お早ようございます。主の平和。整形外科。『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を続読。ヨハネ福音書における「栄光」を考える。そもそも日本語の「栄光」とはどういう意味なんだろう。何か直訳臭い。「輝き」「尊さ」「貴い」「誉れ」ではないだろうか。夜、「科捜研の女」「スペシャリスト」を見て10時半就寝。6時起床。血圧(151:84,75)・体調・快調。チュン、チュン。
16Luke Etsuzou Nomahさん、播 稔さん、他14人
コメント
久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。
文屋 善明 どなたか、「栄光」という日本語の成立史みたいなもの、教えてください。何か、キリスト教臭い。
久保和男 広辞苑では、さいわいを約束する光。とありますね。
文屋 善明 成る程。
Satoshi Mizota 多分、『日国』をみたらでてます。『日本国語大事典』。初出とか載っている日本語では最大の事典です。普通の図書館にもあるはず。
村田 多鶴子 おはようございます~♪
先生ご夫妻がお守りの内に穏やかなよい時間をお過ごしになられますようにm(__)m
藤木 冨士子 おはようございます。栄光、確かに昔の日本にはないかんじ。
文屋 善明さんが写真2件を追加しました
1月29日 6:24 ·
お目覚めの花。「甘利さん、とうとうお辞めになりましたね」「そうですね。でも、これですっかり引っ込みますかね」「それは怪しい。むしろ裏に回った方が怖い」「石原大臣で上手く行きますかね」「行かないでしょうね。彼の最大の欠陥は世間を舐めているということですからね」。
文屋 善明さんの写真
49藤木 冨士子さん、Susumu Odaさん、他47人
コメント
清水 行雄 おはようございます。先生のアップする花がまた美しさを取り戻してきた感があります。
文屋 善明
1月29日 6:47 ·
2016 日々の聖句 01月29日(金)
ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得る。(Deut.16:20)
正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。(1Tim.6:11)
私の黙想:
「イミタチオ・クリステ」に出てくるような教訓。現実はそうはいかなかいからいろいろ問題がある。悪人が栄え、善人が苦労している。実は、聖書の聖書たるところは、これに続く次の言葉にある。「あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる」。この言葉が続くことによって、今日の聖句は聖句らしくなる。意味は実にいやらしい。絵に描いたような「申命記律法」だ。いやらしいけど、これが聖書のリアリズムだ。ここに賭けてみるか。「ごまめの歯ぎしり」と言われたっていいじゃないか。こうなったら信仰は「意地」だ。(「ごまめの歯ぎしり」の意味:ごまめは小さなカタクチイワシを素干しにしたもので、この句では実力のない者のたとえとして使われている。実力のない者が、やたらと憤慨して悔しがったり、いきりたつことをいう。また、その行為が無駄であるということのたとえにも使われる)。
24藤木 冨士子さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他22人
シェア1件
コメント
清水 行雄 おはようございます。ごまめの歯ぎしりの意味よくわかりました(^_^)
文屋 善明
1月29日 6:53 ·
今日の名言:@simoneweil_bot
ある種の程度の低い徳は、堕落した善のひとつの姿である。こういった徳を実行したならば悔い改めなければならないが、それは悪を悔い改めるよりもむずかしいことである。パリサイ人と取税人。(シモーヌ・ヴェイユ)
<一言>「堕落した善」は厄介だ。
19藤木 冨士子さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他17人
コメント
植村 光郎 私は、善人面をして、岡目八目をきめることばかり。この名言はドキッとします。
文屋 善明
1月29日 8:24 ·
今日の「折々のことば」に代えて
鷲田清一さんと高橋源一郎さんとの対談を掲載します。
朝日新聞連載「折々のことば」筆者で哲学者の鷲田清一さんと、「論壇時評」筆者で作家の高橋源一郎さんが1月22日、東京都世田谷区の複合施設二子玉川ライズで「『折々のことば』のつくり方」をテーマに対談しました。「ことば」について考えることを広く語り合った対談の模様をご紹介します(当日の発言に一部加筆しています)。
特集「折々のことば」
3兆通りの「おかわり」がある
高橋 「折々のことば」にはいろんな人の言葉がでてくるので、自分でも集めてみたくなります。言葉はもともと集めていたんですか。
鷲田 昔から、すごい言葉は手で写す癖があるんです。若い時から写したものがずいぶんあるから、楽かなと思ってこの仕事を引き受けたら、取り上げる言葉の文字数(60字以内)が決まっているから使えない言葉がある。あまり定期預金はなかったんだとわかって、毎日通帳の残高を見ているような感じです。
高橋 「論壇時評」で言葉を引用する時は、自分で決めたテーマに合うものを探します。「折々のことば」は決まったテーマがないでしょう。
鷲田 理屈っぽいのが続いたなと思ったら、正反対の、孫の言葉(ミュージカル観劇後に「おかわりぃ!」と叫んだ。昨年10月12日掲載)まで使って。
