ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/01/24~01/30

2016-01-31 06:54:21 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/01/24~01/30

2016 日々の聖句 01月24日(日)
平穏なときには、申しました「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。しかし、御顔を隠されると、わたしはたちまち恐怖に陥りました。(Ps.30:7~8)

神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。(1Pet.5:5~7)

私の黙想:
神の前での正直さ、これは大切だ。神の前で見栄を張っても仕方がない。今日の聖句は詩30から、この詩は「神殿奉献の歌」とタイトルが付けられている。それを背景に、今日の聖句を読むと、「平穏なとき」と「非常時」との対比が鮮明になる。神殿が異教文化によって汚されたとき、つまり非常時に彼らは立ち上がって強大な外敵(シリア軍)に立ち向かった。それが紀元前3世紀のマカベア戦争。彼らの勇敢な戦いによってシリア軍を追い出し、神殿を再聖別したのが神殿奉献祭。詩人はその時のことを思い起こして歌っている。非常時に勇敢に戦う力は、「平穏なとき」に養われる。
神殿とは平常時における非日常性の世界である。面白いことに、フランシスコ会訳では「重病から救われたときの感謝の祈り」というタイトルが付けられている。このタイトルはどこから来たのかわからない。でも、面白いではないか。重病で死にそうなときに、マカベア戦争のことを思い起こして、神殿奉献祭の歌を歌うなって。これが日常性の中で生きている信仰の徴であろう。

2016 日々の聖句 01月25日(月)
主を畏れる人を祝福し、大きな人も小さな人も祝福してください。(Ps.115:13)

もう用意ができましたから、おいでください。(Lk.14:17)

私の黙想:
今日の聖句、何かしら不安定である。不安定な理由は、「主を畏れる人」と「大きな人」「小さな人」との関係が中途半端で、誰の祝福を祈っているのか分からないことにあるようだ。その点で、口語訳は安定している。「小さい者も、大いなる者も、主を恐れる者を恵まれる」。新改訳はほぼ口語訳と同じ。フランシスコ会訳では、さらに明確になる。「主を畏れる者を祝福してくださる、小さな者も大きな者とともに」。岩波訳はフランシスコ会訳と同じだ。仏教の立場に立つならば、「大きな者も小さな者と共に」となり、大きな者と小さな者との立場が変わる。おそらく、イエスの立場で言うならば、仏教の立場をとられるのではないだろうか。
ところで、この人間を「大きい、小さい」で分けるということはどういうことであろう。まさか身体の大小ではないだろう。サウル王はかなり大柄であったらしいし、ダビデ王は小柄な印象である。社会的地位の上下関係なんだろうか。それは人間の社会内部のことであって、神の前には関係ないであろう。ローズンゲンの編集者は今日の聖句に対してルカ福音書の14章の言葉を対応させている。非常に面白い。二つの聖句を並べただけではないも感じないかも知れないが、実はここに人間の大小をどう考えているのかと言うことが見事に暗示されている。宴会の主催者が公式に招いた人たちが出席を断ったために、主人は怒って、僕に「急いで町に広場や路地に出て行き、貧しい人、身体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」と言う。つまり、「大きな人たち」は宴会の出席を断った人々であり、「小さな人たちとは、後でかなり強引に連れてこられた人々である。ルカは、これが主の祝福、福音だという。

2016 日々の聖句 01月26日(火)
地の果てに住む民は畏れ敬い、朝と夕べの出で立つところには、喜びの歌が響きます。(Ps.65:9)

看守は二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。(Act.16:34)

私の黙想:
先ず、「地の果て」に住民が居るということが驚きだ。住民が居るところ「地の果て」ではない、と私などは思う。まぁ、それは時代が違うのだから仕方がないとして、「朝と夕べの出で立つところ」という表現が面白い。そこから朝が出ている。同じようにそこから夜も出てくる。要するに、太陽と月とが出てくるところであろう。月はフッと気が付いたらもう空の高いところにあるが、朝、太陽が出てくる光景は、毎朝のことではあるが、神秘的だ。何ものにも妨げられずに、地平線あるいは水平線から真っ赤な太陽が昇ってくる光景を、誰よりも早く見たいと思うであろう。それは古代人も現代人も違いはないであろう。この「喜びの歌」はそちらから響いてくるのではなく、それを見ている人の心の中からこみ上がってくる響きであろう。ああ、新しい日が与えられたというような、反省的な感動ではなく、その場に立っているということ自体が感動的である。私なら、思わず、無意識のうちに「手を合わせる」。

