今週のローズンゲン 2016/02/14~02/20
2016 日々の聖句 02月14日(日)
主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。(Ps.27:1)
わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(Phi.4:13)
私の黙想:
「わたしの命の砦」、「私の砦」ならわかる。「命の砦」とわざわざ「命」という言葉を挿入した意味は難出あろう。その前に「わたしの光」「わたしの救い」という言葉があり、それと並べられている。この場合の「命」とはなんだろう。
詩27は前半(1~6)と後半(7~14)とで元々別の詩で、前半は平和時の信頼を歌ったであるといわれている(フランシスコ会訳の註)。平和に考える場合の「命」と緊急時の時の「命」とでは意味がかなり異なるであろう。緊急時では文字通り死ぬか生きるかの瀬戸際であるが、平和時ではもう少し余裕がある。
平和時の「命」は「ライフ」(人生、生活)、とくに人生における最終的根拠、保証、「死に水をとってくれる者」というニュアンスを感じる。「光」「救い」「命の砦」これらを貫く、一つのパワーをそこに感じる。最後は主が何とかしてくださるから、安心して思う通りにしてご覧、と主から言われているように思う。
2016 日々の聖句 02月15日(月)
わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。(Job.2:10)
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(1Cor.10:13)
私の黙想:
私たちは「ヨブの最後」を知っているから、この言葉をすごい信仰だと思う。でも、ヨブ物語の初めにこれがでてきたら、やはり『変な信仰」だと思う。この言葉はヨブのすべてが取り上げられ、おまけに全身耐えがたい痒みの中でもがいているときに、彼の妻が「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」といった言葉に対するヨブの答えである。現代的に言うなら、「安楽死」の問題であろう。屁理屈を言うなら、「神を呪って」を「神を賛美しながら」に言い換えて、死ぬ方がましだということになるだろうか。老老介護に疲れ果て、二人で納得して、「ここまで幸せに夫婦関係を続けてこれたのだから、最期も一緒に」ということもあり得るのではないだろうか。と、今日の聖句を読みながら、馬鹿なことを考える。
2016 日々の聖句 02月16日(火)
わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。(Isa.55:3)
また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。と言われました。(1Cor.11:25)
私の黙想:
長い間キリスト者していて、今さら思うのも変だが、「契約」という概念、あるいはその関係って面白い。親子関係や兄弟関係の間には契約はない。全く無関係の者の間になされるのが「契約」である。つまり契約とは「他者性の関係」である。他者との間に結ばれる信頼関係。その典型的モデルが「結婚」、結婚という契約によって成立している夫婦関係。親子関係・兄弟関係は「切っても切れない」。しかし夫婦関係は「切ったら切れる」。だから、そこに「切らない」という意志が相互の間に働いている。
今日の聖句、「わたし」と「あなた」との契約関係。実はこの契約関係は改めて結ぶという面とダビデとの契約の延長、あるいは再契約という面がある。「わたし」の本来の契約の相手は「ダビデ」であり、「あなた」はダビデの子孫であるということに基づく契約だという。ダビデと「あなた」との間には「血」によって結ばれている。いわば「切っても切れない」関係であるが、「わたし」と「あなた」との間には「血」はない。「血」はないのに「血」が媒介となっている契約である。契約という関係に「血」が媒介となるのは面白い。「バンド」は「血判書」によってその人の人生を制約する。
2016 日々の聖句 02月17日(水)
恵み深い主よ、彼らをお赦しください。彼らは聖所の清めの規定には従いませんでしたが、神、先祖の神、主を求めようと決意しているのです。(2Chr.30:18~19)
ザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとした。(Lk.19:2~3)
私の黙想:
要するに、今日の聖句は「正しいマナーを知らない」人々が、汚れたままで「過越のいけにえを食べた」のを見て、ヒゼキア王が神に対する執り成しの祈りである。やっていることは「失礼」だが、その気持ちは純粋なのでお許しください。人間は神に対しては「失礼」ばかりである。いや、人間は神に足して「へま」ばかりしている。聖餐式にしても、いろいろな仕方があって、どれが正しいのか分からないのが人間である。