高橋 あれは単なるいいおじいちゃんだった(笑)。鷲田さんに付け届けしたら、うちの子どもたちの言葉も使ってくれるのかな。
有名な人の言葉もあるけれど、この人誰?っていうのも結構多いですね。
鷲田 半分くらいは作家さんとか思想家の言葉なんですけれど、心得としているのは、誰でも知っている有名な言葉は使わないこと。意外と知られていない本の、知られていない言葉を使おうと思っているんです。哲学者の鶴見俊輔さんは、いわゆるハイアートではなく、祭や俳句や落書きなど、アートと大衆芸能の境界にあるものを「限界芸術」と呼びました。哲学は、新しい理論を発明するのではなくて、人々の暮らしの中にある大事なものを発見するものだとも言っています。特に、言葉にならない、たとえば職人さんの仕事とかそういうものを翻訳する作業が哲学だと考えておられて、すごく共感しました。僕はこれまで「限界哲学」をやってきたところがあり、こういう場面で哲学をやりたいという気持ちがある。ぴかぴかっとしたものを探し回っています。
高橋 僕も鶴見さんの言葉がだんだん身に染みるようになってきました。鶴見さんは自分の体をメジャーにしてものを考えている。
「折々のことば」は一般的な名言集や箴言集とは対極にありますね。僕、名言集って嫌いなんですよ。キレのある「深い」言葉ばかりだと、こっちが入る余地がないじゃないですか。オリンピックで100m走ってるウサイン・ボルトみたいなもので、そりゃあんたは早いよ、と。
若い頃はかなり名言集派だった。本で線を引っ張るところは、深い意味がありそうなところ。昔買った本を取り出すと、自分が引いてる線が超恥ずかしいよね。こんなところに感動してるよって。
鷲田さんは、「現場」に行って考える臨床哲学をしています。現場で何かを真剣に考えたら、それが哲学の萌芽(ほうが)になる。どんな言葉にも哲学の芽があるということですよね。逆にいうと、言葉を言った人より聞く人の方が問題なわけです。たとえば「おかわりぃ!」という言葉は、「これがすごいよ」って説明する人がいないと、通り過ぎてしまう。コラムの左側に鷲田さんの説明、その言葉の感じ方が出てくるから、言葉はいろんな見方、読み方ができるということが見えてくると思うんです。
こんなことがありました。息子たち(現在11歳と9歳)が言葉を覚えるのを、ずっと見てたんです。言葉を覚える時って、まず子どもは適当に言うんです。周りが喜んだら、一番受けることばを送り返す。「パパ」と言ったらこの人は喜ぶね、と思って「パパ」という。言葉って、意味というより「自分を愛して」と言っている、悲鳴みたいなものだと思った方がいい。「パパ」って言ったら「ラブ・ミー」だと思うようになって。
長男が3歳くらいの時に公園を散歩していたら、セミの抜け殻があった。そしたらヤツが「もう森へお帰り」と。「将来詩人で食える」と思った。次の日にまた同じ公園に行って、宵の明星を見ると、「パパ、命の星が光ってる」と。
喜んだんだけど、ふと気づいた。聞いたことがあるなと思ったら、映画「アンパンマン」の名ゼリフ。「もう森へお帰り」は、「風の谷のナウシカ」でナウシカが王蟲(オウム)にいうセリフ。ヤツが最初に作った文章は引用だった。僕たちが使っている言葉と違って、もうちょっと遊びというか、楽しく、自分がこの世界と仲良くするための道具として使っている。それを見た時、言葉って自由に使っていいんだと思った。
言葉ってしょせん借り物なのに、つい「誰も言ったことがないことを言おう」と思いがちです。だけど、その言葉は、実際には100万回使われているかもしれない。「おかわり」は3兆5千億回くらい使われているけれど、そのたびに耳新しく聞こえたりする。言葉は単独でそこにあるわけじゃなく、受け手と出し手がいて初めてコミュニケーションが生まれ、新しい意味が付け加わる。物を書く場合も一緒で、オリジナルな言葉は使わなくても、読んでくれる人に新しい経験として伝わればいい。その場、その人、その人たちの関係で、3兆通りの「おかわり」があると考えたら、言葉の数は限られていても、得られる経験は無限大です。
■わからないって大事
鷲田 コンテクスト(文脈)は無限にある。論壇時評は、引用される論文やエッセーのつなげ方が意外でぞくぞくします。普通だったら法学者の憲法論議が出てきたらつぎ政治学者が出てきて、右が出たら左でという感じなのに、全然違うコンテクストから、言葉の感触も全然違うものをひっぱってくるでしょう。
高橋 25年前に「文芸時評」もやってたんです。その時に困ったことが一つあったんですね。文芸誌に文学がほぼ載っていない。でも、文芸誌の外で、文学があるところにはある。
鷲田 そうだ、僕のファッション論、コレクション評を論じてくれたことがありましたね。
高橋 論壇時評を始める時に、論壇の言葉を探しにいった。論壇誌の中には、読み応えのある評論はあるけど、何かが欠けてる。読者が、最終的に何かを「読んだ」と思うには、ある決定的な言葉がいる。どんなに詳しい説明をされても納得いかないけれど、一行で納得するようなものがないと、画竜点睛を欠く。
僕も「折々の社会のことば」を探しているわけです。探してみると、こんなところにあるの?と思うようなところで見つかる。その人がきちんと生きてきたということを、説明している言葉、あるいは説明はしにくいけれど、何かが伝わるような言葉がある。
鷲田 知人の銀行員が、「口下手な行員のほうが成績がいいんです」(4月9日に紹介)と話していました。「そんなにいい商品なら、俺が先に買っているよな」という、良心の呵責が顔に出て、時々詰まってしまうんですって。そうするとお客さんは、この人いい人だと、言葉に逆に真実味がでて、つい契約してしまうんですって。
