ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

読書記録:座談会『世界史的立場と日本』(中央公論社)

2017-08-20 14:01:36 | 雑文
読書記録:座談会『世界史的立場と日本』(中央公論社)

高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高による座談会の記録『世界史的立場と日本」(中央公論社)(3回分を1つにまとめました)

この4人で行われた3回の座談会が、太平洋戦争のスローガンとなった「大東亜共栄圏」の思想的バックボーンであった。第1回の座談会は昭和16年11月26日の夜に行われた。この13日後、12月8日、「大東亜戦争の大紹渙發」、つまり宣戦布告がなされた。この座談会は中央公論誌の昭和17年1月号に「世界史的立場と日本」というタイトルで発表された。これが大変な評判となった。
勢いのある初戦の状況のなか、同年3月4日に「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」という主題で、同じメンバーによって開催され中央公論の4月の発表された。
その後、少し間をおいて戦局は芳しくない状況において昭和17年11月24日、「総力戦の哲学」というタイトルで行われ、昭和18年1月号の発表された。当初、これが一冊の本として出版される予定はなかったが、世論の強い要望によって纏められたのが、この本である。初版は昭和18年3月25日である。この4人が西田幾多郎、田邊元に始まる京都学派の第2世代である。

第1回座談会 「世界史的立場と日本」 昭和16年11月26日

座談会は次のような発言で始まった。(以下、現代仮名遣いに改めている)
<註:これはあくまでの私の個人的なメモなので、全体を網羅していません。>

高坂正顕
先日、ある人に日本の歴史哲学とは一体どんなものかと訊ねられ、ちょっと返事に困ったのだが、考へてみると大体三つくらいの段階を経てきたように思われた。一番初めはリッケルト張りの歴史の認識論が盛んであった時代で、今ではもう一昔前のことになってしまった。その次がディルタイ流の生の哲学とか解釈学とかいったものから歴史哲学を考ヘようとした時代で、それが大体第二の段階と言ってよい。ところが今ではそれから更に一歩先に進んで、歴史哲学というものは具体的には世界歴史の哲学でなければならない、そういう自覚に到達している、それが第三の段階だと思う。では何故そうなったか。それは日本の世界歴史に於ける現在の位置がさうさせたのだと僕は考ヘる。その際、無論ヘーゲルやランケとかいう人の思想から多くを教えられた、けれども結局日本はどうなるか、今、できつつある新しい世界に対して、日本はどういう意味を持たせられているか、どういう意味を実現しなければならないか、即ち世界歴史の上における日本の使命は何かという点になると、西洋のどのやような思想家からも、無論教へられるわけにはいかない。そのためには日本人が日本人の頭で考えなければならない。それが現在日本で、世界史の哲学が特に要求されてゐる所以だと思う。(4頁)

世界史の哲学と世界史学

鈴木:さうだと思うが、世界史の哲学というものと世界史学とはどこか違ったところが・・・・
高坂:ありますね、それが問題だ。
鈴木:世界史学というものは事実、確かに要求されている。世界史の哲学が要求せられているのとは別個に、歴史学そのものの内部から要求されているところがあると思う。例えば太平洋問題というものは、現在に於ては世界の政治の中心問題だが、ところでなぜそれが重要かというと、ただ時局的に緊迫した、時局的な重要さだけではなくて、非常に歴史性をもっている。そこにあると思う。ところがそういうところを本当に掴むのに従来の西洋史学にはちっとも用意がない、それは知識の多い少いという問題でない、立揚の問題だと思ふう。西洋史学の従来の立場ではどこか十分に掴めないところがある、しかし国史学も東洋史学もやはりそうなんで、そういふ点で世界史学の立揚というものがやはり要求されないと、このやうな問題は本当に掴めないのではないか、そういうことを痛感します。(10頁)

ヨーロッパ人の危機意識と日本人の世界史意識

西谷:ヨーロッパ人にとってはアジアの問題というものは、自分の身に迫ってくる痛切な問題ではなかった。我々にとってヨーロッパの問題が痛切であったというやうな意味でね。そこに違いがある。ヨーロッパにはアジアも自分のアクティヴィティ(活動)にとっての素材という風にしか観られていなかったのに、我々にとってはヨーロッパの能動性に対して能動的に対処することが問題だった。それはつまり「私」と「汝」という関係で、それに比べるとヨーロッパは「私」一方の立場だと言える。だからヨーロッパでは危機意識で、日本では世界新秩序ということになる。(12頁)