2016 日々の聖句 01月27日(水)
主は、あなたの優れた霊を授けて彼らに悟りを与え、口からマナを取り上げることなく、渇けば水を与えられた。(Neh.9:20)

わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。(1Cor.2:12)

私の黙想:
私の人生を振り返えると、本当にその通りだ。霊の糧も肉の糧も日毎の必要も、主は贅沢はさせてくれなかったが、必要なものは、その都度、与えて、取り上げられなかった。それだけは確かである。いや、もちろんそれだけというわけではないが。
実はこのネヘミヤ記9章は、仮庵祭が終わって2日後に行われる「律法更新」、つまりヤハウェとのシナイ契約更新の式の中での「罪の告白」である。一貫して流れている基調は、ヤハウェ側の誠実さとイスラエル側の不誠実である。だkら、契約更新をヤハウェ側から拒否されても仕方がないという中での罪の告白である。自分たちの歴史を赤裸々に語りながら、そこには一切の「言い訳」がない。それでもなお、ヤハウェ側の誠実さを期待する。むしろ「言い訳」をしたら、あるいは自分たちの歴史を美化したら、神の誠実さを確信できなかったであろう。私たちが歴史を振り返るということは、そういうことなのである。不誠実であった自己に対して誠実である。

2016 日々の聖句 01月28日(木)
主はモーセに言われた「わたしが命じるすべてのことを語りなさい。」(Ex.7:1,2)

主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。(Act.4:29)

私の黙想:
今日のキイワードは「語れ」。今日の聖句は一寸おかしい。モーセはまだ乳幼児の頃、エジプトの王の娘に拾われて、王宮で娘の子、つまりファラオの孫として育てられた。当然、母国語はエジプト語である。しかも語る相手は義理とは言え祖父である。その点でいうとモーセの兄アロンはイスラエル人の子として育てられ、生粋のイスラエル人である。その意味ではヘブライ語が母国語であり、いくらエジプト国内で育てられたとはいえエジプト語は異国の言葉である。ところがこの場面では、モーセが語り、それをアロンがエジプトの王に「通訳」して語る。どう考えてもおかしい。たとえ、モーセが40年間祖国を離れていたとはいえ、通訳が必要だったとは思えない。この場合、雄弁であるかどうかは問題ではない。口下手だといわれているモーセが兄アロンの雄弁を必要としたのは、モーセがイスラエルの民に演説する状況においてであろう(Ex.4:10~17)。そんなことが私の頭をよぎった。言葉の問題は難しい。そんなことを考えながら、出エジプト記の4章を読んでいると、こんな言葉に出会った。 「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」。
と、今朝の黙想はここまで。

2016 日々の聖句 01月29日(金)
ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得る。(Deut.16:20)

正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。(1Tim.6:11)

私の黙想:
「イミタチオ・クリステ」に出てくるような教訓。現実はそうはいかなかいからいろいろ問題がある。悪人が栄え、善人が苦労している。実は、聖書の聖書たるところは、これに続く次の言葉にある。「あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる」。この言葉が続くことによって、今日の聖句は聖句らしくなる。意味は実にいやらしい。絵に描いたような「申命記律法」だ。いやらしいけど、これが聖書のリアリズムだ。ここに賭けてみるか。「ごまめの歯ぎしり」と言われたっていいじゃないか。こうなったら信仰は「意地」だ。(「ごまめの歯ぎしり」の意味:ごまめは小さなカタクチイワシを素干しにしたもので、この句では実力のない者のたとえとして使われている。実力のない者が、やたらと憤慨して悔しがったり、いきりたつことをいう。また、その行為が無駄であるということのたとえにも使われる)。

2016 日々の聖句 01月30日(土)
あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ。(Zec.8:23)

祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。(Jh.12:20~21)

私の黙想:
今日の聖句、ゼカリアの預言(8章)は面白い。捕囚後、エルサレムの神殿を再建したユダヤ人たちはこんなことを考えていたのだ。今朝はこの聖句を「私たちの信仰」に結び付けて考える。特に、教会の伝道問題である。伝道が成功するか、独りよがりで失敗するのかの分かれ道が、これだ。ということで、結論が出てしまった。論理正しい神学、深遠な教理、緻密な聖書研究、それが人々を教会に導くのではない。確かにこの人たちの中に「神が居られる」という驚きが人々を信仰へ招くのだ。この世のものとは思えない友情、思いやりに満ちた交わりが人々に「共に行かせて欲しい」という気持ちにするのだ。教会の交わりが、この世の人間関係と同じなら、人々はわざわざ教会に来ようとは思わない。ということで、私自身深くうなだれる。

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