てて末松山(まつしょうざん)といっている。

松の木立の間々なみな墓原で、「末の松山波も越えなむ」と誓いあった比翼

連理の契りの果ても、ついにはみなこのように墓石と化してしまうのかと思え

ば、懐古の念の上に無常の想い加わり、悲しみの情もひとしおまさって(略)>

 ここに 「恋」の成就も、最も悲観的な観念で、まず第1に提示されている、

との上野さんの指摘です。

 

 第二は、「象潟」 です。この段には 

  象潟や雨に西施がねぶの花   をはじめ五句が詠われています。

 その五句目が詞 「岩上に雎鳩(みさご)の巣を見る」を付け、

  波越えぬ契りありてや雎鳩の巣   曽良

 <雎鳩は夫婦仲のよいものとされており、また男女の堅い契りを「末の松

 山波越さじとは」と詠んだ古歌もあるが、文字通り波の越えてこない約束

 があってのことか、ああして危ない岩の上に雎鳩が巣をかけている。>

 末の松山では「契りの全否定=死(墓)」であったが、雎鳩の巣に託して

 「危ない岩の上にありながらもかろうじてふみとどまるところに、(契りは)

 認め直されている。」とは上野さんの述べているところです。

 

 そして、第3が市振の段です。

 象潟から市振の間に越後路が入っています。越後路と市振の段を結ぶの

が次の二句です。

  文月や六日も常の夜には似ず

  荒海や佐渡によこたふ天河

「おくのほそ道」を「恋」をテーマにして読むと、この二句と市振の段は大変

魅力的です。上野さんは芭蕉自筆の「奥の細道」1万641字を総点検しつ

つ読み解いていった方ですが、この市振の段について芭蕉が抱いたであろ

う思いをこんな風に書かれています。

≪芭蕉は、第二十三丁(市振の段の前=越後路)までを総点検した段階で、

(略)「末の松山」と「象潟」とが連結して作りなす「契り」の意味、「恋」のあり

方がまだ十二分に描き尽くされていないと感じた。

 前者は墓地を眼前にしての悲観的な「恋」の行く末であったし、後者は鳥

に仮託しての比喩的な「恋」の幻であった。これらには、「恋」本来あるべき、

現在(うつしみ)の人の「契り」の問題がなお映し出されていない。≫

 肉声が聞え体臭や息づかいを感じさせる「恋」が描かれていない、とも。

 

 ≪生き生きとした人の恋のテーマを、ひとつの作品の形態を壊すことなく、

旅の記のなかにあてはめる。≫そのために第二十四丁(市振の段)は新た

に補われたものではなかったか、と提示して紀行文の伝統として「遊女」は

格好な登場人物であった、としています。

 遊女の口を通じて語られる「定めなき契」こそ芭蕉の「恋」のテーマを最

もよく示していると上野さんは述べ、≪末の松山→象潟→市振と重ね合わ

せることによって、遊女の悲惨な契りは、通俗的道徳によって唾棄されるこ

となく、存分に同情において眺められることがわかる。≫として、≪伊勢参

宮を前提として語られることによって、それは神前に立とうとするものの懺

悔に洗われていることが分かる。≫、さらに

「定めなき契」――量的に甚大な契りのもつ不道徳の罪や、不安定な

生活のもたらす悲しみ、それらのことも、そこを通って初めて得る君たち

自身の懺悔によって、神明の真実に進み入る足がかりになったではな

いか。もう十分に浄化されているのだよ。芭蕉はそう語りかけつつ、「遊

女」を描いている。≫

 

 こうして上野さんの言葉を書きうつしつつ感じるのは、上野さんが芭蕉

の手になった「奥の細道」の一字一字、手漉き和紙の一枚一枚、芭蕉が

貼った和紙を透かし見たりはがしたりする作業を通じて、明らかに芭蕉の

声を聞いたに違いないと思います。それが≪芭蕉はそう語りかけつつ≫

になったのでしょう。

 

