常楽院

福島県南会津町 真言宗

水琴屈とカエル

2017-07-28 | Weblog

 かえるも水琴屈の優しい音色が好きなのかな?
 先日の朝草むしりをしていたら、水琴屈の苔の中にカエルが座って(?)いました。私が近くでガサガサと草むしりをしていても、いっこうに逃げようとしません。
 今日親子でお参りに来られたお父さんが、「ほら、そこにカエルがいるよ。見てごらん。」と娘さんに声をかけられました。座っている場所は違いましたが、苔の上に座っています。そういえば一昨日も座っていました。
 暑いので水の近くがいいのかな? それとも水琴屈の優しい音色が好きなのかな。
 暑い夏の朝小さく響く水琴屈の音を聴いていると、清々しい気持ちになります。
 「風流だー」と風流とは程遠い草むしりスタイルで水の音を楽しんでいます。

蓮が咲きました

2017-07-23 | Weblog
 日本の自然はどうなってしまったんだろう!
 地震、大雨、渇水、たつ巻、雹、7月18日はここ福米沢にも沢山の雨が降りました。と言っても、他所ほどの大雨でもなかったし、2年前のような川が氾濫するほどの雨でもありませんでした。
 それでも、普段は水の流れない境内を流れる水無し川が、ゴーゴーと音をたてて流れていました。
 

 7月19日 前日の雨にも負けないで、楽しみに待っていた蓮の花が開きました。昨年より12日遅い開花でした。
 清々しい朝の空気が、更に清々しく感じられます。まだ蕾が沢山あります。しばらく開いた蓮の花を数えるのが楽しみです。
    

 
 パイナップルリリーの蕾も大きくなり、パイナップルの形になってきました。

マリア観音はどこ?

2017-07-17 | Weblog
 「マリア観音はどこにありますか?」参拝にこられた方が時々お聞きになられます。案内板もあるし自分たちは知っているので当たり前のように思っていましたが、たしかに分からないかもしれない。案内板は藤棚に隠れて見えにくいし、お堂の看板は「子安観世音」となっている。隣のお堂は「日除観世音」その隣は「延命地蔵尊」マリア観音は無い。どこに?となりますね。
 先日、いちいの木の選定に来てくださっていた職人さんに「マリア観音はどこにありますか?って聞かれたよ。本堂かって言ってたので教えたよ。分かるようにしておいたら。」と言われました。それは感じていました。住職と看板でも出さないといけないかなと話していた所でした。
 数日後、職人さんが看板を作ってきてくださいました。彼は大変器用で、境内には獅子脅し、水琴屈の仕掛け、行事案内板、常夜灯など、あったらいいなと思うものを作って来てくださっています。
 と言うわけで、マリア観音坐像の隣に案内板を置きました。けっこう重くて安定しています。参拝の方も、今度は分かるでしょう。

 

宗教・自分なりの納得

2017-07-08 | Weblog
 宗教とは、宗教の役割とは・・・・・
 寺に嫁ぎ数十年、檀家さんやお参りの方々との出会い、葬儀や法要の裏でのお手伝い、境内の環境整備、本堂の掃除や花の取替えなど、など・・・・
 檀家さんや参拝にこられた方々が、ほっとしたり、心が慰められたり、落ちつける、そんな空間が出来たらいいな、それが従業員の仕事だと思い住職と共に続けてきました。
 
 それと一緒に、宗教についても考えてきました。
 本を読み、人の話を聞き、写経や御詠歌に取り組んだり。中途半端に解かったと思うと、ますます解からなくなってしまいました。

 数年前ある方と出会い、ますます解からなくなってしまいました。
 その方は私とは違う宗教を持っていました。そして、真っ直ぐにその宗教に帰依していました。
 私は結婚式や葬儀に出席する時は、その方の宗教に対して敬意を払い、賛美歌を歌い、神様や仏様に手を合わせてきました。でもその方は、自分の帰依している以外のものに対しては手を合わせることはしない。そのような所にも行かないし、出席もしない。頑なぐらいしっかりとした宗教感を持っていました。
 そう言えば、本堂で檀家さんの葬儀が執り行われた時、亡くなられた方の息子さんのお嫁さんが「私は山門をくぐる事は出来ない。」とおっしゃって、門の外で見送られたことがありました。
 そう言うものなんだろうか、宗教ってなんなんだろう・・・

