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「み名が聖とされますように」

2011-03-03 15:08:04 | 小論
み名が聖とされますように
1  み名が聖とされますように
聖公会の信徒たちは主の祈りの始めの部分を「み名が聖とされますように」と唱えるが、プロテスタント諸教会では「み名を崇めさせ給え」と唱える。それは単純に翻訳文の違いではある。この文章の出典であるマタイ福音書6:9では「御名が崇められますように」と訳されており、その意味ではプロテスタント諸教会の訳の方に分があるように思われる。しかし原文では「聖い(ハギオス)」という形容詞をそのまま動詞化して、さらにそれを受身形で表現しているのであるから「み名が聖められますように」(田川建三訳)という意味であり、その意味ではカトリック・聖公会の訳の方が原文に近い。
それではみ名が聖とされるとは一体どういう意味なのか。この場合、聖とはただ単に清いとか美しいとかいうことではない。むしろ聖とは神そのものの特性というか、神が神であることが聖ということで、神の名を聖とするということは言葉の循環である。その意味では、「み名が聖とされますように」という祈りの言葉の裏側に、人間が人間であることを願う祈りが含蓄されている、と私は解釈している。神が神であるように、人間が人間であるように、という願いである。この際、ついでに触れておくと、ここで「み名」という言葉は神そのものを指すのはあまりにも勿体ないことなので挿入された一種の間接的表現である。

2  聖書の神の聖性について
聖書における神の聖性についての基本的なテキストは、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト20:7、申命記5:11)という言葉である。この戒律が徹底し、イスラエルの民は神の名前さえ忘れ去られるほどであった。ここで注目すべきことは、この禁止命令には罰則が付いていることである。「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」。このことは神が聖であるということの内容を示している。つまり人間は神の領域に「みだりに」立ち入ってはならないという命令である。神が聖であるという意味は、神と人間とは隔絶した関係にあるということに他ならない。
ヘブライ語の「聖(カドッシュ)」という単語の意味は徹底的な分離を意味する。つまり神は聖であるという意味は神の他者性を意味している。イザヤ書において、イザヤという青年が神に選ばれて預言者になるという決意をした場面で、厳かな幻を見せられる。天において天使セラフィム(ケルビム)が神の周りを飛び交いながら、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と歌う場面がある(イザヤ6:2-3)。このテキストについて、カレン・アームストロングは、旧約聖書における神の特徴は「聖なる方」ということであり、その聖性とはつまり他者性を意味すると論じ、イザヤのこの部分を「他者なり、他者なり、他者なり」と訳しているのは興味深い(K.Armstrong『神の歴史――ユダヤ・キリスト・イスラーム教全史』65頁)。

3  「崇める」と「聖とする」との違い
さて、そこで日本語における「崇める」という言葉の意味を検討すべきであろう。「崇」という漢字の中心的な意味について、広辞苑では次のように述べている。崇とは山が高く大きいこと、けだかいことを意味し、その派生語として「崇高」と熟して「敬うこと、崇拝、尊崇」と説明している。用例としては「先祖を崇敬する」など。さらに、「崇高」については「普通の程度を遥かに超えて驚異、畏敬、偉大、悲壮などの感を与える様。崇高な精神とか崇高美など」となる。「崇信」という言葉もあるが「崇め信ずること」。「崇拝」は「あがめうやまうこと」。宗教用語としては、宗教的対象を崇敬し、これに帰依する心的態度とその外的表現との総称」などと述べられている。つまりここには聖書の神の聖性を意味する「隔絶さ」とか「絶対他者」というような含蓄はない。
童話作家、五味太郎氏は、日本人が神々を崇める心性の根底に「神々に対するヨイショという感じ」があると言う。神々への「甘え」とでも言うべき感情であろうか。それに対して、宗教学者、山折哲雄氏は「崇める」という行動と「祟り信仰」との関係を次のように指摘している。「いずれかの神々の一つが祟ったために、地震が起こるとか、誰それ病気になるとか、死んでしまうとか、政治が混乱するとか、社会が乱れるとか。全部そういう何者かの祟りだっていう考え方が、昔からずーっと続いている。これは「祟り信仰」というもので、日本人の信仰の一番ベースに流れているものだと思います」と述べている(『砂漠と鼠とあんかけ蕎麦』アスペクト社、33頁)。その「祟り」を押さえるのが「鎮魂の儀礼」である。こういう原始的な宗教意識というものは大なり小なり日本人以外にもあり、私はイスラエル宗教「聖なる神」という信仰にもあったと思う。それが神のみ名をみだりに口にしてはならないという戒めであり、その戒めには罰則が伴っている意味であろう。神に「みだり」に近づくと罰が当たる。

3  イエスの神観
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神はイエスの神でもある。さらにキリスト教ではイエスをも神だという。これはユダヤ人にとっては「みだり」な行為に外ならない。イエスにとっても神は聖なる方である。神の名をみだりに唱えてはならない神である。その信仰が主の祈りの中の「御名が聖められますように」(マタイ6:9)という言葉に表されているのであろう。しかしイエスにはもう一つの神観があった。それが「父なる神」という信仰であり、この神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)愛の神である。神の本質は聖であると同時に愛でもある。そこにはもはや「祟る神」の姿はなく、罰を与える神もない。イエスにおいては、絶対他者としての聖なる神は同時に創造者として被造者に関わる愛の神でもある。これの二つがイエスの神観の最も基本的なものである。

4  キリスト教の神観
現実的に見てキリスト教の神は旧約聖書の神において強烈に主張されていた何かが失われている。キリスト教においては神の愛、赦しの神が強調されすぎて、聖なる神、罰する神というイメージが薄れている。神話的な言い方をすると、確かに「命の木に至る道」を守るためにおかれたケルビム(創世記3:24)は、イエスにおいて取り除かれた(ヘブライ10:19-22)た。その意味では私たちは大胆に神に近づくことが許されている。しかしそのことによって神の聖性が減じられた訳ではない。神は「祟る神」ではないし、「侮られる神」(ガラテヤ6:7)でもない。神は昔も今も「聖なる神」である。今、私たちに求められているものは神の聖性の再認識である。正しく神の聖性が認識されないとき、人間の自己理解(罪認識)も弱まる。
天におられる私たちの父よ、み名が聖とされますように。

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