 一夜が明けて宿を出ようとする芭蕉に「遊女」たちは旅の不安を訴えて

後からついていかせて下さいと哀願するに、これを断り 「神明の加護、必

(かならず)つゝがなかるべし」と言います。この芭蕉による保証は自ずか

らなるもので、「あはれさ、しばらくやまざりけらし」という憐憫の眼差しに

見まもられつつ「遊女」を参宮の成就へと導いていったことでしょう。


市振の段=最初の「別れ」、その2。

2014-04-20 22:38:33 | kaeruの「おくのほそ道」

  ノートPCのデイスクの一つに空きがなくなって、二年ほど前上田に帰ったとき

甥に手を入れてもらいその後は何とか差障りなくなっていたのでしたが、それも

限度がきたようで何かと「不調」が重なります。 昨日の不調は今日の好調、にな

る筈がないのですが調子のいいうちにつぶやいておかねばなりません。

 

 さて、「市振の段」の冒頭は「おくのほそ道」ではこんな書き出しです。

<今日は親知らず、子知らず、犬もどり、駒返しなど云う北国一の難所

を越てつかれ侍れば> 幾つかの難所を越えて疲れたので、(早めに寝た

のでしょうか)枕元に聞えてくるのは一間隔てた部屋での話声です。

 新潟の遊女が二人と老いた男の声です。ここまで遊女に同行してきた老人は明日

はふる里に帰るので、手紙などを託している様子。

 

 長谷川先生のテキストに、≪市振で遊女と同宿したこの話は実際にはなかっ

たフィクションです。なぜ芭蕉は話をこしらえてまで二人の遊女をここで出した

かったのか。≫とあります。

 先生の解説をまとめると <仏教において女は罪深く極楽往生ができないと

されていました。そのなかでも遊女はもっとも罪深いものとして考えられてい

ました。芭蕉は「おくのほそ道」を四部分に分けて述べているという先生の見方

については前回紹介しましたが、第3部の「宇宙観の会得」という場から、浮世

に戻った芭蕉は≪ここで遊女を登場させて浮世の旅を象徴する幕開けにしよう

としたのです。≫

 

 さて、その次の朝二人の遊女が芭蕉に同行を頼みます。二人は越後から

お伊勢参りの途中にあったのです。「おくのほそ道」の旅をしていた元禄二年

は20年に一度の式年遷宮の年でした。 彼女たちは昨夜も自らを<白波のよ

汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、

日々の業因いかにつたなし>と嘆いていたものです。

<>内意味(角川ソフイヤ文庫・ビギナーズ・クラシック「おくのほそ道」)=白波

のよせる浜の町で、遊女にまでおちぶれはて、家もない漁師の子のように住所不

定の身になって、夜ごとの客に身をまかせては日々を送るなんて、前世にどんな

悪行をした報いなのだろう、みじめすぎる」

 

 ここで、芭蕉が二人の願いを受けて道中を共にする話でしたら、≪単なる人情話で

終っていた≫と先生は述べて、≪ところが芭蕉は、「只、人の行にまかせて行くべし、

神明の加護、かならず恙なかるべし」とそっけなく断ってしまう。この非情な仕打ちに

よって遊女たちのあわれさはいよいよ深まることになる。「哀さしばらくやまざりけりし」

とあるとおりです。≫と書かれています。

 

この段の一句   一家に遊女もねたり萩と月 

                   (ひとつやにゆうじょもねたりはぎとつき)

 

 長谷川先生の書かれていることの概略は以上ですが、この部分の芭蕉自筆の「奥の

細道」の写真をみて「おや」と思ったことがあります。

この写真の下は 『芭蕉自筆 奥の細道』 の「市振の段」の部分で頁の変わった

左側がそうで、上にのせたあるのが同じ部分です。本は 『角川ソフィアヤ文庫・

新版 おくのほそ道』。この違いを一言でいうと、自筆本では

  文月や六日も常の夜には似ず

  荒海や佐渡に横たふ天の川

の二句は「市振の段」の冒頭に位置付けてられています。下の文庫版ではこの

二句は前の段「越後路」の終わりにおかれています。このことにつついては芭蕉

研究の第一人者の上野洋三さんの書かれた 『芭蕉自筆 「奥の細道」の謎』に

かなり詳しくのっていますので、明日紹介したいと思います。


インターネットに接続できません、と言われながらも。

2014-04-19 22:06:22 | kaeruの「おくのほそ道」

  またまた不調、繋がらないのです。「別れ物語」故に切断したのか?

この段、芭蕉と遊女との出会と別れの場。一句も含めて実話風に書かれていますが作り話だそうです。芭蕉が話を作るまでして述べたかったのは何か、遊女二人と旅の俳人二人の出会いと別れの物語は、明日のパソコンの調子によります。神の御加護があります様に!