ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 5/2

2010-05-09 07:34:44 | ローズンゲン
5月02日(日)
おお主よ、耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今わたしは昼も夜も祈ります。(ネヘミヤ1:6)
キリストの言葉:彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のために。(ヨハネ17:9)
わたしの黙想
礼拝の際の代祷項目は難しい。管区や教区や教会で決められている代祷項目がどれほど意味があるのか。やはり、代祷は祈る個人、あるいは集団の見える範囲、関わる範囲に限定すべきではないだろうか。祈りと交わりとが形骸化しないためにも。
レスポンス:全く同感です。週報作成のときにいつも感じていたのですが、このような声を代祷管理部門に響かせるにはどうしたらよいのでしょうか。
ドイツの教会暦では今日は復活後第4主日で主題は「うたえ」。そして今週の聖句は「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。」(詩編98:1)

5月03日(月)
お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。(エレミヤ7:3)
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。(1ヨハネ4:19)
わたしの黙想
旧約聖書の聖句に対して新約聖書の聖句がお返しをしている。面白い。神の愛と人間の忠誠心と、どちらが先か。当然、神の愛であろう。「新約の預言者エレミヤ」らしくない言葉。
282年前(1728年)の5月3日は最初のローズング(合い言葉)が発表された。

5月04日(火)
わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。(エレミヤ23:29)
イエスの言葉:わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。(ルカ12:49)
わたしの黙想
今日の聖句に続く言葉が凄い。「見よ、わたしは仲間どうしでわたしの言葉を盗み合う預言者たちに立ち向かう、と主は言われる」。ここで言う「言葉を盗み合う」とは盗作ではない。直前の言葉も凄い。「籾殻と穀物とが比べられるか」。神の言葉を空洞化してしまうことに対する警告。

5月05日(水)
主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。(エレミヤ17:14)
イエスの言葉:医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マルコ2:17)
わたしの黙想
今日の聖句、絶対他力、絶対依存。確かにその通りであろうが、あまり好きになれない言葉である。多少は「自己責任」や「自助努力」が認められてもいいだろう。病人でも医者にかかる前に、自分で癒すための努力や工夫がある。それでも、どうしても駄目なときに医者に行く。

5月06日(木)
わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように、あなたの慈しみとまことによって。(詩編115:1)
自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。(ヨハネ7:18)
わたしの黙想
社員が社長にこういうことを願い出たら完全にゴマすり。また、社長の栄光は社員の努力によるのではなく「あなた自身の慈しみと誠によって」というなら、「勝手にせい」という無責任な表現。わたしの生活が豊かになればなるほど、あなたの御名の栄光は輝く、と祈るべき。

5月07日(金)
主よ、あなたの慈しみが,とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。(詩編138:8)
わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。(エフェソ2:10)
わたしの黙想
「神はいつまでも神のままでいて下さい」と同じ意味。わたしもいつも人間のままでいます、という決意。人間が「神の立場」に立ったとき碌なことはない。聖職者は直ぐに「神の立場」に立ちたがる。自分自身に対する反省。

5月08日(土)
我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ。主は聖なる方。(詩編99:5)
イエスは癒された盲人に言われた。「あなたは人の子を信じるか。あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた。(ヨハネ9:35,37-38)
わたしの黙想
「ひれ伏す」という姿勢はあまり好きになれない。その点では「跪く」は神と人間との関係を示すのにバランスが取れている。「頭を下げる」、「項垂れる」。人間同士なら「お辞儀か」「握手」であろうが、礼拝の中で「主の平和」の握手は日本人として変だ。嘘っぽい。
もう一言。聖餐式の中で「主の平和」といいながら握手する「習慣」は、どうしても好きになれない。それよりも重要なことは、その時「気(霊)」が抜けるような気がする。欧米人にはそ感覚がないのだろうか。これを日本の聖餐式に導入した人たちの礼拝感覚を疑う。




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