イエスを見ようとして木に登り上から目線でイエスを眺めたザアカイのようなものである。イエスはそんなザアカイを下から見上げて、「今晩あなたの家に泊まりたい」と述べられた。この言葉をかけられたとき、ザアカイはまだ木の上に居た。イエスはそんなザアカイの「失礼」を咎めることなく、むしろ「頼んでいる」。福音書の中でイエスから何かを頼まれたのはザアカイだけである。
私たちの聖餐式はとんでもないマナー違反ばかりしているのかも知れない。すべての人間が、清くないままイエスの肉と血を頂いているのである。でも、神はそんなことを問題になさらない。
2016 日々の聖句 02月18日(木)
国々に主の栄光を語り伝えよ、諸国の民にその驚くべき御業を。(Ps.96:3)
パウロとバルナバは、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。(Act.14:27)
私の黙想:
「主の栄光を語り伝えよ」と言って普通の日本人に伝わるのだろうか。「栄光」という言葉は難しい。名詞としては未完成な感じがする。日本語なら「威光」あるいは「御稜威」であろう。神が神であると言うだけで輝いている状態を言うのであろう。あるいは神が神としてこの世に現れること、現れた神、その神には当然「威厳」がある。まさか、神が人間の姿をとって、しかも下僕の姿をもって現れるとは思いもしないこと。キリスト教はその「思いもしないこと」を、国々に、語り伝える。
2016 日々の聖句 02月19日(金)
神は、みなしごの父となり、やもめの訴えを取り上げてくださる。神は孤独な人に身を寄せる家を与え、捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。(Ps.68:6~7)
イエス・キリストの言葉:はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(Mt.25:40)
私の黙想:
今日の聖句を単独で読むと、福祉が行き届き、公正が保たれている理想的な社会を思わせる。ところが詩68全体を読むと、どうも他民族との戦争に勝利して、ぶんどり物で潤っている戦勝国の喜びのようだ。
さぁ、どうしよう。フランシスコ会訳では注釈の冒頭に「本詩は絵物語のように美しいが、全詩編のうちでいちばん意味不明であるといわれている」と書いている。それほど難しい詩だとは思わないが、説教などで取り上げるとなると、どこに焦点を置くかが問題であろう。と言うことで、今日の聖句の部分だけを単独で取り上げることとする。とくに注目する句は「神は孤独な人に身を寄せる家を与え」という部分で、ホームレスの問題を考える。私の友人が北九州でホームレス支援に力を入れている牧師がいる。一人の人間がホームレスになる理由はいろいろあるであろう。まず取り敢えず、温かい食事と寝る場所を提供し、一人ひとりの問題に耳を傾け、自立支援のために行政とも協力して手助けをしている。大変な仕事である。しかし、これは教会として大切な事業である。嬉しいことは、このことのために、彼の家族も、彼が牧会してい教会も、そして近隣の諸教会も教派を超えてその運動を支援していることである。今日の聖句を読みながら、その運動のことを思う。
2016 日々の聖句 02月20日(土)
うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。(Josh.1:9)
神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。(2Tim.1:7)
私の黙想:
「うろたえる」という状況とはどういう状態なのだろう。口語訳、新改訳では「恐れてはならない。おののいてはならない」、フランシスコ会訳では「恐れてはならない。気落ちしてはならない」、文語訳は難しい漢字を使って「懼(おそ)るるなかれ、戦慄(をのの)くなかれ」。「うろたえる」を漢字で書くと「狼狽する」で、「ウロウロ歩き回る」という意味らしい。「おののく」の方は恐ろしさで震えるという意味らしい。なぜ、私はこんなことにこだわっているのだろうか。最近「うろたえる」経験をしたからである。普通に正常に働いていたパソコンが突然、暗証番号を要求してきたり、動かなくなったときに、ほんとうに「うろたえた」。パソコンのシステムはよく分からず、何でもかんでも孫息子に頼り切っていたのが、こんな時に孫息子は就職して東京に行ってしまった。しかも、かなりハードな仕事らしく、しばしば徹夜で仕事をしているらしい。そうなると、すぐ来て貰うこともできないし、電話もできない。それで、うろたえてしまった。今も私のパソコンは正常ではない。少し落ち着いて、何とかなると言うところまできたが、頼り切るということは、こういうことである。ヨシュアは今までモーセの指導の下に実力を発揮していたが、そのモーセも逝ってしまった。何かあったらうろたえることであろう。そこで主は言われる。「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」。主がおられたら、うろたえない。
