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葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

「大坂の陣」を左右したもの。

2016-10-23 23:09:14 | 「真田丸」

   先週第41話は「入城」今夜が「味方」来週が「軍議」そのあと7回で終了。歴史は「大坂の陣」の勝敗の結果を知っている事になっています。それにそって私たちも知ったことになってます。

   しかし、慶長十九年十月・1614年12月大坂城に集まって行った人々は歴史を作って行った人ではありますが、その結果を知るのはかなりあとでしょう。今このドラマを作っている人々も歴史の結果のなかには立っていません。それも真田信繁に身を託している人々ですから、今夜の最終場面で「この戦は勝てる」と言った幸村の言葉に本気になっている人々でしょう。

  しかし、というふうに言葉を継いではならないのです。しかし、と言いはじめれば「歴史の真実は」などとつながり「冷酷にも信繁はあと一歩のところまで家康を追い込み」みたいなことにつながってしまします。

  そこで、暫くドラマや信繁から離れてやはり平山さんの『真田信繁』の紙面をお借りします、大坂城をめぐる人、米、武器です。

「大坂城の総兵力については、諸説あって定まっていない。総人数が侍八万七百余人、雑兵十万の合計十九万余という説、十三万人という説、七万^_^三千五百人の着到を数えたという説、雑兵含めて三万余人など様々です。おおよそ十万にだったのではないでしょうか(と平山さんの言葉)。

   こういう人数ですから兵糧の確保が大変です。《大坂城の太閤遺金を鋳潰し、その金で大坂城下町はもとより大坂の集まってくる米を買い漁った。》このため米価は暴騰し、他では十八匁くらいが大坂では百三十目になったと書かれています。

  火薬の調達で外国商人が色めき立ちます。イギリス商人《イートンは、十月八日(慶長十九年九月五日)には鉛の購入を堺商人に依頼され、提示された値段が百斤=五十五匁であったため返答しなかったといい》ます。《 鉛は、遂には十二月五日(慶長十九年十一月五日)には百斤=金六両に高騰した。これは大坂に流れる物資の動きを徳川方に切り替える役割を果たしたと考えられる。

  豊臣、徳川双方の物資確保をめぐる経済戦争は、結果的に諸大名や民衆の生活を逼迫させ、死の商人たちを肥え太らせる結果となった。》というわけです。

  こうして大坂城内から目を外へ、それも人数とかお金、米、武器などなど、それに民衆の暮らしの変化まで見ていくことが「歴史の真実」をみる上では欠かせないようです。


昌幸の死と……

2016-10-02 23:53:07 | 「真田丸」

今夜の「真田丸」の「歳月」については見てません、一週間遅れの昌幸の死についてです。タイトルの……の部分は「椋鳩十の死」と入れようと思います。

さて、昌幸の死について平山さんの『真田信繁』から、

【 晩年の昌幸は、寄る年波と病気により気力が衰え、望郷の念にかられ、ひたすら赦免を待ち望む気弱な老人になっていた。そこには、武田信玄が、「真田はわが両眼の如き者」と愛し、豊臣秀吉が「真田は表裏比興之者」と評した知謀の名将はもはや微塵も見られない。】

と書かれています。

ならば、ドラマの草刈正雄が臨終の床で演じた騎馬のひづめの音いななきを聞き、「お屋形様!」と腕を差し出す姿はまったくの虚像だったのか。平山さんが歴史家として残されている昌幸文書を読み解き最期の昌幸像を想定されるのは根拠のあることでしょう。とはいえ、ドラマ的な昌幸臨終像もありえたと思います。

ひとつは「kaeruのつぶやき」でも紹介しました昌幸が病床で見ていたと思われる悍馬です。【その馬を眺めて病中の慰めにしたいと述べている】ことです。目の前にいる馬の姿は死に臨んで人馬一体の実像となっていたでしょう。

ここで、椋鳩十の最期の言葉を引いてみたいのです。

戦国最後の武将というべき人物と昭和期の児童文学者の死を並べるのもどうかと思うよ、との声も聞こえるようですが、人間の最後に違いはありません。その時何が人の脳裏を充してくるのか、椋鳩十の言葉からは松風と生まれ育った信濃の山村、人生の大半を置いた鹿児島の村々の人家の灯、それらがあったと思えるのです。