立て板に水で話すタイプの人って、僕苦手なんです。隙なく、攻撃されないような修辞で、まるで書き言葉のように話す人がいますよね。それから苦手なのは、プレゼンテーションのうまい人。私のプロジェクトとか、ビジネスプランとか。これからのことをすらすら説明できるのっておかしいと思う。そして、ヘイトスピーチがそうですが、自己への懐疑がなく、当たったら相手が絶対ケガをするとわかっているのに、つぶてのような言葉を投げるタイプ。増えてきた感じがする。
高橋 多いですよね。でもそういう言葉に人間は弱い。昔競馬場の近くに怪しい予想屋がいっぱいいて、「絶対当たる必勝法」を売っていました。その人たちのトークを聞いていると、だんだん、もしかしたら当たるのかも、いや絶対当たる、と思えてくる(笑)。人間は本当に言葉に弱い。難民や弱者をののしる言葉にしても、常識や良識で考えればありえないと思うけれど、意外と人間は弱い、もろい生き物だと思う。
鷲田 言葉に情を揺さぶられて、というところもある。たとえば歌は人々をすごく団結させる。映画「サウンド・オブ・ミュージック」の最後で、亡命する家族が最後に同胞と「エーデルワイス」を歌いますね。圧政者への抵抗の歌として歌うけど、同時に軍歌のように、まさに人を攻撃したり排除したりする時にも歌声をそろえる。音楽は、虐げられた人を団結させるものであると同時に、暴虐の武器である。
高橋 僕たちの知的な部分は、通俗的な感情と切り離されてるわけじゃないんですよね。同じ一人の人間の中、その根っこでくっついているのは認めざるを得ない。だからいつも注意して、言葉と世界と向かい合っていないと。今、非知性的なことはまずいよ、と言っているけど、それは我々と無関係ではなくて、僕たちの中にも、いつ転ぶかわからないものがあると思うんですよね。論壇時評を5年近くやってきてたくさん言葉を集めていて、一番いいなと思ったのは、美智子皇后の言葉。「読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ」(2013年10月31日の論壇時評で紹介)。あれを言うのが皇室っていうのが、なかなかいい国だなと(笑)。言葉を見つける作業っていうのは、今のような時代こそすごい必要だと思うんですよね。
鷲田 言葉の意味を理解することと、それに心底納得できるということのズレって常にあると思うんです。人と話したり激しい議論したりする時、理解できないことももちろんあるんですけど、理解できるけどどうしても納得できない時とか、理解したくないという時とか、理解できないけれども納得はできる時とかがある。納得ということは、本当に体に染みこんでくることなんですけど、それが常に正しいとは限らないところが、言葉の危ういところかなと。
高橋 言葉って、人の使い方によって、状況によって本当に変わってくるわけですよね。言葉自身には何の意味もない。僕たちが言葉を使うのは、ある意味単純だと思うんですが、理解したり伝えたりするということは全く別問題。こうしてリベラルな雰囲気を醸し出しておりますが、僕だって何か言われてムカッと来ることがあります。「わかりたくない」っていう抵抗があるじゃないですか。一番大切なのは、こういう言葉を聞くとかすかに抵抗がある、言う時に抵抗がある、っていう自分の中の抵抗感です。それが言葉との付き合い方かなと。
鷲田 言葉を読む前と読んだ後に自分がずれてしまっている、ワープしているというか、少し変わったという経験が起こらないと、本当にいい文章を読んだということにはならないんじゃないかな。納得できる、理解できる言葉ばかりでなく、理解できないところへと連れてってくれる言葉が大事だと思います。
高橋 わからないっていうのもとても大事。中2の冬、放課後のうどん屋で、突然友だちが吉本隆明さんの詩集を出して、朗読してくれたんです。僕は1行も理解できなかった。でも感動して泣きたくなった。意味はわからなかったけど、これはすごいと思って、いつかわかるといいなと目標になった。理解はできなくても、感じることはできる。そしてそれはとても大切なことだと思います。
鷲田 僕が哲学をやってみるかと思ったきっかけも同じです。キルケゴールの「死に至る病」の最初の3行なんです。「人間とは精神である。精神とは何であるか? 精神とは自己である。自己とは何であるか? 自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている……」。横にいたやつは、「関係関係っておまえ何かやらしいこと考えてるの」と言ったけど。さっぱりわからない。何もわからないけれど、僕の普段の思考回路と全然違うけれど、なんかうーんと先まで見ていて、ぐっと胸ぐらをつかまえられる感じがした。
高橋 そんな言葉にどこかで会えるといいですね。
◇会場との質疑応答
今17歳の高校2年生です。もうすぐ選挙権を持つので、暇な時に国会答弁を見ていると、何を言っているのかわからない、聞いていて頭が悪くなりそうな、理解もできないし納得もできない言葉があり、話す側も理解も納得もさせる気がなさそうな言葉があります。そういう時に言葉に嫌悪感を持ってしまいます。
