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顕現後第4主日の福音書の断想

2016-01-30 15:24:57 | 説教
顕現後第4主日の福音書の断想
故郷では歓迎されない  ルカ4:21~32

1. この記事に位置づけの問題
C年の顕現後第3主日と第4主日との関係は珍しい。こういうことは、ここだけじゃないかと思う。実は第3主日の最後の節と第4主日の最初の主日とが重なっている。先週はルカ福音書4章14節から21節までで、今週は同じ21節から32節までである。つまり今週は先週の続きということである。ということは、2週続けて礼拝に出席しないと、話半分ということになる。極端なことをいうと、月一回礼拝出席の信徒は中途半端な信仰しか育たない。もう先週話したことは繰り返さない。必要な方は、先週のブログを読んで貰いたい。

2. 郷里の人々の反応
ルカ福音書においてはイエスの宣教活動は故郷ナザレでの説教で始まった。その説教は要するに、イザヤ書の一節を読んで、イエスは「この聖書の言葉が、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」ということで、ともかくその説教を聞いて「皆はイエスをほめ、その口から出る言葉に驚いた」、という。そこまでが先週の説教である。ここまでが完結した一つの話である。ルカは先ずイエスの宣教活動はいいスタートを切ったということであろう。
ところが、ここから事態がまったく違う方向に展開する。その転換点が、「この人はヨセフの子ではないか」。この言葉はイエスに対する親しみの表現とも読める。「あのヨセフの子が、偉くなったもんだ」という「我が村自慢」の響きがする。
マルコ福音書によるとイエスの話を聞いた郷里の人たちは「『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた」(Mk.6:1~2)という。この郷里の人たちの率直な言葉をルカはほとんどすべて省略し、ただ一点「この人はヨセフの子ではないか」ということだけを問題にする。むしろイエスと郷里の人たちをこの1つの言葉で向かい合わせる。

3.イエスの生き方
ルカはイエスに対する郷里の人たちの気持ちを「この人はヨセフの子ではないか」という一言に絞って問題にする。と同時にイエス自身にとっても「この人はヨセフの子ではないか」という一言をどう受け止めているのかという、イエスの行為、姿勢、生き方の問題を問う。ルカは郷里の人たちの「この人はヨセフの子ではないか」という一言にイエスの生き方に対する批判じみた声を聞いている。イエスはヨセフの子であるのに、ヨセフの子としての当然なすべき義務、ナザレ村の人間としてなすべき務めを果たしていないのではないか。
このことはすべての人間がかかえている根本的な問題である。問題というよりも「枠組み」と言うべきか。すべての人間は単独では存在していない。何らかの形で生まれた瞬間から枠組みをもっている。様々な枠組みの中で最も根源的なものが「誰かの子」というあり方である。すべての人間は「誰かの子」として生まれ、生き、そして死ぬ。イエスの郷里の人々は暗黙の内に、イエスがこの枠組みの中で生きることを期待し、要求する。その期待に応えて枠組みの中で忠実に生きれば、それが善人である。他方、人間は常にこの枠組みを破り、枠組みの外で生きようとする欲求、あるいは「内的衝動」をもっている。その欲求にはもちろん個人差があり、非常に強い人間もおれば、それ程強く感じない人間もいるだろうが、すべての時代のキリスト者に共通する悩みであり、問題意識である。
キリスト者として生きるということは民族や文化の差異を超えて普遍的な神と関わって生きることである。その意味ではイエスの弟子として、キリスト者として生きるのは「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者」(Lk.18:29)であると言い、さらに「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」(Lk.21:16~17)と言われる。ルカは特にこのことに敏感である。「あなたはヨセフの子ではないか」という言葉にはこう意味が込められている。従って、これはイエスと郷里の人々との会話であるが同時に、すべてのキリスト者に共通する課題でもある。

4.イエスの反論
ところがその言葉を聞いてイエスは何を思ったのか、「医者よ、自分自身を治せ」という諺を引用して、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と言うにちがいない」と言った。これには何か非常に反抗的な響きがする。担任の病気を癒す医者なら、自分の病気を癒せ。よそでやっていることをここでもせよ。要するに、ここには自他の問題がひそんでいる。このイエスの言葉を聞いて郷里の人々は口をつぐんでしまい、その場の雰囲気はガラリと変わる。まさにこの点がイエスと郷里の人々との問題の核心である。それに追い打ちをかけるようにイエスは言う。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」。イエスのこのセリフはこの場に相応しくない。むしろ郷里の人たちは歓迎しているではないか。それをここに繋いだのはルカである。このイエスの言葉が郷里の人たちを憤慨させた。もともとこの出来事はマルコ福音書にある通りであろう。せいぜい、イエスはナザレではほとんど奇跡らしい奇跡を行わなかった(Mk.6:5)程度のことである。しかしルカはこの出来事をそんな悠長な物語で納めることはできない。変な話、郷里の人たちを憤慨させイエスを殺そうとしなければならないのである。
マルコ福音書では(マタイ福音書)も「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」という書かれているがこれをルカは「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と書き換えている。「敬われない」と「歓迎されない」とでは大きな違いがある。「敬われない」という言葉には、イエスと郷里の人々との親近感がある。しかし「歓迎されない」には存在そのものが「迷惑」であるという感情がある。ルカは、それだけでは済まないと思ったのか、預言者エリアの奇跡と預言者エリシアの事象を付加する。かくしてルカの狙い通り郷里の人たちは憤慨し、イエスを殺そうとする。

5. 預言者エリアと預言者エリシャ
エリアはは紀元前9世紀の中半頃の預言者で、旧約聖書の預言者の原型となった人物である。ルカが取り上げている事件は列王記上17:8~24に見られる。3年半雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、シドン地方のサレプタのやもめだけがエリアを歓迎し飢饉から守られた。預言者エリシャとはエリアの弟子で紀元前9世紀の後半に活躍した。ここで取り上げられている出来事は列王記下5章に記されている。
ここで注目すべき点は、サレプタのやもめにせよ、シリアのナアマンにせよ、ともに非ユダヤ人であったということである。従って、ここで預言者は故郷では歓迎されないというだけではなく、神の祝福の業はユダヤ人から非ユダヤ人へと移るということを意味している。これは実際にイエスがそう語ったというよりも非ユダヤ人としてのルカやルカの時代の多くのキリスト者の中に非ユダヤ人が含まれていたという時代性を反映しているものであろう。もちろん、このような実例をあげられてはユダヤ人(当然ナザレの人々もそこに含まれている)が憤慨するのも当然であろう。

6.まとめ
これがルカがこの出来事をイエスの公的活動の最初に置いた理由であろう。つまりパターン化してまとめるならば、イエスの宣教活動は郷里から始まる。そしてそれは一定の成功を収め驚きを与える。しかし、何時の日かそれは裏返しになり、郷里の人々からで理解されず殺されそうになる。実質的には殺したも同然である。イエスの最期は同胞ユダヤ人から理解されず十字架刑によって殺される。これはまさにこれはイエスの宣教から十字架に至る全生涯の先取りではないか。ナザレの事件とエルサレムでの事件とを対応させているのはルカである。この2つの事件の間にイエスの人生がある。

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