ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

季語「コレラ船」について思う

2014-08-13 15:28:22 | 旧満州の思い出
季語「コレラ船」について思う

今朝(2014年8月7日)の「天声人語」に「コレラ船」という季語があると書かれていました。「コレラ船」が夏の季語、成る程と思いました。
私も昭和21年8月の末頃から10月にかけて「コレラ船」に乗っていました。11歳の時のことです。母親と2人の弟たちの4人は旧満州を敗戦の年(昭和20年8月)にソ連軍が北満国境を越えて侵入したという秘密情報により生まれ故郷新京(現長春市)の自宅を棄てて北朝鮮の平壌に脱出し、そこで8月15日、玉音放送を聞きました。その直後にすべての日本人はソ連軍の指揮下で強制的に日本軍の旧兵舎に収容され、鉄条網に囲まれた生活が始まりました。収容所内では1年間に3分に2は餓死、病死、発狂等でなくなりました。その間、米ソ間でいろいろと駆け引きがあったようですが、その頃の私たちは外部からの情報が完全に閉ざされていましたので、分かりませんでした。
次の年の夏、このままでは次の冬は越せそうもないということで、密かに脱出計画が練られ、8月初旬に約30人の人たちと一緒に収容所を脱走しました。子どもたちは私たち兄弟3人だけだったと思います。それから約2週間、発見されるのを恐れて未知の山間地を「ともかく南へ」という掛け声で歩き続け、何とか38度線を突破することが出来ました。その頃には一行は10人足らずになっていました。
南に入ると米軍(国連軍かもしれない)の管理下で生き延び、釜山まで送られ、港で数日待った上、やっと引き揚げ船に乗ることができたのは8月の末頃でした。
船は一昼夜の航行で、深夜の対馬の島影を見たとき、やっと祖国に帰ってきたと同乗の日本人たちは大喜びをしました。朝方、長崎の佐世保港に到着、いよいよ上陸という段になって、突然、船内にコレラが発生しているということがわかり、それから40日間、佐世保港の沖で、米軍の廃船に近い引き揚げ船の中で過ごしました。「内地」(その頃私たちそう呼んでいました)を目前にしながら、真夏の太陽が鉄製の甲板を照りつける40日間、その間にも次々と命を落とす人も出てくるし、またコレラが発生すると上陸が延期されるということで、船の中は不思議な緊張と連帯感があり、私の生涯でも忘れられない40日間でした。

これをめぐるコメント集
O.T 文屋さん、そういう体験がおありだったのですね。お元気に生き延びられて何よりでした。その命は、失礼ですが「希有」ですね。あらためて、命を謳歌し、お元気でご活躍ください。

M.M よくぞ生きて上陸されました。

文屋 善明 この季節になると、いろいろなことを思い出します。

T.K 40、まさに、quarantineですね。

H.K 戦争は勝者によって歴史が作られて行く。このようなお話を聞くと、歴史というものの不確実さと人間が叫ぶ正義の不安定さを感じます。だからこそ、歴史を読む者の鋭敏な感性が必要なのですね。

M.M こんかい、記して下さったような話は、特に家庭や小さなサークルで語り伝えられてきたのでしょうと思います。こういう、人が一人ひとりどういう目に遭って、何を感じたかという伝承、歴史を大事にしないと、国が全体主義的な、変な方向に行くことと思います。

S.N 貴重な体験談をありがとうございます。いろいろと考えさせられました。

H.B シェアさせてくださいませ。っていうか、早くこの一連のことを本にしてくださいっつ!!!^^

M.T 文屋先生、私も範奈さんと同じ意見です!宜しくお願い致しますm(__)m

文屋 善明 無事、母親も3兄弟も帰国できました。しばらくして、父親も沖縄から復員し、5人家族が全員揃って日本での生活を始めることが出来ました。割合、明るく当時のことを書けるのも誰も欠けなかったことだからでしょう。ですから「残留孤児」の話が出てくると、心が痛みます。

M.N凄い体験ですね。 凄まじい状況の中をくぐり抜け家族5人全員が揃って生き延びたことは奇跡ですね。ここに、良き証人として使命。 神様の ご計画があったんでしょうね

K.S 小生一家、母と子供4人が佐世保に上陸、頭から足先まで、真っ白いDDTを浴びせられました。4歳の時でした。

文屋 善明 私は昨年、佐世保港にある引揚者記念会館に出かけ、引揚船の写真を見たり、そこから汽車に乗った南風駅を見てきました。あそこには「引揚げの第一歩」という記念碑も立っていました。私たちがDDTを浴びせられた宿舎は、今はハウステンボスになっています。

N.E 私の母が同じように佐世保で上陸を延ばされたと幼い頃から聞かされ育ちました。シェアさせて頂けますか?