高橋 言葉というのは膨大にあり、ほとんどは無意味なもの、馬鹿みたいなものばかりです。ネットを見ていると吐き気がしてくる。知性のフィルター通さないで、ダイレクトに、無意識から、あるいは欲望のまま出されている言葉は腐臭を放つ。たしかに悪い言葉ばかり聞けば病気になりますよ。結論としてはね、いい言葉と悪い言葉、両方聞けばいい。できたら、悪い言葉に耐えられるくらい強い人間になってね。腐臭を放つ言葉の中でみんなが生きているから、そこから離れるってことはできないと僕は思う。そこにいつつ、なおかつのまれないようにするしかないと思っているので。だから僕はけっこう聞きますよ。安倍ちゃん(晋三首相)の演説も聞くし、ヘイトスピーチも聞くし。ただ、それに巻き込まれると、我を失う恐れがあるなら、やめた方がいいかもしれない。そういう世界もある、そこで生きていくんだって言うためには、両足をふんばって聞く時も必要かな。
鷲田 現代社会は複雑性がどんどん増大し、経済にしても政治にしても、専門的な知識をある程度身につけないと理解不能じゃないですか。今いきなり国会の話を聞いていても、難しすぎたり無意味に感じたりする。でも一つ一つの問題は、グローバル経済の問題、最近のバスや食品の安全性の問題、何よりエネルギー源の問題にしても、我々の毎日の生活に深く関わっていて、考えないでは生きられない。今までは専門家に全部お任せしていたけれど、原発事故以降、われわれが徹底的に思い知らされたのは、専門家だって問題を解けないということなんです。われわれの社会なのに、われわれの力だけでは制御できないほどのコントロール不能な動きがある。科学哲学を専攻している友人はこのことを「科学技術は専門家に委(まか)せるには重大すぎる」と言いました。これは専門的な事柄だから専門家に任せて議論を聞くという姿勢をちょっとやめるというか、自分でコンテクストを編んでみるというトレーニングをするのがすごく大事じゃないかと思う。論壇時評って、ある種毎回練習問題を出してくれている気がするの。この問題だったら、僕はこんな風にコンテクストを作る、という例題を作ってくれる気がする。
高橋 これ大きな問題なので簡単には言えないんですけれど、去年の8月、安保法制の問題があった時に一番思い出したのは、半世紀前に政治学者の丸山真男が言った、「民主主義は市民のパートタイムの政治参加が必要」という名言です。本職は市民、でもパートタイムで政治参加して、また戻る。ギリシャの民主主義と一緒なんです。これは政治だけじゃなくて、人は会社員だけやっていればいい、ということないじゃないですか。子育てもやる、デモにもいく、近隣で問題があったらその訴訟にも参加する、という風に。子育てする時は主婦だし、デモいっている時は運動家だし、つまり僕らはいろんな側面が可能性として含まれていて、そのたびに違う言葉を使う。まさに言葉をたくさん持つということと、それぞれの場所で違う人間として現れるということは、同じことだと思うんです。今は分業でしょ。君は学生だから勉強だけしてろ、みたいな。学生は勉強だけしてろ?それが勉強か?となるわけです。人間にはいろんな能力があるはずなのに、これだけやってたらいいよと、この分野のこの言葉だけ知ってればいい、となっていったのが今。その分野で専門家であることは必要なんですが、それ以外のところにはパートタイム参加できるくらいにならないと、これからはきついかなと思います。
鷲田 それはラグビーで次から次へとボールを後ろに回すのに似ている。逆にいえばいつ自分が最前線に出るやもしれないということ。梅棹忠夫さんはその心構えを、「請われれば一差し舞える人物になれ」と表現していました。
文屋 善明さんの写真
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=958571604220301&set=a.200492220028247.51380.100002024109092&type=3&theater
37藤木 冨士子さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他35人
シェア1件
コメント
文屋 善明 新聞本紙の方はかなり短縮されている。これはデジタル版からのコピペです。
安永 玲子 読み終えました!朝からしっかりと読めましたが、また何度も読んでみたいとおもおいました。17歳の孫にも紹介します。ありがとうございました。
清水 行雄 さすが、鷲田先生と源一郎さんの対話です。
播 稔 人間とは精神である。 有名ですが。
霜山 雅也 高橋先生、ウチの教員です
文屋 善明
1月29日 11:46 ·
弁護士ドットコム
·
私もそれが当然だと思う。私的に雇った元検事の弁護士では真実は明らかにならない。そこに誤魔化しがある。
<甘利大臣辞任>元特捜部・郷原弁護士「検察が積極的に捜査すべき」「辞任は当然」
甘利明経済再生担当相は1月28日午後、週刊文春が報じた金銭授受疑惑について内閣府で記者会見を開き、閣僚を辞任することを表明した。甘利大臣は、秘書の1人が…
BENGO4.COM
https://www.bengo4.com/c_1009/c_22/c_21/n_4222/
24藤木 冨士子さん、伊藤 利行さん、他22人
コメント
植村 光郎 あきれた!後任の大臣を決めるまで、スッタ・モンダし、甘利大臣の謝罪を引き伸ばす。この神経!
文屋 善明
1月29日 13:44 ·
「昨日のツイート 01/27 海の中道公園に行ってきました。」をブログにアップしました。
…
BLOG.GOO.NE.JP
10藤木 冨士子さん、川染 三郎さん、他8人
コメント
播 稔 二番に勝っても、二番だからなー。
文屋 善明さんがgrapeさんの投稿をシェアしました。
1月29日 13:57 ·
何だ、何だ!
grape
1月29日 9:50 ·
ゴミに気づいても、誰も拾わない…そんななか、一人の女性がゴミを拾ったところ…。驚くべきことが!!
