私は本を読むのが大好きでした。今も好き名のですが、勤めをしている頃ほど本が読めなくなりました。勤めをしている頃はお昼休みは読書の時間でした。ところが今はお昼休みがなくなり、日常の雑務に追われ、休み時間がなくなってしまったのです。「時間は自分で作るもの」っとよく言われますが、それがなかなか創れないのです。
それでも時間を見つけ読んではいるのですが、勤めをしていた頃の5分の1くらいです。
今読んでいるのは五木寛之さんの書かれた『親鸞』の簡潔篇です。
お寺にいるとは言え仏教の教えを学んだわけでもなく、まして理解している訳でもありません。
そんな私に『親鸞』の簡潔篇の上の最後の章の親鸞の言葉は、仏の教えをおぼろげに見せてくれた気がします。
「浄土に生まれる、というのは、死んで極楽へいくという意味ではあるまい」
「それは、闇のなかにいた自分が、光のなかにでてくるということだ。これまでの自分と違うあたらしい人間に生まれ変わるのだ。死んだ後のことなど、私にはわからない。しかし、比叡の山を下りて、やがて法然上人の念仏の教えに出あったとき、わたしの前にあたらしい世界がひらけたのだ。希望をもって生きていくことができると思った。わたしはそのとき、たしかに生まれ変わったのだよ。浄土とは、光の国のことだ。絶望のなかにいた人間が、希望の光に出会う。浄土に生まれとは、そういうことだ。しかし、人は迷う。心細くなるときもある。だから念仏にはげまされる。それを信という。信じるということは、迷信ではない。人に勇気とよろこびをあたえるものが信なのだ。」
「迷信と、信は、どうちがうのですか。」
「迷信は、人をおそれさせるもの、迷わせるもの、心細くさせるものだ。あれをしてはいけない、これをしてはいけない、とうるさくいう。しかし、信にはそれがない。わたしはそう思う。」
「なぜならば、迷信におちいるとき、人は不安になり、おそれおののき、心が暗くなる。信というのは、その反対だ。勇気がうまれ、心があかるくなる。わたしがそうだった。二十九歳で法然上人に出会い百日その教えをきいて信をえた。そのときは本当に自分が生まれ変わったように感じた。死んだ後自分は光の国へいくのだと、固く信じたとき、生きていることがよろこびとなったのだ。死後の不安をかかえているかぎり、人は幸せにはなれぬ。・・・・・・・」
読んだからといって理解できた訳ではありません。かりに、理解できてもそれができるわけでもないような気がします。
でも、なんとなく、おぼろげに、胸に落ちてきたような、そんな気がするのです。
でも、難しいですね。有名な宗教者の方々が一生をかけて模索した教えを、平々凡々に生きている私が、そう簡単にわかったら大変です。
でも、このような本を読むと、そのときはちょっと解かったような、そんな気持ちになるのです。
冬至にあわせて柚子を沢山いただきました。わたしもかすみそうさんを見習って、柚子大根をつくってみようと思います。
それから、我が家では仏具を磨くのに、金属磨きのピカールを使っています。ハッピーサークルの皆さんが、仏具をぴかぴかに磨いて下さった時に使ったのもこれです。ホームセンターに売っていましたよ。
それでも時間を見つけ読んではいるのですが、勤めをしていた頃の5分の1くらいです。
今読んでいるのは五木寛之さんの書かれた『親鸞』の簡潔篇です。
お寺にいるとは言え仏教の教えを学んだわけでもなく、まして理解している訳でもありません。
そんな私に『親鸞』の簡潔篇の上の最後の章の親鸞の言葉は、仏の教えをおぼろげに見せてくれた気がします。
「浄土に生まれる、というのは、死んで極楽へいくという意味ではあるまい」
「それは、闇のなかにいた自分が、光のなかにでてくるということだ。これまでの自分と違うあたらしい人間に生まれ変わるのだ。死んだ後のことなど、私にはわからない。しかし、比叡の山を下りて、やがて法然上人の念仏の教えに出あったとき、わたしの前にあたらしい世界がひらけたのだ。希望をもって生きていくことができると思った。わたしはそのとき、たしかに生まれ変わったのだよ。浄土とは、光の国のことだ。絶望のなかにいた人間が、希望の光に出会う。浄土に生まれとは、そういうことだ。しかし、人は迷う。心細くなるときもある。だから念仏にはげまされる。それを信という。信じるということは、迷信ではない。人に勇気とよろこびをあたえるものが信なのだ。」
「迷信と、信は、どうちがうのですか。」
「迷信は、人をおそれさせるもの、迷わせるもの、心細くさせるものだ。あれをしてはいけない、これをしてはいけない、とうるさくいう。しかし、信にはそれがない。わたしはそう思う。」
「なぜならば、迷信におちいるとき、人は不安になり、おそれおののき、心が暗くなる。信というのは、その反対だ。勇気がうまれ、心があかるくなる。わたしがそうだった。二十九歳で法然上人に出会い百日その教えをきいて信をえた。そのときは本当に自分が生まれ変わったように感じた。死んだ後自分は光の国へいくのだと、固く信じたとき、生きていることがよろこびとなったのだ。死後の不安をかかえているかぎり、人は幸せにはなれぬ。・・・・・・・」
読んだからといって理解できた訳ではありません。かりに、理解できてもそれができるわけでもないような気がします。
でも、なんとなく、おぼろげに、胸に落ちてきたような、そんな気がするのです。
でも、難しいですね。有名な宗教者の方々が一生をかけて模索した教えを、平々凡々に生きている私が、そう簡単にわかったら大変です。
でも、このような本を読むと、そのときはちょっと解かったような、そんな気持ちになるのです。
冬至にあわせて柚子を沢山いただきました。わたしもかすみそうさんを見習って、柚子大根をつくってみようと思います。
それから、我が家では仏具を磨くのに、金属磨きのピカールを使っています。ハッピーサークルの皆さんが、仏具をぴかぴかに磨いて下さった時に使ったのもこれです。ホームセンターに売っていましたよ。