ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 01/20~01/26

2013-01-27 17:49:47 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 01/20~01/26

日々の聖句2013 01月20日(日)
主を求めよ。主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた、この地のすべての人々よ、恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。(ゼファ2:3)
あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。(コロ3:1)
私の黙想:
この聖句の各種の翻訳を比較すると同じ原文とは思えないほど異なっている。フランシスコ会訳の註が示すように「アナヴィム」(新共同訳では「すべての人々」)という単語の扱い方による。
要するに(お得意の「大雑把」訳によれば)、この部分では神の怒りは2種類ある。一つは決定的な「怒りの日」(2:2)で、もう一つはユダの人々が受けている現実的な「主の裁き」である。この現実的な「主の裁き」に服し、堪え忍ぶならば、最後の「主の怒りの日」には、匿って下さる、つまり赦される、という意味であろう。具体的にはバビロンに滅ぼされ苦難の日々を過ごすであろうが、それを主による裁き(罰)として謙虚に受け入れ、忍耐を持って耐えるならば、必ず主はそこから救出して下さるというメッセージである。これがイスラエル(ユダ)の敬虔の伝統となり、ルカによる福音書2章のシメオン、アンナに代表される「待ち望む人々」となる。

日々の聖句2013 01月21日(月)
神をたたえよ。この僕たちを、神は御使いを送って救われた。(ダニ3:28)
あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。(ルカ21:18)
私の黙想:
この言葉には、ネブカドネツァル王の驚きと反省、そして新しい決意が凝縮している。権力を持っている者には自分自身の判断による事態の思わぬ展開に対して、率直に驚き、過ちを反省し、新しい方向への決断が必要である。いかなる権力者にも間違いはある。その間違いを認めないとき、その権力者は自己自身を神とする。これが権力者がはまる最大の落とし穴だ。

日々の聖句2013 01月22日(火)
善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。(イザ1:17)
自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。(ヘブ13:3)
私の黙想:
心のこもらない宗教儀式は、不正な裁判、弱者虐待と同根である。宗教と倫理、信仰と行為とは分離できない。「まつりごと」と「おもいやり」は表裏一体である。これを分離するとき不正が発生する。
神は言われる。「お前たちのささげる多くのいけにえがわたしにとって何になろうか」、「むなしい献げ物を再び持って来るな」。災害復興予算から不正な資金を配布された人たちは、なぜ、潔く、こんな金を持ってきて私たちを「同類」にするな、と言えなかったのか。出す方も出す方、貰う方も貰う方。

日々の聖句2013 01月23日(水)
わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。(エゼ18:23)
父親は言った。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった。」(ルカ15:24)
私の黙想:
「悪人」と「罪人」とはどう違うのだろうか。日本語のニュアンスとしては「悪」の対立語は「善」であり、「罪」の対立語は「義」である、と私は感じている。だとすると、ここでは悪人が善人にされると言うより、罪人が赦されて義人とされる、という意味ではないか。
ここで、親鸞の根本思想「善人なおも往生す、いわんや悪人をや」(歎異抄)という悪人正機を思い起こす。この思想との相違を考えるとき、「罪の赦し」という媒介項の有無が問題になる。聖書の思想は罪人の罪が赦されて義(人)と認められる、という信仰義認であるのに対して、悪人正機とは悪人が悪人のままで救済(往生)されるという思想である。そこに人間の根本存在を「悪人」みるか、と罪人」と見るかの差があるのではなかろうか。

日々の聖句2013 01月24日(木)
神に従う人は待ち望んで喜びを得る。(箴10:28)
神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。(ヘブ10:36)
私の黙想:
今日の聖句は、次の句とセットとである。「神に逆らう者は期待しても裏切られる」。新共同訳以外は「正しい人の望み」と「悪者の期待」とが対比されている。前者は「正しい望み」、後者は「邪悪な期待」と同義である。原発は正しい望みなのか、邪悪な期待なのか。原子力そのものには正も悪もない。一つの自然の力である。核兵器の邪悪さは既に歴史的に証明されている。原発の危険性も証明済みだ。にもかかわらず、いや、だからこそ原発を推進するためには危険性を隠蔽するために多くの「嘘」で塗り固められる。正しい望みは貫徹され、邪悪な期待は消滅する。

日々の聖句2013 01月25日(金)
神よ、あなたの道は聖である。(詩77:14、口語訳)
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
私の黙想:
このような当たり前のことを、私たちはいつ口にするのだろうか。その背後には何らかの「驚き」の経験がある。日常的生活のレベルを越えるような経験、ここでは「神の聖」が歌われているのであるから、神の聖性に関わる想像を絶する、想定外の経験。詩人は「今」神から見棄てられた状況の中で、神のよって守られた今までの生活を思い起こしている。そうすると、今の今まで当たり前と思っていた一つ一つの出来事が全部奇跡であったことを思い知らされる。その中で、「ああ、神よ、あなたの道は聖である」という言葉が口から飛び出してくる。それは私自身の経験でもある。

日々の聖句2013 01月26日(土)
主はへりくだる人に恵みを賜る。(箴3:34)
あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。(マタ20:26)
私の黙想:
ここでの「へりくだり」とはあくまでも人間関係における謙遜さである。神は私たちの人間関係に有り様にも介入される。その場合、謙遜という姿は多様で時には「へつらい」であったり、「謙遜を装う傲慢」であったりする。つまり外面的と内面との反転現象も起こる。それに対して不遜さは単純明快で、見ていて非常に不快である。その意味で、ここでは神は「不遜な者をあざけり」の方が具体的で重要である。神は不遜な者の滑稽さを笑っておられる。

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