昌幸も面前に信玄が現れても不思議はないでしょう。


「昌幸の死」その3・了

2016-09-27 11:03:48 | 「真田丸」

   昨日のブログの終わりが「やがて九度山生活が十年を迎えた頃」でした。このあとは、

【 昌幸は気力も衰え、病気がちになったようだ。食事の味もよくわからなくなった嘆いた手紙を出した頃は、まだ体調もそこそこであったが(No.6)、国元の家臣(略)に送った書状で、当方は何事も不自由であり、病気も再発して散々だ。そこで私のところに馬を一疋送ってほしい。こちらの馬はよそから所望され、やってしまった。昌親のところにある持ち馬から、爪がよい、悍馬をお願いしたいその馬を眺めて病中の慰めにしたいと述べている(No.13)。そして息子信之には、十年を超えた九度山生活で、去年から病中となり非常に苦しい、ぜひ一度会いたいものだと書き送った(No.12)。ところで、通説によると、昌幸と信之父子は第二次上田合戦後、二度と会うことはできなかったといわれている。だが次の文書は、それを否定するものであろう(No.15)。(文中のNoは25日の「九度山時代の真田昌幸文書一覧」表のものです。)】

と書かれて「次の文書」が示されています。

 この文書の内容について平山さんは、

【 真田信之は家臣河原綱家とともに高野山を訪れ、九度山の父昌幸のもとを見舞いに訪れていることがわかる。だが対面は束の間だったようだ。山中のことなので、もてなしもできず、早々に彼らが帰ってしまったことを名残惜しく思うと綴っている。(略)この対面がいつのことであったかは、確認できない。

   その後、昌幸の病状は悪化していった。恐らく慶長十六年のものと推定される三月二十五日付の真田信之宛書状で昌幸は「そちらの様子を久しく承っていないので、青木半左衛門を送った。息災でいるだろうか、ぜひしらせてほしい。こちらは変わりないので安心されたい。但し、この一両年は年老いてしまい、気根(気力)もくたびれ果ててしまった。万事こちらのことは察してほしい。詳細は半左衛門が申し達すことでしょう」と記し、「珍しくもないが、玻璃(ガラス製)の盆ととうさん(唐桟、織物)を送ります」と書き添えてえいる。さらに追而書には「ついでに慮外ながら左衛門佐信繁が伝言を申し入れます。こちらは永い山暮らしで万事不自由であることをお察し下さい。私などは大くたびれの有様です」と記している(No.30)。

   慶長十六年六月四日、真田昌幸は九度山の真田屋敷で逝去した。享年六十五。法名は龍花院殿一翁干雪大居士りゅうかいんでんいちおうかんせつだいこじ。昌幸逝去の知らせを聞いた信之は、父の葬儀を執行するため、その可否を家康側近本多正信に問い合わせた。だが正信は、六月十三日付の書状で、昌幸は「公儀御はゝかり之仁」であるから止めた方がよいと信之を諌め、いつか赦免されるだろうから、それまで自重するようにと述べ、それがあなたのためだと諭している(『信濃史料』21巻68頁)。

   昌幸の遺骸は荼毘に付され、九度山に葬られたが、随行の家臣河野清左衛門が分骨を上田に持ち帰り、長谷寺に葬ったと伝わる(『大日本史料』十二編21巻281頁)。これが現在、長谷寺に父真田幸綱とともに並ぶ昌幸墓所であろう。寺伝では、遺髪と爪が納められているという。】

  平山さんの書かれたものをかなり抜かしましたが長くなりました。昌幸書状を中心として当時の実態が伝わってきます。明日知人が録画した「昌幸」を見る予定ですので、ここらあたりがどう映像化しているのか見てみようと思います。  


「真田昌幸の死」その2

2016-09-26 20:07:23 | 「真田丸」

   平山さんの『真田信繁』に入る前に、

   今日の「しんぶん赤旗」の草笛光子さんです。「真田丸」のとり役について、【 脚本家の三谷幸喜さんに「草笛さんをイメージして書きます」と言われました。/ 「真田家のルーツ的存在で、おかしなおババでしょう。しっかりしながら、ユーモアもある。皆さんに受けました。三谷さんに私のことをこういうふうに見てくださったんだと、うれしかったです」】と語っています。