 そんな中、ダライ・ラマ14世が著した「思いやり」と言う本に出会いました。
 
 この世に存在している宗教はすべて、私たち人間に役立つものになっています。私たちが困難や問題に直面し、絶望して何の手段も講じることができなくなったとき、宗教は私たちが生きていく希望を求め、救いの道を見つけ出すことのできる拠り所となってくれるのです。

 いろいろな国を訪問するとき、私自身は仏教徒ですが、他のさまざまな宗教もそれぞれ多くのたちのために役立っているのですから、すべての宗教に対して敬意の念をもち、すべての宗教に対して尊敬の念をもち、賞賛の気持ちを表すように心がけています。

 すっと心に入ってきて、ふに落ちました。それぞれいろいろな信じ方があり、私は私の信じ方で仏様に手を合わせればいいんだな。心が少し軽くなりました。
 でも、いろいろと難しい所があり、繰り返し読んでいるのですが、理解できない所も多々あります。
 

 今年は花が遅い。昨年は今頃紫陽花が見頃を過ぎ蓮の花が咲き始めたのに、今年は紫陽花がやっと色付きはじめ、蓮の蕾はまだ見えていません。
 例年遅いと言っている君子欄も今頃割いている。ゆり、あやめ、孔雀サボテンなども咲いています。全国的に遅いのかな?それとも我が家が遅すぎるのかな。早くても遅くても花はいいなー。

            

  

毎日 毎日

2017-07-04 | Weblog
 昨日の夕方、小雨の降る芝生に一羽のスズメを見つけた。
 しばらく見ていたが飛び立っていかない。
 気になって庭に降りた。近づいても向きを少し変えるだけで飛び立たない。
 腰を下して手を伸べ撫でてみた。怪我をしている様子もない。
 沢山の雨に当たらない所に移し、米粒を置いてみた。暗くなってしまい気になるが、どうしようもない。

 早朝、昨日いたところに行くと死んでいました。
 昨日はふんわりしていた羽毛が、身体に張り付いて(昨夜は雨が強かったので、濡れてしまったらしい。)小さくなっていました。

 住職にお願いして、紫陽花の花壇の端に埋葬してもらいました。
 小さな 小さな命が消えました。

 TVでは市川海老蔵さんと勸玄君の宙乗りの様子が流れている。「右手にカンカン左に麻央・・・」と言う言葉が

 「なりたい自分になる。」との意志を持って、闘病の様子をブログに綴り、笑顔で多くの人々を力づけ、旅立って行きました麻央さん。
 優しく、強く、美しい、凛とした生き方でした。(直ぐに弱音を吐く従業員には、遠い生き方だなー)

 その数日後には、卓球の愛ちゃんの懐妊の報道。

 我が家にも8月末に、小さな命がやってきます。(心配だったり、楽しみだったり。)

 逝く命 来る命  これが この世のあり方なのでしょうね。
 でも、若すぎる命が消えてしまうのは辛いですね。

 最近、まわりの人々が終活の話をするようになりました。
 終活かー

 従業員としては、身の回りのものは若い人達に任せて(きっと、不必要なものは処分してくれるだろう。)生き方の終活をしなくては、と考えています。


 「毎日 毎日」
 
  毎日 毎日
  ぼんやりしていても
  過ぎてゆく
  わたしは 有益な毎日をすごしたい

  毎日 毎日
  こころうれうしくすごしたい
  皆と仲よくすごしたい
  そうして少しずつ 自分をものにしたい

  毎日 毎日が
  くり返って
  わたしの一生が出来上がってゆくのだ
  悔いのない一生でありたい

  遠い昔、中学校の卒業にあたり、恩師に頂いた武者小路実篤さんの言葉です。(恩師は住職のお姉さんで、すてきな人です。)

  いつも心の片隅においてきましたが、悔いのない一生、そんな風に生きるのは難しいなー と言うより無理か