ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 05/26~06/01

2013-06-03 08:40:20 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 05/26~06/01

日々の聖句2013 05月26日(日)
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザ40:30-31)
あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。(フィリ2:13)
私の黙想:
羨ましい。私は一寸歩くだけで疲れるし、走るなんていうことははじめから諦めている。歳を取れば、それ相応に身体は弱る。耳も遠くなるし、目も衰える。記憶力の低下は著しい。従って読んだことも、そのまま片っ端から忘れてしまう。
ただ一つ良いことは、記憶していることが少ないために、心に残ったことは重要なことだということであろう。当然、自分自身に感心のあることだけを非常に主観的に覚えている 。これが歳を取ってから獲得した「新たな力」である。せめて、このことぐらいをメリットとしておこう。

日々の聖句2013 05月27日(月)
わが民よ、心して私に聞け。教えは私のもとから出る。私の裁きをすべての人の光として輝かす。(イザ51:4)
パウロの手紙:私は預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外、何一つ述べていません。メシアが苦しみを受け、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。 (使徒26:22-23)
私の黙想:
フランシスコ会訳がわかりやすい。「まことに、教えはわたしから輝き出で、わたしはわたしの正しい法を諸国の民の光とする」。憲法論議が盛んである。これを発議した連中の意図や思惑が間違っている。せっかくの「正しい法」、世界に誇るべき憲法を歪めようとしている。日本人は全世界の諸国に対して「この憲法」こそ世界平和を実現する「光(模範)」だと語らなければならない。

日々の聖句2013 05月28日(火)
知らずに犯した過ち、隠れた罪からどうかわたしを清めてください。(詩19:13)
わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。(テトス3:4-5)
私の黙想:
詩人は「知らずに犯した罪」の結果を眼前に見ている。知らなかったのであるから、責任を問われることはないとは言え、結果の甚大さに恐れおののいている。言い訳をしようとしているのではない。神の掟に忠実に歩もうとして来た詩人にとってそれは大きな汚点である。それで詩人は神による「清め」、つまり神による清算を求めている。何とか、無かったことにしてもらえないか。そのことによって大きな被害を受けた人(びと)の被害を食い止めてもらいたい。原発事故の被害を思うとき、一部のお偉方(政治家や学者、電力会社の上層部)を除いて、それに従事していた多くの労働者や技術者は本当に「安全神話」を信じていたように思う。つまり、彼らにとっては「知らずに犯した罪」であるが、その結果の重大さに恐れおののいていることであろう。彼らこそ第1の被害者である。

日々の聖句2013 05月29日(水)
主は打ち砕かれた心に近くいます。(詩34:19)
イエスはマリアに言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」(ヨハネ20:15)
私の黙想:
「砕かれた心」、心も魂もバラバラになり、もはや主体性が失われた状態。今まで「心の支え」となっていたものを奪われ、「自棄になる気力も失われ夢遊病者のようになっている。生きているようで死んだような状態、まさに「死線」を彷徨う。誰かが側に付いていないと危ない。イエスが十字架刑により亡くなったときの弟子たちの心の状態。主はそういう状態の者に近づき「平安、汝にあれ」と語られる。

日々の聖句2013 05月30日(木)
彼らにわたしの掟を与え、わたしの裁きを示した。人がそれを行えば、それによって生きることができる。(エゼ20:11)
イエスの言葉:わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17)
私の黙想:
「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」という主の祈りの一節の実現を願う。この祈りを担う者として生きる。いや、そんなことはできない。「それを行えば」というが、それはわたしにとって荷が重すぎる。せいぜい、主の祈りの一節として唱えるだけに過ぎない。

日々の聖句2013 05月31日(金)
わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。(1代29:13)
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。 (コロサイ2:6)
私の黙想:
神殿建築の準備が整い、建築工事そのものを息子ソロモンに託すに際してのダビデの演説。そのときのダビデの喜びと無念さとが伝わってくる。人生の終わりとはそういうものではないか。事業、研究、宣教、いずれの分野においても、全て完結して人生を終えるということはあり得ない。事業が大きければ大きいほど、次の世代に託すべきものが大きい。そこには当然無念さが残る。しかし、ここで重要な点は自分自身がし残した課題を託すのは、息子ソロモンにではなく神である。全てを神にゆだねて人生を終える。

日々の聖句2013 06月01日(土)
天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ。地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続く。(イザヤ51:6)
預言者ヨハネの手紙:わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。(黙示録21:3)
私の黙想:
今日の聖句の切り出し方が不親切である。この句はこの節全体を読まないと意味不明。6節はこうなっている。「天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない」。イザヤ書のこの章全体が生々しい表現に満ちているが 、全体として神の民に対する神の愛情表現が満ちている。愛とは綺麗事ではない。「美しい愛」なんて、空想に過ぎない。

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