   この時代の女性の活躍の記録がどれほど残されているか分かりませんが、ここではドラマ「真田丸」に即してまさに昌幸の母・信之信繁の祖母・とりは真田家のルーツ的であったと思います。記録にあろうとなかろうと当時でも日常生活で、子供らが祖父母から受けた影響はかなり大きかったでしょう。

   現在は爺亡きあと婆の生存が10年前後あるのですから、より大きい影響を与えるのではないでしょうか。我が家の状況で言えば爺生存中から孫に与える影響は圧倒的に婆さんです。一昨夜の新宿のホテルの前で孫と別れる前に爺は握手だけでしたが、婆は握手のあとハグしていました。

 

「真田丸」での昌幸の死に対してネット号泣「昌幸ロス」などという言葉が並べられています。なかには九度山での昌幸の暮しが「衣食住足りて」などと書かれたものがありましたが、昨日載せました昌幸発給の文書が示す生活実態は「生活の困窮と合力の催促」だったのです。

  平山さんの示す生活実態の続きです。

【 信之も父昌幸の窮状を知っており、重臣木村綱茂・原半兵衛に対し、金の準備ができ次第、五枚でも六枚でもいいから送金するように命じている(『信濃史料』21巻51頁)、上田に残った正室山之手殿も信之に頼んで飛脚を仕立ててもらい、高野山へ緊急の届け物を行っている(同50頁)。

   なお、昌幸・信繁父子が収入増をはかるために、「真田紐」なる木綿の紐を作ったとの伝承があるが(『長国寺殿御事蹟稿』)、事実かどうか定かでない。

   昌幸は九度山配流当初、遠からず赦免され故郷に戻れると楽観視していたらしい。兄信綱の菩提寺・信綱寺に宛てた慶長八年三月十五日付の書状では、今年の夏には家康が関東に下るとのことなので、本多正信が恐らく私のことを話してくれることでしょう、そうしたら(赦免されるでしょうから)下山してお目に掛かりゆっくりお話ししたいものですと記している(No.1)。また時期不明ながら、ほぼ同時期とみられる一月三日付の禰津神五郎宛書状では、こちらも変わりはありません、ご安心下さい。年が明けましたので私は下山も近づいてきたと喜んでおります、と書き送っている(No.4)。昌幸のこの口ぶりには、赦免の可能性を伝える情報があったのかも知れない。だが結局、家康が昌幸を許すことはなかった。一向に下山の知らせも来ることもなく、時期だけが過ぎていった。】

  こうして「やがて九度山生活が十年を迎えた頃」と続くのですが、明日にします。


「真田昌幸の死」その1

2016-09-25 22:51:42 | 「真田丸」

  平山さんの『真田信繁』の第4章が「九度山での雌伏」で、その1 父昌幸の死、その2が大坂入城、になってます。「父昌幸の死」には、真田父子の雌伏、父子の明暗、九度山へ、仕送りに頼る生活、昌幸の晩年、という各節に分けられています。

  「父昌幸の死」はドラマの「昌幸」と対応しているのでしょうが、生憎所用で外出見逃しました。よってドラマをまったく離れて、『真田信繁』の内容です。

   これは『真田信繁』に紹介されている「九度山時代の真田昌幸文書一覧」です。31通で年月日、署名、宛所、備考、内容摘要、出典の順です。

 

  平山さんの記述中この文書に触れている部分を抜書きしておきます。

【(昌幸信繁等の)台所事情は苦しかったようだ、そのために昌幸は高野山周辺から多額の借金をしていた。昌幸らの頼みは、国元からの贈答などであったらしい。このことは、九度山時代に発給された真田昌幸文書を検討するとはっきりとわかる。

