kaeruのつぶやき

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宣教師フロイスの記した「本能寺の変」その1

2016-02-09 22:41:01 | 「真田丸」

「信長や秀吉の肉声を伝えるフロイスの戦国時代史」と帯に書かれた『フロイス  日本史 5』に「本能寺の変」に至る前段、「信長による光秀殴打のこと」が次のように書かれています。

【信長は奇妙なばかりに親しく彼[光秀]を用いたが、このたびは、その権力と地位をいっそう誇示すべく、三河の国主(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼に命じた。

    これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対(意見)を言われることに堪えられない性質であったので、人人が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。だが、それは密かになされたことであり、二人だけの間での出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、あるいはこのことから明智はなんらかの根拠(フンダメント)を作ろうと欲したかも知れぬし、あるいは〔おそらくこの方がより確実だと思われるが〕、その過度の利欲と野心が募り、ついにそれが天下の主になることを彼に望ませるまでになったのかもしれない。(ともかく)彼はそれを胸中深く秘めながら、企てた陰謀を果す適当な時機を窺っていたのである。そして彼は、特に安土で信長から、毛利との戦いにおける羽柴を援助するため、七、八千の兵を率いて、ただちに出動を命じられた武将の一人であった。そこで、受理していた饗宴の接待役を放置して、兵備を整えるためにただちに丹波国へ出発した。そして兵士を率いて都から五里離れた(亀山)と称する城に向かった。従軍の兵士たちは、毛利との戦いち赴くのに通らねばならぬ道ではないことに驚いたが、抜け目のない彼は、その時まで何びとにも決心を打ち明けておらず、かような無謀な企てが彼にあることを考える者は一人としていなかった。】