ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

旧満州での思い出(9) 現地召集

2008-05-23 15:42:59 | 旧満州の思い出
昭和19年3月11日、親爺が「現地召集」ということで、出征した。当時、わたしは8歳で、国民学校1年の終わり頃であった。実はこの時のことは、ほとんど覚えていない。日付はもちろん、わたしの年齢にしても、その後に数えて確かめたことである。
ただ、不思議なことに「現地召集」という言葉だけは、意味はわからないまま、しっかり覚えている。おそらく、母親がその言葉をしょっちゅう使っていたからであろう。
かすかに、記憶の親爺が出征する前の晩、いろんな人が我が家に来て、何か宴会のようなことをしていたのを思い出す。我が家は禁酒禁煙の厳しい家風であったが、その時だけは、そんなことがあったような気がする。あるいは、まったく別なときの記憶がごちゃ混ぜになったのかも知れない。
その時の親爺の年齢は35歳。当時に、親爺は新京市の中心にあった児玉公園の園長をしていた。チョボ髭をはやし、沢山の満州人を使っていた。満州人たちは親爺のことを「ジャングイさん」と呼び、とても尊敬していたらしい。何しろ、親爺は決して人の悪口を言わないし、絶対暴力をふるわなかったからであろう。それは満州人に対しても同じであった。
親爺が出征してからも、沢山の満州人が我が家のことを気にかけてくれて、何かと世話をしてくれた。もし、何か満州人とのことで困ったことがあったら、いつでも助けてくれるという人が大勢いたように思う。わたしたちは、そのような彼らの言葉を本当に信じていたので、親爺がいなくなってからも、何の不安もなかった。それ程、個人と個人とのレベルでの信頼関係は強かった。
親爺の残した資料によると、親爺が所属したのは「ハルピン第30連隊」で、その年の7月に沖縄列島宮古島に送られ、終戦までそこに駐屯していた。宮古島では、ほとんど実戦らしい実戦は、なかったらしい。親爺は、結局実弾は一発も撃ったことがなかったという。あれがもし、沖縄本島ならばおそらく復員することはできなかったであろう。
親爺は銃の撃ち合いが嫌なので、率先して炊事係を志願していたらしい。その頃は、炊事係は、朝食の準備のため、朝早く起きなければならないので、隊員たちからは一番いやがられた部署であったらしく、宮古島にいる間中、炊事係をしていたとのことである。親爺は、かまどの火を燃やしながら、誰からも妨げられずに朝の祈りの時を持てたという。確かに、あの時、親爺の信仰は深められたのだと思う。

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