  九度山時代の昌幸文書は、生活の困窮と合力(金銭・品物をめぐむこと)の催促、そして気鬱を訴え、家臣の来訪や贈答品を喜ぶもので満ち溢れている。宮下藤右衛門に宛て、いろいろと不自由なので毎年の合力を早く送ってくれるように求めたり(No.9)、借金が多くて難渋しているため、息子昌親(信之・信繁に実弟)から臨時で四十両を用立ててもらい、そのうち二十両を受け取ったが、それでも足りず、残りの二十両を一日でも早く届けてほしい、今年の合力分のうち十両は春のうちになんとか頼む、用意でき次第、五両でも六両でも構わないと申し入れている(No.5)。

  またしばしば飛脚を出したり、随行家臣の池田長門守、河野清右衛門を江戸に派遣したりしている(No.7、9、18)。国元の重臣木村綱茂にも、信之と昌親に取り成しを依頼する書状を送っており(No.21)、これらはいずれも合力(金子)を要請するものだったと考えられる。】

  九度山での謀将昌幸の生活実態はまだまだ続くのですが、今夜はここまで……で。


真田信之評。

2016-09-18 21:21:57 | 「真田丸」

   歴史学者の目でみて、「信幸による父弟の助命嘆願」は 疑問符だそうです。

   今夜の真田丸「信之」は第二次上田合戦で秀忠軍にひと泡ふかせた昌幸・信繁父子が死罪になるところを信幸が舅・本多忠勝等の尽力も得て家康に翻意させた、という場面がヤマだったでしょう。このヤマ場に疑問符をつけているのが平山優さんです。

   前回の「第二次上田合戦の真相」でこの合戦は真田側にとっては「転がり込んできた勝利」と言われた方です。通説ではない史実にもとずく歴史の見方受けとめ方だとして耳を傾けたい人です。

   こう言われています(「NHK大河ドラマストーリー 真田丸 後編」頁125)。

【 しかし、考えてみれば「関ヶ原の戦い」の結果、死罪を命じられたのは石田三成や安国寺恵瓊といった首謀者に限られていて、一般的には改易が妥当な処置だったのです。西軍の事実上の主将格だった宇喜多秀家でさえ、八丈島への島流しです。したがって、この助命嘆願がかなってうんぬんというのは、後世、真田家が行った脚色のような気がします。その脚色によって、昌幸とその子・信繁は徳川を苦しめた名将であったと印象づけ、藩祖の信之は、命懸けで父と弟の命を救った名君なのだということをアピールすることもできたわけです。】

   そうもいわれる信之ですから、どういう武将かとwikipediaを見てみました、するとこんなことが、

 

   末尾の(8)とは長野県松代にある「真田宝物館」による、ということです、宝物館に現物があるということでしょう。全文は、https://ja.m.wikipedia.org/wiki/真田信之 を。

   信之の父・昌幸が「表裏比興者」と言われたことをこのブログでも触れました。

   信之の表裏比興は父・昌幸譲りでありスケールの大きさからいえば、父を上まるでしょう。今までの信之観が変わり始めましたので、

 

  ここでの一票は昨日までは断然信繁でしたが、信之に傾きかけてます、さてこれからのドラマの展開と信之に関する理解を深めてからに決まるでしょう。


「第二次上田合戦の真相」その5・ 了。

2016-09-16 15:01:51 | 「真田丸」

   小説集『真田幸村』のことです、どの短編も筆慣れた作家によるものですから思わずひきつけられ読み終わってしまいました。前回そのなかの菊池寛の「真田幸村」から第二次上田合戦の一逸話を紹介しました。この話は昌幸の武将としてに器量の大きさを示す話でしょう。

  この部分の直前に、

【 真田安房守昌幸は戦国時代に於いても、恐らく第一級の人物であろう。黒田如水、大谷吉継、小早川隆景などと同じく、政治家的素質のある武将で、位置と境遇とに依って、家康、元就、政宗位の仕事は出来たかもしれない男の一人である。…… 】と綴っています。

   ドラマでも草刈正雄演ずる昌幸が、堺雅人の信繁を食っているとの評もあります。もちろん今までの場面は昌幸の見せ場ですし、信繁のそれはこれからですからこの評の評価は先に譲るべきでしょう。それにしても実戦歴の少ない信繁が大坂の陣でみせた奮戦ぶりは「この父にしてこの子あり」と言えますし九度山での暮しも含めて、父昌幸に添って生き抜いてきた間に学びとった成果であったでしょう。