2016 日々の聖句 02月14日(日)
主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。(Ps.27:1)
わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(Phi.4:13)
私の黙想:
「わたしの命の砦」、「私の砦」ならわかる。「命の砦」とわざわざ「命」という言葉を挿入した意味は難出あろう。その前に「わたしの光」「わたしの救い」という言葉があり、それと並べられている。この場合の「命」とはなんだろう。
詩27は前半(1~6)と後半(7~14)とで元々別の詩で、前半は平和時の信頼を歌ったであるといわれている(フランシスコ会訳の註)。平和に考える場合の「命」と緊急時の時の「命」とでは意味がかなり異なるであろう。緊急時では文字通り死ぬか生きるかの瀬戸際であるが、平和時ではもう少し余裕がある。
平和時の「命」は「ライフ」(人生、生活)、とくに人生における最終的根拠、保証、「死に水をとってくれる者」というニュアンスを感じる。「光」「救い」「命の砦」これらを貫く、一つのパワーをそこに感じる。最後は主が何とかしてくださるから、安心して思う通りにしてご覧、と主から言われているように思う。
2016 日々の聖句 02月15日(月)
わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。(Job.2:10)
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(1Cor.10:13)
私の黙想:
私たちは「ヨブの最後」を知っているから、この言葉をすごい信仰だと思う。でも、ヨブ物語の初めにこれがでてきたら、やはり『変な信仰」だと思う。この言葉はヨブのすべてが取り上げられ、おまけに全身耐えがたい痒みの中でもがいているときに、彼の妻が「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」といった言葉に対するヨブの答えである。現代的に言うなら、「安楽死」の問題であろう。屁理屈を言うなら、「神を呪って」を「神を賛美しながら」に言い換えて、死ぬ方がましだということになるだろうか。老老介護に疲れ果て、二人で納得して、「ここまで幸せに夫婦関係を続けてこれたのだから、最期も一緒に」ということもあり得るのではないだろうか。と、今日の聖句を読みながら、馬鹿なことを考える。
2016 日々の聖句 02月16日(火)
わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。(Isa.55:3)
また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。と言われました。(1Cor.11:25)
私の黙想:
長い間キリスト者していて、今さら思うのも変だが、「契約」という概念、あるいはその関係って面白い。親子関係や兄弟関係の間には契約はない。全く無関係の者の間になされるのが「契約」である。つまり契約とは「他者性の関係」である。他者との間に結ばれる信頼関係。その典型的モデルが「結婚」、結婚という契約によって成立している夫婦関係。親子関係・兄弟関係は「切っても切れない」。しかし夫婦関係は「切ったら切れる」。だから、そこに「切らない」という意志が相互の間に働いている。
今日の聖句、「わたし」と「あなた」との契約関係。実はこの契約関係は改めて結ぶという面とダビデとの契約の延長、あるいは再契約という面がある。「わたし」の本来の契約の相手は「ダビデ」であり、「あなた」はダビデの子孫であるということに基づく契約だという。ダビデと「あなた」との間には「血」によって結ばれている。いわば「切っても切れない」関係であるが、「わたし」と「あなた」との間には「血」はない。「血」はないのに「血」が媒介となっている契約である。契約という関係に「血」が媒介となるのは面白い。「バンド」は「血判書」によってその人の人生を制約する。
2016 日々の聖句 02月17日(水)
恵み深い主よ、彼らをお赦しください。彼らは聖所の清めの規定には従いませんでしたが、神、先祖の神、主を求めようと決意しているのです。(2Chr.30:18~19)
ザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとした。(Lk.19:2~3)
私の黙想:
要するに、今日の聖句は「正しいマナーを知らない」人々が、汚れたままで「過越のいけにえを食べた」のを見て、ヒゼキア王が神に対する執り成しの祈りである。やっていることは「失礼」だが、その気持ちは純粋なのでお許しください。人間は神に対しては「失礼」ばかりである。いや、人間は神に足して「へま」ばかりしている。聖餐式にしても、いろいろな仕方があって、どれが正しいのか分からないのが人間である。