S.N 知らなかった事を教えていただきました。意識力と与えられた健康・生命力に驚きです。「コレラ船」40日間、30人、三分の一。シェアさせてください。

文屋知明さん(実弟)が私の投稿をシェアしました。
長兄の記事です。戦後、避難民収容所から脱走したグループ中、子どもは、文屋家三兄弟、長兄(善明)、次兄(正道)、末弟(知明)でした。収容所では、ある人が「知ちゃん、まだ、生きているの、かわいそうね」と言ったそうです。生きているのが可哀想な状況を作り出すのが、戦争だ!二度と繰り返してはならない!

以下、知明の記事へのコメント

K.T こうした経験が、何とか若い世代に語り伝えられるようにと心から願います。被爆の語り部に対して「死に損ない」などというひどい言葉を投げつける若者がいることが本当に悲しいです。

S.T 大変でしたね。私は、朝鮮のソウルで生まれ、昭和20年1月でした。全て、母から聞かされた事ですが、10月に興安丸で引き揚げてきたそうそです。その前の船は、機雷に触れ、沈んだそうです。母の弟は満州から、24年に帰れたそうです。

I.Y 最後の40日間のことは初めてお聞きしました。ほんとうに大変な少年時代でしたね。

文屋 善明 これは今朝の天声人語の「コレラ船」という言葉が刺激になって思い出した「40日間」です。これは母にとっては紅海を渡った後にミリアムがタンバリンを叩いて歌ったという出来事(出エジプト記15章)と重なっていたようです。もう追われることも、身を隠すこともない40日間で一種の開放感の時であったようです。(このことも本邦初めての告白です)。

文屋 善明 叩けば出てくる「思い出話」。

文屋 善明 今、突然思い出したが、1年間の収容所生活での食事はお茶碗いっぱいの重湯のようなお粥、それも大人は一杯で子供は半分。それを我が家では4人で平等に分けあって、食前の祈りを捧げて食べました。そういう状況の中で時々、白米のご飯が十分に与えられる時がありました。それはスターリンの誕生日だとか、誰々のお恵みによってとか説明されて「ありがたく」頂きました。その時、大人たちは「これがソ連流の洗脳なんだ」とひそひそ話をしていました。民衆を操作するとはこういう風にされるのだと、10歳の私は学びました。

文屋 知明 長兄善明どの、このように断片的に思い出したことを書き留めておいてくだされ、大体の年月日を記載されたら、更に、よいと存じ候う!

文屋 善明 ブログ「ぶんやさんち」の方にはかなりまとめて書き留めています。(カテゴリー「旧満州の思い出」)年月日までは無理です。例えば、あなたが肥溜めに落ちた話などは日付は無理です。少なくとも「冬」ではなかったことは確かですが。

文屋 知明 ふむ~、肥溜めに落ちた者は、出世すると耳にしておったが、一向に実現しておりませぬ~!

文屋 善明 栄養不足の集団のトイレではねぇ。ダメでしょう。

M.T hahahaha~(^_-)-☆ 読んだのが食後で良かったです~(笑)

K.N 想像も及ばない体験をなされたんですね。繰り返してはならない過去の記憶を戦争体験者でない私たちが深く心に刻んでいく重要性に改めて気付かされました。年数の経過と共により深く深く…。

I.Y 私は戦後生まれですが、母の兄、姉2人、いとこ2人が長崎の原爆でなくなり、引き揚げてきたもう一人の母の姉も引き揚げの無理がたたってまもなく亡くなりました。母kらは小さいときから戦争はとにかくいけない、と聞かされてきました。だんだんそういうことを語る人がいなくなるのが、危険に向かわせる一つの要因になると思います。平和がつづくということがまた戦争へと人を駆り立てるようなことにならないようにしなければ。

H.H 生きてて良かった!!( ^∀^)

文屋範奈さん(姪、ゴスペルシンガー)が私の投稿をシェアしました。
文屋のおばあちゃんとおじさん2人、父は奇跡的に満州、そしてピョンヤンから引き揚げてこられました。おじいちゃんは宮古島の戦地から、これも奇跡的に帰還しました。おばあちゃんは、「家族無事に日本に帰れたら、息子を神様の御用にささげます」と祈っていたそうです。神様の恵みあって、祈りが聞き入れられました。おじさん2人とも司祭&牧師です。父は讃美歌の作詞作曲家です。で、私がいるわけで。命をつないでくださったおじいちゃん、おばあちゃん、神様、感謝です。

以下ハンナへのコメント
K.S 神様のはかりしれない恵みと憐れみにひれ伏すばかりです。素晴らしいお証を感謝します。

Hanna Bunya 沙織さん。この話ほんとにすごいんです。まだ描ききれてない話がたくさんあって、なんども命狙われ、死にそうになりながら。。。だそうですわ。はよ本にしてほしいとおじさまにはお願いしています。

K.S なんかすっごい考えさせられるんですわ~そういう体験をなさった方がこんな身近におられるってね、インマヌエルですよね…

Hanna Bunya 戦時を体験された方は、大なり小なり、いろいろあるでしょうね。。。命を落とされた(落とさせられた)方々をおもうと、本当に気の毒な気持ちです。

最新の画像もっと見る