   今日の平山さんの『真田信繁』は、「第二次上田合戦の実像」です。その前の節「軍記物が語る戦闘経過」で『寛永諸家系図伝』や家譜類、『武徳編年集成』などの徳川方の軍記物と、真田方の『長国寺殿御事蹟稿』などを参考に戦闘経過の概略を記しています。そのうえで【第二次上田合戦の実像】の冒頭部分で、

【 第二次上田合戦の経過について、これら軍記物がどこまで事実を伝えているかは、残念ながら検証できない。ただ、文書などと照合してみると、大筋の経過は事実と考えられる。】としてます。同時に【 一方で軍記物によると、秀忠は上田城攻略に拘ったが、本田正信らが諌め、美濃に転進したとされているが実際はそうではなかった。既述のように、秀忠の任務は当初より上田城攻略だったのであり、江戸の家康が急遽方針を変更し、秀忠に上方に向かうよう指示したのである。】

   このあと平山さんは秀忠軍と真田父子をめぐる状況を述べて、こう言ってます。【 いずれにしても、第二次上田合戦における真田父子の勝利とは、徳川方の作戦変更による攻撃続行中止の結果であり、もっといえば転がり込んできた結果的な勝利とみなした方が実態に近いのかも知れない】

   そのあと

【 ただ、徳川軍を緒戦で撃破し、さらに松本に抜ける青木峠を死守した真田父子の果たした役割は決して小さくはない】とは言ってます。

   歴史学者の目から見れば「実態に近い」方が大切かもしれませんが、「転がり込んできた勝利」とは、なんということを言うのですか! と言いたくなるのが元上田人の気持ちです。しかし、歴史を冷静に見れば、ここの部分が「第二次上田合戦の真相」なのかも知れません。


「第二次上田合戦の真相」その4。

2016-09-14 21:08:20 | 「真田丸」

「真相」に入る前にこの本です。

町の図書館によって棚を見ていたら「真田幸村」の文字が飛び込んできました。広げて書いている人の名前をみれば「幸村」でなければならないことが分かりました。

南原幹雄、海音寺潮五郎、山田風太郎、柴田錬三郎、菊池寛、五味康祐、井上靖、池波正太郎の諸氏です。立川文庫的な内容もあり、少年時代講談本を夢中になって読んだことを思い出しました。

 

いよいよ第二次上田合戦の火蓋が切られた。】と書かれているのは【徳川秀忠、上田に迫る】の最後の部分です。そこから、

【 第二次上田合戦は、天正十三年(1585)の第一次上田合戦と同様、著名な合戦であるにもかかわらず軍事物など以外に確実な史料に乏しく、戦闘の経過がほとんどわからないのが実情である。まずは、文書で判明する合戦の経緯を紹介しょう。

   徳川軍は、九月三日、上田に接近した。すると、真田昌幸が徳川陣中の嫡男信幸を通じて助命を懇願してきたといい、秀忠はこれを受諾した(『信』18四九一)。その懇願の模様は、九月四日、秀忠が参陣してきた海津城主森忠政に宛てた書状に「真田安房守事、頭をそり罷出、可降参之旨、真田伊豆守を以、種々詫言申候間、命之義可相助与存、昨日以使者申入候」とあり、頭を丸めて降参しますと昌幸が信幸を通じて申し出てきたことから、秀忠はこれを許すと使者を派遣して通達したというのである(同前四九二)。

   ところが、四日になって突然昌幸は態度を豹変させ「至今日存分にて申候間、不能赦免候」と秀忠が森忠政に伝えたように、かなり言いたい放題の放言をしたため、交渉は決裂し、戦闘状態に入った(同前)。秀忠がかなり怒っているので、昌幸は相当挑発的な言葉を並べたらしい。