落ちていたペットボトルをゴミ箱に捨てた瞬間、驚くべきことが! « grape
『grape』は、今知ってほしい話題やニュースを厳選して紹介するメディアです。
GRAPEE.JP
http://grapee.jp/136133
11Richard Bakerさん、岡 輝美さん、他9人
コメント
中野 芳夫 カナダ版ドッキリカメラですかね・・・
糸原 由美子 みんな注目してそのペットボトルを見ていたということ?わからない・・・
文屋 善明
1月29日 14:50 ·
イミタチオ・クリスチ(19):
篤信な人は、やがて運び去らねばならぬものを、自分の心の中であらかじめ整理する。
註:岩波訳では「善良で信心深い人は、外においてなすべき自分の仕事を、まず内において整理する」となっている。
12藤木 冨士子さん、鈴木 ゴリ 宣仁さん、他10人
16Luke Etsuzou Nomahさん、播 稔さん、他14人
コメント
久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。
文屋 善明 どなたか、「栄光」という日本語の成立史みたいなもの、教えてください。何か、キリスト教臭い。
久保和男 広辞苑では、さいわいを約束する光。とありますね。
文屋 善明 成る程。
Satoshi Mizota 多分、『日国』をみたらでてます。『日本国語大事典』。初出とか載っている日本語では最大の事典です。普通の図書館にもあるはず。
村田 多鶴子 おはようございます~♪
先生ご夫妻がお守りの内に穏やかなよい時間をお過ごしになられますようにm(__)m
藤木 冨士子 おはようございます。栄光、確かに昔の日本にはないかんじ。
文屋 善明さんが写真2件を追加しました
1月29日 6:24 ·
お目覚めの花。「甘利さん、とうとうお辞めになりましたね」「そうですね。でも、これですっかり引っ込みますかね」「それは怪しい。むしろ裏に回った方が怖い」「石原大臣で上手く行きますかね」「行かないでしょうね。彼の最大の欠陥は世間を舐めているということですからね」。
文屋 善明さんの写真
49藤木 冨士子さん、Susumu Odaさん、他47人
コメント
清水 行雄 おはようございます。先生のアップする花がまた美しさを取り戻してきた感があります。
文屋 善明
1月29日 6:47 ·
2016 日々の聖句 01月29日(金)
ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得る。(Deut.16:20)
正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。(1Tim.6:11)
私の黙想:
「イミタチオ・クリステ」に出てくるような教訓。現実はそうはいかなかいからいろいろ問題がある。悪人が栄え、善人が苦労している。実は、聖書の聖書たるところは、これに続く次の言葉にある。「あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる」。この言葉が続くことによって、今日の聖句は聖句らしくなる。意味は実にいやらしい。絵に描いたような「申命記律法」だ。いやらしいけど、これが聖書のリアリズムだ。ここに賭けてみるか。「ごまめの歯ぎしり」と言われたっていいじゃないか。こうなったら信仰は「意地」だ。(「ごまめの歯ぎしり」の意味:ごまめは小さなカタクチイワシを素干しにしたもので、この句では実力のない者のたとえとして使われている。実力のない者が、やたらと憤慨して悔しがったり、いきりたつことをいう。また、その行為が無駄であるということのたとえにも使われる)。
24藤木 冨士子さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他22人
シェア1件
コメント
清水 行雄 おはようございます。ごまめの歯ぎしりの意味よくわかりました(^_^)
文屋 善明
1月29日 6:53 ·
今日の名言:@simoneweil_bot
ある種の程度の低い徳は、堕落した善のひとつの姿である。こういった徳を実行したならば悔い改めなければならないが、それは悪を悔い改めるよりもむずかしいことである。パリサイ人と取税人。(シモーヌ・ヴェイユ)
<一言>「堕落した善」は厄介だ。
19藤木 冨士子さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他17人
コメント
植村 光郎 私は、善人面をして、岡目八目をきめることばかり。この名言はドキッとします。
文屋 善明
1月29日 8:24 ·
今日の「折々のことば」に代えて
鷲田清一さんと高橋源一郎さんとの対談を掲載します。
朝日新聞連載「折々のことば」筆者で哲学者の鷲田清一さんと、「論壇時評」筆者で作家の高橋源一郎さんが1月22日、東京都世田谷区の複合施設二子玉川ライズで「『折々のことば』のつくり方」をテーマに対談しました。「ことば」について考えることを広く語り合った対談の模様をご紹介します(当日の発言に一部加筆しています)。
特集「折々のことば」
3兆通りの「おかわり」がある
高橋 「折々のことば」にはいろんな人の言葉がでてくるので、自分でも集めてみたくなります。言葉はもともと集めていたんですか。
鷲田 昔から、すごい言葉は手で写す癖があるんです。若い時から写したものがずいぶんあるから、楽かなと思ってこの仕事を引き受けたら、取り上げる言葉の文字数(60字以内)が決まっているから使えない言葉がある。あまり定期預金はなかったんだとわかって、毎日通帳の残高を見ているような感じです。
高橋 「論壇時評」で言葉を引用する時は、自分で決めたテーマに合うものを探します。「折々のことば」は決まったテーマがないでしょう。
鷲田 理屈っぽいのが続いたなと思ったら、正反対の、孫の言葉(ミュージカル観劇後に「おかわりぃ!」と叫んだ。昨年10月12日掲載)まで使って。
