ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 5/16-5/29

2010-05-29 06:01:13 | ローズンゲン
5月16日(日)
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。(創世記12:4)
信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。(ガラテヤ3:9)
わたしの黙想
今日の聖句はわたしの生涯を決定づけた言葉。この言葉によって信仰の道に入り、この言葉によって聖職を目指し、この言葉によって人生は振り回された。人生の終わりにガラテヤ書のように言いたい。
今日は昇天後主日。なぜか、わたしにとって最も緊張する主日。クリスマスよりも、イースターよりも、ペンテコステよりも、昇天日よりも。ドイツの教会暦のテーマは「ききたまえ」。

5月17日(月)
主はあなたの呼ぶ声に答えて、必ず恵みを与えられる。主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。(イザヤ30:19)
聖なる方、真実な方が言われる。「見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれも閉めることはできない」。
わたしの黙想
こういう聖句を読むと、聖書だなぁと思う。何の注釈も講釈も要らない。ただ、そのまま受け止め、信じ、頼りにして生きる。

5月18日(火)
わたしは諸国民の前で、お前たちに自分を聖なる者として示す。そしてお前たちはわたしが主であることを知る。(エゼキエル20:41-42)
役人の僕たちは、「あなたの息子さんは午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であること父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。(ヨハネ4:52-53)
わたしの黙想
神が直接「私」に語りかけなくても、他の人に語りかける神の働きを見て、あるいは知って、神を信じるということも十分あり得る。いや、むしろその方がはるかに多い。とくに、牧師の子どもたちは「自分に」というより「教会に」働く神を知る。

5月19日(水)
主に不可能なことがあろうか。(創世記18:14)
自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。(ヘブル10:35)
わたしの黙想
サラな天使の語るこの言葉を聞いて「恐ろしくなった」という。神の全能は「恐ろしいこと」なのだ。人間にとって迷惑なことなのだ。子供が欲しいというサラの祈りが聞かれることはサラに取って必ずしも喜びだけではない。生活の大変革をしなければならない。

5月26日(水)
天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続く。(イザヤ51:6)
初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。(1ヨハネ2:24)
わたしの黙想
今日の聖句、何かおかしくないか。天も地も、地に住むものを消えたら「神の救い」だけが永遠に残る意味があるのだろうか。天が在り、地が広がり、そこに生物が住んでこその「神の救い」である。そんな当たり前のことを確認させる言葉。
レスポンス
@ybunya おはようございます。突然失礼いたします。イサヤ6:3、ヘブライ語を調べてみましたが「全地に満ちる」となっていました。「地をすべて覆う」としたのは新共同訳からなのでしょうか。何かしらの妥協の産物であるなら、翻訳に関わった人たちの不誠実あるいは傲慢にも思えました。
RT:イザヤ6:3をヘブル語で調べていただき感謝。ローズンゲンではできるだけ、その句の文脈とか背景とかを「調べず」その言葉自体を黙想の対象としています。でも、原語に当たることも大切で、感謝します。

@ybunya 神の救いが天と地、被造物すべて滅しても、なお永久に続くからこそ、我らの罪に比する神の怒りは有限であり、その罪を赦す神の救いは最も古くかつ永遠に続くからこそ、怒りよりも慈悲が上回るのは必然で、神の救いが永久だからこそ今の救いに意味があると思えます。賢しらすみません。
RT:レスありがとう。あなたの言う「神の救い」とは一体何を意味するのでしょう。「救われている」と思う人間、あるいはそう「思っている」動植物が存在しているからこそ「神の救い」という言葉の意味が成立するのであって、神は永久でも、「神の救い」ということはない。
@ybunya こちらこそありがとうございます。もちろん、来世での救済です。全てが滅び、復活させられた後の審判による罪の赦し、天国に入ることです。現世においては来世の救済の先取りととらえます。来世の救済前提の現世の救済と考えています。
RT:丁寧なご返事感謝。キリスト教の聖職としてあるまじきこととして、軽蔑されるかも知れませんが、わたし自身は「来世の救済」という神話は信じていません。と言うよりも、「どうでもいいこと」と思っています。今、ここでの救済が重要なことだと思っています。
@ybunya 実はイザヤ51章聖句は、義を求める者への言葉で、結構泣けるとです。正直、クルアーンと預言者ムハンマドの言行でも、強調されるポイントで、とても琴線に触れます。おそらく「義」が立ち上がるのはこういう場面からと感ずるのです。来世を理屈抜きにリアルに信じているムスリムたちは私にとって驚きだったからこそムスリムになりました。今ここでの救済と来世での救済は二律背反でなく、相互補完的だと思っています。それを自殺率の低いエジプトで入信前体感しました。宗像の賢者に感謝。えるものが大変ありました。自身の賢しら恥ずかしく思います。失礼があれば、申し訳ありませんでした。「主よ、あなた以外に崇拝する神はいません。超越せしお方よ、私は誠に不義なるものの一人でした。」

5月27日(木)
わたしは、死ぬことなく、生き長らえて、主の御業を語り伝えよう。(詩編118:17)
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)
わたしの黙想
同じ「死」でもガラテヤの死と詩編の死とでは全然違う。詩人は戦争という状況の中で死ぬような経験をしたが生き残ったらしい。だから、これからの人生は・・・・、という決意を表明している。この直後に有名な「隅の親石」の句がある。満州からの引き揚げの経験を思い出す。

5月28日(金)
わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に、わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。(イザヤ51:4)
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)
わたしの黙想
今日の聖句においては「人の光として輝かす」という句が光っている。「人を照らす光」、神の元から出る「教え」が「人の光」、「光る人」その人自身が「神の裁き」。「之に生命あり、この生命は人の光なりき」(ヨハネ1:4、文語訳)。「人々の光」、「私の光」。

5月29日(土)
わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。(エゼキエル36:27)
わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ロマ5:5)
わたしの黙想
OTの聖句はOK。しかしNTはいただけない。誰かを愛する愛ぐらいは「わたし自身のもの」でなくっちゃ。あなたがもし誰かから「聖霊によってあなたを愛しています」なんて言われたら、ガックリ来るでしょう。何でもかんでも「聖霊」の所為にするのは聖霊派の人々の問題点。

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