   徳川軍は、九月五日、上田城に接近した。すると、真田方は守備していた砥石城を捨てて上田城に撤退したといい、これを知った秀忠は、真田信幸に同城の接収と在城を命じた(『信』18四九二)。これで秀忠は昌幸打倒を確信したらしく、浅野長政に対して、ひとまず安心してほしい、こちらの仕置を行ってから上洛するつもりだと述べている。これを最後に、秀忠やその周辺の人々の書状に、上田合戦の模様は見られなくなり、戦闘の経過などはまったくわからない。】

   同時代人の回顧や伝聞としては、大久保忠教ただたか『三河物語』があるに過ぎない、として、その記述をかいつまんで紹介しておこう、と書かれていますがここでは略します。

   ただそのなかで「秀忠は宇都宮を出陣し、中山道を通って真田昌幸の城に通りがけに攻め寄せた」とあります、通説の出処の一つでしょう。

   先ほどの『真田幸村』のなかの菊池寛の作品「真田幸村」のなかに、第二次上田合戦の逸話がありますので、それを紹介しておきます。

【 秀忠軍が、上田を囲んだとき、寄手の使番一人、向う側の味方の陣まで、使を命じられたが、城を廻れば遠廻りになるので、大手の城門に至り、城を通して呉れと云う、昌幸聞いて易き事なりとて通らせる。その男帰途、又搦手に来り、通らせてくれと云う、昌幸又易き事なりと、城中を通し、所々を案内して見せた。時人、通る奴も通る奴だが、通す奴も通す奴だと云って感嘆したと云う。】


「第二次上田合戦の真相」その3

2016-09-13 20:47:04 | 「真田丸」

   先程の「ふたつの驚き」のひとつ目、閲覧と訪問者数の一気の高騰に関連しますが、多分「第二次上田合戦の真相」と関係したのではないかと思うのです。この「kaeruのつぶやき」がはじめてランキングに顔を出したのが、朝ドラの「あまちゃん」をとりあげた時でした。振り返ってみました、

 

さて、本題の「第二次上田合戦の真相」です。

【 だが事態は急展開する。家康は作戦を急遽変更し、秀忠に対して急ぎ上洛し参戦するよう命じたのである。秀忠がこの指示を受けたのは、九月九日のことであったという(『朝野旧聞褒藁』巻二十二)。秀忠が家康から作戦変更の指示を受けたことが確実な史料で判明するのは、九月十一日のことである(『房総里見氏文書集』二六九号)。関ヶ原合戦は四日後の九月十五日、そもそも秀忠が美濃での合戦に間に合うわけがなかった。秀忠遅参説は、かなり誤解が多いことがわかる。こうした新見解を念頭に置きつつ、第二次上田合戦を再検討する必要があるだろう。】ということです。

この第三章「関ヶ原合戦と上田城攻防」はこのあと、

徳川秀忠、上田に迫る  一次史料が語る第二次上田合戦 軍記物が語る戦闘経過 第二次上田合戦の実像  と各節が続きます。 

「徳川秀忠、上田に迫る」では、

【 徳川秀忠は、榊原康政・大久保正信、酒井家次・本多忠政ら徳川譜代の面々を従え、与力大名小笠原信之、諏訪頼水らを加えた軍勢であり、それは徳川軍本隊秀忠軍は、ともいえる構成であったと指摘される(笠谷①②)。秀忠軍は八月二十四日に宇都宮出陣すると(『信』補遺下六〇)、二十六日に高崎(桑名市博物館所蔵文書)、二十八日に松井田(『信』補遺下六〇)を経て碓氷峠を越え、九月二日小諸に着陣した。

《( )内の記号の史料については別記します。このあと、秀忠軍の小諸到着に呼応した信濃の各大名の動きが記るされてます。信幸についても書かれてますが、先を急ぎましょう。》

   いっぽう、江戸の徳川家康は、東軍の豊臣大名たちが八月二十三日に岐阜城を攻略し、二十四日に美濃赤坂に進んだことを知ると、慌てて出陣の準備に入った。家康は、味方になったとはいえ、福島正則、田中吉政、黒田長政、山内一豊ら豊臣大名を信じ切ってはおらず、江戸で様子を窺っていた。しかし岐阜攻略と赤坂進出は、家康の予想を超えた速さであったし、またこれによって彼らへの疑念も払拭されることとなった。むしろ、家康不在のまま豊臣大名主導で、西軍が打倒されれば、家康の政治的主導権や発言力は大きく削がれ、彼の威信は失落してしまう。これこそ、家康が九月一日に江戸を出陣し、また真田攻めを命じていた息子秀忠に、作戦変更の変更と上方への参陣を至急指示した理由であり、それは他ならぬ家康の焦りによるものであった(笠谷①②)。