高橋 あれは単なるいいおじいちゃんだった(笑)。鷲田さんに付け届けしたら、うちの子どもたちの言葉も使ってくれるのかな。
有名な人の言葉もあるけれど、この人誰?っていうのも結構多いですね。
鷲田 半分くらいは作家さんとか思想家の言葉なんですけれど、心得としているのは、誰でも知っている有名な言葉は使わないこと。意外と知られていない本の、知られていない言葉を使おうと思っているんです。哲学者の鶴見俊輔さんは、いわゆるハイアートではなく、祭や俳句や落書きなど、アートと大衆芸能の境界にあるものを「限界芸術」と呼びました。哲学は、新しい理論を発明するのではなくて、人々の暮らしの中にある大事なものを発見するものだとも言っています。特に、言葉にならない、たとえば職人さんの仕事とかそういうものを翻訳する作業が哲学だと考えておられて、すごく共感しました。僕はこれまで「限界哲学」をやってきたところがあり、こういう場面で哲学をやりたいという気持ちがある。ぴかぴかっとしたものを探し回っています。
高橋 僕も鶴見さんの言葉がだんだん身に染みるようになってきました。鶴見さんは自分の体をメジャーにしてものを考えている。
「折々のことば」は一般的な名言集や箴言集とは対極にありますね。僕、名言集って嫌いなんですよ。キレのある「深い」言葉ばかりだと、こっちが入る余地がないじゃないですか。オリンピックで100m走ってるウサイン・ボルトみたいなもので、そりゃあんたは早いよ、と。
若い頃はかなり名言集派だった。本で線を引っ張るところは、深い意味がありそうなところ。昔買った本を取り出すと、自分が引いてる線が超恥ずかしいよね。こんなところに感動してるよって。
鷲田さんは、「現場」に行って考える臨床哲学をしています。現場で何かを真剣に考えたら、それが哲学の萌芽(ほうが)になる。どんな言葉にも哲学の芽があるということですよね。逆にいうと、言葉を言った人より聞く人の方が問題なわけです。たとえば「おかわりぃ!」という言葉は、「これがすごいよ」って説明する人がいないと、通り過ぎてしまう。コラムの左側に鷲田さんの説明、その言葉の感じ方が出てくるから、言葉はいろんな見方、読み方ができるということが見えてくると思うんです。
こんなことがありました。息子たち(現在11歳と9歳)が言葉を覚えるのを、ずっと見てたんです。言葉を覚える時って、まず子どもは適当に言うんです。周りが喜んだら、一番受けることばを送り返す。「パパ」と言ったらこの人は喜ぶね、と思って「パパ」という。言葉って、意味というより「自分を愛して」と言っている、悲鳴みたいなものだと思った方がいい。「パパ」って言ったら「ラブ・ミー」だと思うようになって。
長男が3歳くらいの時に公園を散歩していたら、セミの抜け殻があった。そしたらヤツが「もう森へお帰り」と。「将来詩人で食える」と思った。次の日にまた同じ公園に行って、宵の明星を見ると、「パパ、命の星が光ってる」と。
喜んだんだけど、ふと気づいた。聞いたことがあるなと思ったら、映画「アンパンマン」の名ゼリフ。「もう森へお帰り」は、「風の谷のナウシカ」でナウシカが王蟲(オウム)にいうセリフ。ヤツが最初に作った文章は引用だった。僕たちが使っている言葉と違って、もうちょっと遊びというか、楽しく、自分がこの世界と仲良くするための道具として使っている。それを見た時、言葉って自由に使っていいんだと思った。
言葉ってしょせん借り物なのに、つい「誰も言ったことがないことを言おう」と思いがちです。だけど、その言葉は、実際には100万回使われているかもしれない。「おかわり」は3兆5千億回くらい使われているけれど、そのたびに耳新しく聞こえたりする。言葉は単独でそこにあるわけじゃなく、受け手と出し手がいて初めてコミュニケーションが生まれ、新しい意味が付け加わる。物を書く場合も一緒で、オリジナルな言葉は使わなくても、読んでくれる人に新しい経験として伝わればいい。その場、その人、その人たちの関係で、3兆通りの「おかわり」があると考えたら、言葉の数は限られていても、得られる経験は無限大です。
■わからないって大事
鷲田 コンテクスト(文脈)は無限にある。論壇時評は、引用される論文やエッセーのつなげ方が意外でぞくぞくします。普通だったら法学者の憲法論議が出てきたらつぎ政治学者が出てきて、右が出たら左でという感じなのに、全然違うコンテクストから、言葉の感触も全然違うものをひっぱってくるでしょう。
高橋 25年前に「文芸時評」もやってたんです。その時に困ったことが一つあったんですね。文芸誌に文学がほぼ載っていない。でも、文芸誌の外で、文学があるところにはある。
鷲田 そうだ、僕のファッション論、コレクション評を論じてくれたことがありましたね。
高橋 論壇時評を始める時に、論壇の言葉を探しにいった。論壇誌の中には、読み応えのある評論はあるけど、何かが欠けてる。読者が、最終的に何かを「読んだ」と思うには、ある決定的な言葉がいる。どんなに詳しい説明をされても納得いかないけれど、一行で納得するようなものがないと、画竜点睛を欠く。
僕も「折々の社会のことば」を探しているわけです。探してみると、こんなところにあるの?と思うようなところで見つかる。その人がきちんと生きてきたということを、説明している言葉、あるいは説明はしにくいけれど、何かが伝わるような言葉がある。
鷲田 知人の銀行員が、「口下手な行員のほうが成績がいいんです」(4月9日に紹介)と話していました。「そんなにいい商品なら、俺が先に買っているよな」という、良心の呵責が顔に出て、時々詰まってしまうんですって。そうするとお客さんは、この人いい人だと、言葉に逆に真実味がでて、つい契約してしまうんですって。