イエスを見ようとして木に登り上から目線でイエスを眺めたザアカイのようなものである。イエスはそんなザアカイを下から見上げて、「今晩あなたの家に泊まりたい」と述べられた。この言葉をかけられたとき、ザアカイはまだ木の上に居た。イエスはそんなザアカイの「失礼」を咎めることなく、むしろ「頼んでいる」。福音書の中でイエスから何かを頼まれたのはザアカイだけである。
私たちの聖餐式はとんでもないマナー違反ばかりしているのかも知れない。すべての人間が、清くないままイエスの肉と血を頂いているのである。でも、神はそんなことを問題になさらない。
2016 日々の聖句 02月18日(木)
国々に主の栄光を語り伝えよ、諸国の民にその驚くべき御業を。(Ps.96:3)
パウロとバルナバは、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。(Act.14:27)
私の黙想:
「主の栄光を語り伝えよ」と言って普通の日本人に伝わるのだろうか。「栄光」という言葉は難しい。名詞としては未完成な感じがする。日本語なら「威光」あるいは「御稜威」であろう。神が神であると言うだけで輝いている状態を言うのであろう。あるいは神が神としてこの世に現れること、現れた神、その神には当然「威厳」がある。まさか、神が人間の姿をとって、しかも下僕の姿をもって現れるとは思いもしないこと。キリスト教はその「思いもしないこと」を、国々に、語り伝える。
2016 日々の聖句 02月19日(金)
神は、みなしごの父となり、やもめの訴えを取り上げてくださる。神は孤独な人に身を寄せる家を与え、捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。(Ps.68:6~7)
イエス・キリストの言葉:はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(Mt.25:40)
私の黙想:
今日の聖句を単独で読むと、福祉が行き届き、公正が保たれている理想的な社会を思わせる。ところが詩68全体を読むと、どうも他民族との戦争に勝利して、ぶんどり物で潤っている戦勝国の喜びのようだ。
さぁ、どうしよう。フランシスコ会訳では注釈の冒頭に「本詩は絵物語のように美しいが、全詩編のうちでいちばん意味不明であるといわれている」と書いている。それほど難しい詩だとは思わないが、説教などで取り上げるとなると、どこに焦点を置くかが問題であろう。と言うことで、今日の聖句の部分だけを単独で取り上げることとする。とくに注目する句は「神は孤独な人に身を寄せる家を与え」という部分で、ホームレスの問題を考える。私の友人が北九州でホームレス支援に力を入れている牧師がいる。一人の人間がホームレスになる理由はいろいろあるであろう。まず取り敢えず、温かい食事と寝る場所を提供し、一人ひとりの問題に耳を傾け、自立支援のために行政とも協力して手助けをしている。大変な仕事である。しかし、これは教会として大切な事業である。嬉しいことは、このことのために、彼の家族も、彼が牧会してい教会も、そして近隣の諸教会も教派を超えてその運動を支援していることである。今日の聖句を読みながら、その運動のことを思う。
2016 日々の聖句 02月20日(土)
うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。(Josh.1:9)
神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。(2Tim.1:7)
私の黙想:
「うろたえる」という状況とはどういう状態なのだろう。口語訳、新改訳では「恐れてはならない。おののいてはならない」、フランシスコ会訳では「恐れてはならない。気落ちしてはならない」、文語訳は難しい漢字を使って「懼(おそ)るるなかれ、戦慄(をのの)くなかれ」。「うろたえる」を漢字で書くと「狼狽する」で、「ウロウロ歩き回る」という意味らしい。「おののく」の方は恐ろしさで震えるという意味らしい。なぜ、私はこんなことにこだわっているのだろうか。最近「うろたえる」経験をしたからである。普通に正常に働いていたパソコンが突然、暗証番号を要求してきたり、動かなくなったときに、ほんとうに「うろたえた」。パソコンのシステムはよく分からず、何でもかんでも孫息子に頼り切っていたのが、こんな時に孫息子は就職して東京に行ってしまった。しかも、かなりハードな仕事らしく、しばしば徹夜で仕事をしているらしい。そうなると、すぐ来て貰うこともできないし、電話もできない。それで、うろたえてしまった。今も私のパソコンは正常ではない。少し落ち着いて、何とかなると言うところまできたが、頼り切るということは、こういうことである。ヨシュアは今までモーセの指導の下に実力を発揮していたが、そのモーセも逝ってしまった。何かあったらうろたえることであろう。そこで主は言われる。「あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」。主がおられたら、うろたえない。