《太字はkaeruです、家康の爪噛む姿が浮かびます。このあと、秀忠と家康の連絡の行き違いや真田昌幸と信繁の徳川軍との対峙が書かれていきます、そして【 いよいよ第二次上田合戦の火蓋が切られた。】となるのですが、火蓋を切ったあとは「一次史料が語る第二次上田合戦」へ入りますので、今夜はここまでです。

史料説明  笠谷①『関ヶ原合戦と近世の国制』思文閣出版 2000年/笠谷②『関ヶ原合戦と大坂の陣』(戦争の日本史17)吉川弘文館 2007年)/「『信』補遺下六〇」 信濃史料補遺下六〇頁/


「第二次上田合戦の真相」その2

2016-09-12 19:57:39 | 「真田丸」

   まず、昨夜放映された「勝負」は通説によってはいませんでした。これは真田「幸村」でなく「信繁」で一貫させている姿勢に通じます。確か脚本の三谷さんがこの大河ドラマによって真田幸村ならず信繁を定着させたい、と述べていたと思いますが、第二次上田合戦の通説に対しても同じことがいえるでしょう。

   昨夜の場面で言えば、ナレーションが「(秀忠は家康の)真田討伐の命を受け」と説明していました。また劇中、本多正信のセリフに「(上田城を)じわりじわりと」攻めればよい、とありました、これは先に予定は無い、上田城攻めに専念するということです。

  「通説」はかなり深くしみ込んでいます、当然というか当たり前にというか私も上田にいた頃から今まで「秀忠の関ヶ原行きの途中寄り道合戦」と思っていました。専門家のなかではどうなのでしょう。NHKテレビテキスト「お城へ行こう」(2016年2月刊)の「上田城」にもこう書かれています。

【 第二次上田合戦でも〜、関ヶ原に一刻も早く到着するために早く決着をつけたいと焦り、〜】。

   この本が専門家の監修のもとに作られたことは当然で、講師は千田嘉博さん(奈良大学 学長・専門は城郭考古学)です。素人のkaeruでしたら「第二次上田合戦は秀忠の関ヶ原までの寄り道合戦で、それが通説でしょう」ですむでしょうが、専門家となるとそうはいかないでしょう。

  通説にもそれなりの根拠・史料があるはずで、その史料価値が他の史料によって否定されたということでしょう。そうなると昨日は略したこの通説に疑問を提起し、秀忠の動向に再検討を加えたのが笠谷和比古氏》の論著が気になります。

  そこで『真田信繁』の「主要参考文献」を見てみました。

  平山さんが導かれたという笠谷和比古さんの『関ヶ原合戦と近世の国制』が思文閣出版から発刊されたのが2000年、もう一つの『関ヶ原合戦と大阪の陣』(戦争と日本史17  吉川弘文館)は2007年と記されています。

   こうなると本を見たくなります、出版社のHPから、

   上の本は専門書という感じです、下の本は近くの本屋の棚で見た記憶があります。もしこの本が通説に疑問をていし「第二次上田合戦の真相はこうだ」というような内容だ、と知っていたら頁をめくってはいたでしょう。

   何れにしても笠谷さんの「第二次上田合戦の真相」について新論が出されて、10数年が経っています。学界のなかで新論がどう受け止められてのか知る由もありませんが、平山さんの本の最初の方に書かれている次の言葉を読むとこれからの課題だとも思えます。

「これまで信繁が発給した文書の基礎的研究すらなされておらず、また彼の生涯についても軍記物を根拠にした記述が目立っている。もちろん、軍記物以外に根拠がない場合が少なくないのも事実なのだが。」

   昨日【 だが事態は急展開する。】と書いて気を引いたままで終わりました、その後に触れずに終わるのも気が引けますが、又々「明日のお楽しみ」にして下さい。