立て板に水で話すタイプの人って、僕苦手なんです。隙なく、攻撃されないような修辞で、まるで書き言葉のように話す人がいますよね。それから苦手なのは、プレゼンテーションのうまい人。私のプロジェクトとか、ビジネスプランとか。これからのことをすらすら説明できるのっておかしいと思う。そして、ヘイトスピーチがそうですが、自己への懐疑がなく、当たったら相手が絶対ケガをするとわかっているのに、つぶてのような言葉を投げるタイプ。増えてきた感じがする。
高橋 多いですよね。でもそういう言葉に人間は弱い。昔競馬場の近くに怪しい予想屋がいっぱいいて、「絶対当たる必勝法」を売っていました。その人たちのトークを聞いていると、だんだん、もしかしたら当たるのかも、いや絶対当たる、と思えてくる(笑)。人間は本当に言葉に弱い。難民や弱者をののしる言葉にしても、常識や良識で考えればありえないと思うけれど、意外と人間は弱い、もろい生き物だと思う。
鷲田 言葉に情を揺さぶられて、というところもある。たとえば歌は人々をすごく団結させる。映画「サウンド・オブ・ミュージック」の最後で、亡命する家族が最後に同胞と「エーデルワイス」を歌いますね。圧政者への抵抗の歌として歌うけど、同時に軍歌のように、まさに人を攻撃したり排除したりする時にも歌声をそろえる。音楽は、虐げられた人を団結させるものであると同時に、暴虐の武器である。
高橋 僕たちの知的な部分は、通俗的な感情と切り離されてるわけじゃないんですよね。同じ一人の人間の中、その根っこでくっついているのは認めざるを得ない。だからいつも注意して、言葉と世界と向かい合っていないと。今、非知性的なことはまずいよ、と言っているけど、それは我々と無関係ではなくて、僕たちの中にも、いつ転ぶかわからないものがあると思うんですよね。論壇時評を5年近くやってきてたくさん言葉を集めていて、一番いいなと思ったのは、美智子皇后の言葉。「読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ」(2013年10月31日の論壇時評で紹介)。あれを言うのが皇室っていうのが、なかなかいい国だなと(笑)。言葉を見つける作業っていうのは、今のような時代こそすごい必要だと思うんですよね。
鷲田 言葉の意味を理解することと、それに心底納得できるということのズレって常にあると思うんです。人と話したり激しい議論したりする時、理解できないことももちろんあるんですけど、理解できるけどどうしても納得できない時とか、理解したくないという時とか、理解できないけれども納得はできる時とかがある。納得ということは、本当に体に染みこんでくることなんですけど、それが常に正しいとは限らないところが、言葉の危ういところかなと。
高橋 言葉って、人の使い方によって、状況によって本当に変わってくるわけですよね。言葉自身には何の意味もない。僕たちが言葉を使うのは、ある意味単純だと思うんですが、理解したり伝えたりするということは全く別問題。こうしてリベラルな雰囲気を醸し出しておりますが、僕だって何か言われてムカッと来ることがあります。「わかりたくない」っていう抵抗があるじゃないですか。一番大切なのは、こういう言葉を聞くとかすかに抵抗がある、言う時に抵抗がある、っていう自分の中の抵抗感です。それが言葉との付き合い方かなと。
鷲田 言葉を読む前と読んだ後に自分がずれてしまっている、ワープしているというか、少し変わったという経験が起こらないと、本当にいい文章を読んだということにはならないんじゃないかな。納得できる、理解できる言葉ばかりでなく、理解できないところへと連れてってくれる言葉が大事だと思います。
高橋 わからないっていうのもとても大事。中2の冬、放課後のうどん屋で、突然友だちが吉本隆明さんの詩集を出して、朗読してくれたんです。僕は1行も理解できなかった。でも感動して泣きたくなった。意味はわからなかったけど、これはすごいと思って、いつかわかるといいなと目標になった。理解はできなくても、感じることはできる。そしてそれはとても大切なことだと思います。
鷲田 僕が哲学をやってみるかと思ったきっかけも同じです。キルケゴールの「死に至る病」の最初の3行なんです。「人間とは精神である。精神とは何であるか? 精神とは自己である。自己とは何であるか? 自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている……」。横にいたやつは、「関係関係っておまえ何かやらしいこと考えてるの」と言ったけど。さっぱりわからない。何もわからないけれど、僕の普段の思考回路と全然違うけれど、なんかうーんと先まで見ていて、ぐっと胸ぐらをつかまえられる感じがした。
高橋 そんな言葉にどこかで会えるといいですね。
◇会場との質疑応答
今17歳の高校2年生です。もうすぐ選挙権を持つので、暇な時に国会答弁を見ていると、何を言っているのかわからない、聞いていて頭が悪くなりそうな、理解もできないし納得もできない言葉があり、話す側も理解も納得もさせる気がなさそうな言葉があります。そういう時に言葉に嫌悪感を持ってしまいます。
高橋 言葉というのは膨大にあり、ほとんどは無意味なもの、馬鹿みたいなものばかりです。ネットを見ていると吐き気がしてくる。知性のフィルター通さないで、ダイレクトに、無意識から、あるいは欲望のまま出されている言葉は腐臭を放つ。たしかに悪い言葉ばかり聞けば病気になりますよ。結論としてはね、いい言葉と悪い言葉、両方聞けばいい。できたら、悪い言葉に耐えられるくらい強い人間になってね。腐臭を放つ言葉の中でみんなが生きているから、そこから離れるってことはできないと僕は思う。そこにいつつ、なおかつのまれないようにするしかないと思っているので。だから僕はけっこう聞きますよ。安倍ちゃん(晋三首相)の演説も聞くし、ヘイトスピーチも聞くし。ただ、それに巻き込まれると、我を失う恐れがあるなら、やめた方がいいかもしれない。そういう世界もある、そこで生きていくんだって言うためには、両足をふんばって聞く時も必要かな。
鷲田 現代社会は複雑性がどんどん増大し、経済にしても政治にしても、専門的な知識をある程度身につけないと理解不能じゃないですか。今いきなり国会の話を聞いていても、難しすぎたり無意味に感じたりする。でも一つ一つの問題は、グローバル経済の問題、最近のバスや食品の安全性の問題、何よりエネルギー源の問題にしても、我々の毎日の生活に深く関わっていて、考えないでは生きられない。今までは専門家に全部お任せしていたけれど、原発事故以降、われわれが徹底的に思い知らされたのは、専門家だって問題を解けないということなんです。われわれの社会なのに、われわれの力だけでは制御できないほどのコントロール不能な動きがある。科学哲学を専攻している友人はこのことを「科学技術は専門家に委(まか)せるには重大すぎる」と言いました。これは専門的な事柄だから専門家に任せて議論を聞くという姿勢をちょっとやめるというか、自分でコンテクストを編んでみるというトレーニングをするのがすごく大事じゃないかと思う。論壇時評って、ある種毎回練習問題を出してくれている気がするの。この問題だったら、僕はこんな風にコンテクストを作る、という例題を作ってくれる気がする。
高橋 これ大きな問題なので簡単には言えないんですけれど、去年の8月、安保法制の問題があった時に一番思い出したのは、半世紀前に政治学者の丸山真男が言った、「民主主義は市民のパートタイムの政治参加が必要」という名言です。本職は市民、でもパートタイムで政治参加して、また戻る。ギリシャの民主主義と一緒なんです。これは政治だけじゃなくて、人は会社員だけやっていればいい、ということないじゃないですか。子育てもやる、デモにもいく、近隣で問題があったらその訴訟にも参加する、という風に。子育てする時は主婦だし、デモいっている時は運動家だし、つまり僕らはいろんな側面が可能性として含まれていて、そのたびに違う言葉を使う。まさに言葉をたくさん持つということと、それぞれの場所で違う人間として現れるということは、同じことだと思うんです。今は分業でしょ。君は学生だから勉強だけしてろ、みたいな。学生は勉強だけしてろ?それが勉強か?となるわけです。人間にはいろんな能力があるはずなのに、これだけやってたらいいよと、この分野のこの言葉だけ知ってればいい、となっていったのが今。その分野で専門家であることは必要なんですが、それ以外のところにはパートタイム参加できるくらいにならないと、これからはきついかなと思います。
鷲田 それはラグビーで次から次へとボールを後ろに回すのに似ている。逆にいえばいつ自分が最前線に出るやもしれないということ。梅棹忠夫さんはその心構えを、「請われれば一差し舞える人物になれ」と表現していました。
文屋 善明さんの写真
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=958571604220301&set=a.200492220028247.51380.100002024109092&type=3&theater
37藤木 冨士子さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他35人
シェア1件
コメント
文屋 善明 新聞本紙の方はかなり短縮されている。これはデジタル版からのコピペです。
安永 玲子 読み終えました!朝からしっかりと読めましたが、また何度も読んでみたいとおもおいました。17歳の孫にも紹介します。ありがとうございました。
清水 行雄 さすが、鷲田先生と源一郎さんの対話です。
播 稔 人間とは精神である。 有名ですが。
霜山 雅也 高橋先生、ウチの教員です
文屋 善明
1月29日 11:46 ·
弁護士ドットコム
·
私もそれが当然だと思う。私的に雇った元検事の弁護士では真実は明らかにならない。そこに誤魔化しがある。
<甘利大臣辞任>元特捜部・郷原弁護士「検察が積極的に捜査すべき」「辞任は当然」
甘利明経済再生担当相は1月28日午後、週刊文春が報じた金銭授受疑惑について内閣府で記者会見を開き、閣僚を辞任することを表明した。甘利大臣は、秘書の1人が…
BENGO4.COM
https://www.bengo4.com/c_1009/c_22/c_21/n_4222/
24藤木 冨士子さん、伊藤 利行さん、他22人
コメント
植村 光郎 あきれた!後任の大臣を決めるまで、スッタ・モンダし、甘利大臣の謝罪を引き伸ばす。この神経!
文屋 善明
1月29日 13:44 ·
「昨日のツイート 01/27 海の中道公園に行ってきました。」をブログにアップしました。
…
BLOG.GOO.NE.JP
10藤木 冨士子さん、川染 三郎さん、他8人
コメント
播 稔 二番に勝っても、二番だからなー。
文屋 善明さんがgrapeさんの投稿をシェアしました。
1月29日 13:57 ·
何だ、何だ!
grape
1月29日 9:50 ·
ゴミに気づいても、誰も拾わない…そんななか、一人の女性がゴミを拾ったところ…。驚くべきことが!!
落ちていたペットボトルをゴミ箱に捨てた瞬間、驚くべきことが! « grape
『grape』は、今知ってほしい話題やニュースを厳選して紹介するメディアです。
GRAPEE.JP
http://grapee.jp/136133
11Richard Bakerさん、岡 輝美さん、他9人
コメント
中野 芳夫 カナダ版ドッキリカメラですかね・・・
糸原 由美子 みんな注目してそのペットボトルを見ていたということ?わからない・・・
文屋 善明
1月29日 14:50 ·
イミタチオ・クリスチ(19):
篤信な人は、やがて運び去らねばならぬものを、自分の心の中であらかじめ整理する。
註:岩波訳では「善良で信心深い人は、外においてなすべき自分の仕事を、まず内において整理する」となっている。
12藤木 冨士子さん、鈴木 ゴリ 宣仁さん、他10人