歴史主義の問題

高山:結局、歴史的のものと超歴史的のものとを別々の世界に考へない。だから明瞭に対立させたり対決させたりすることもない。だからまた歴史を価値相対性の意識で深めていくということも少い。いつでも超歴史的なもの、永遠とか不死とかいうものを歴史的なものに即してのみ考ヘる。だから歴史主義の危機というような意味の歴史意識は一般に東亜文化になかったのではないかな。
西谷:歴史主義というものが日本にしっかり入らないうちに今のような情勢になったということが、果して日本のためによかったかどうか疑問だね。歴史主義の克服ということも、歴史主義を通しての歴史主義の克服だといいと思うのだが。
高山:それは良い議論だね。今日は実に非歴史的な物の考え方が横行しているが、これはいけないんで、もっともっと歴史意識を徹底していく必要があると思うね。例えばリベラリズムは国体に合はないとか、個人主義は日本精紳と反するとかいうことがよく言はれる。こういう人の考えをよく聞いてみると全く非歴史的な考え方をしている。自由主義や個人主義がどういう社会や歴史の現実から出て、どういう歴史的な役割を果して、なぜ今日こんな思想ではいけなくなったかということは少しも考えない。明治の功臣も皆国賊か逆賊になるようなことを言う。だから少しも建設的な面が出てこない。こういう具合に歴史から抽象された個人主義とか自由主義とかを考えるものだから、全く現実離れの観念論になってしまう。そして近代風の個人主義や自由主義を排斥すると一緒に、およそ個人の自発性・自主性というものまで悪いものとして排斥してしまう。これは非常な間違いで、これでは人間の責任感というものがなくなってしまう。強い責任感というものは個人の本当の自発性、自主性というものがあって出るものだ。個人がただ命令伝達の器官で機械の部分品のようなものなら、全体に対する責任の観念というものはなくなる。この責任感、2600年の歴史をもつ日本に対する現代人の責任、国家の全体に対する責任、こういう強い責任観念が欠けているのが、最近の日本の病弊なのではなかったのか。(46頁)

世界史とモラル

高山:ポテンツ(歴史の構成力)の問題だが、フランス敗れたりといわれる場合に、フランス敗戦の根本原因となったものは何か。ランケの言葉でいえば、つまりモラリッシェ・エネルギー、道義的生命力の欠乏にあったと思う。政治と文化との間に隙や対立ができてきて、文化と政治がバラバラに分離した。文化も政治も共に健康な生命力を失った。即ち道義的な生命力を失ってしまった。それがフランスの敗戦の根本原因だと思う。我々の望むものは過去的なパリの文化などではない。華のパリを灰燼にしても祖国フランスを守るという道義的エネルギーの中から新しく作られて行くフランス文化だったんだ。何も今日に限らず、いつでも世界史を動かしていくものは道義的な生命力だ。こういう力が転換期の政治的原理になりはしないかと思う。モラリッシェ・エネルギー、健康な道義感、新鮮な生命力こういったものを、もっともっと日本の青年達はもって欲しいように思う。
高坂:健康な生活威情が必要だ。古い考え方かも知れないが、現実に歴史を動かしているのは単なる経済とか学問とかいうものだけではなく、もっとズブイェクティーフな、主体的なもの、具体的には民族の生命力のようなものだ。無論、文化的なものを内容とするのだがね。それが世界歴史に対して決定的となるような場合には、どうしても民族の生命力、更にはモラリッシェ・エネルギーが有力になってくると思う。
高山:戦争といヘば直ぐ反倫理的だ、倫理と戦争とは永遠に結びつかないものだというように考えられる。こういう考えは倫理というものを単に形式主義的なものにしてしまう。しかしそれは既に本当の道義的なエネルギーが枯渇してしまったものなのだ。ランケなども言ってるように、戦争の中に道義的なエネルギーがある。形式化された正義感、実は旧秩序とか現状とかを維持しようとする不正義をいうものに対する健康な生命の反撃、それが道義的エネルギーというものだと思う。いろいろな面に於て客観的方面に果てしなく分裂していくような傾向、そういう分裂の傾向を主体性に於て統合する、こういうのが健全な道義的エネルギーだ。
高山:ドイツが勝ったということは、僕はドイツ民族のもつ道義的エネルギーが勝ったことだと思う。よく世界史は世界審判だ、といわれるが、それは何も世界史の外で神様が見ていてそれを審判する、というやうなことではない。国民自体が自己自身を批判する、自己自身を審判するということだと思う。国が亡びるということは、外からの侵略とか何とか外的原因に基くのではない。外患などというものは一つの機会因に過ぎない。国が亡びるのは実は国民の道義的エネルギーが枯渇したということに基づくんだ。敵国外患なければ国亡ぶというのも、つまりはこの意味だと思う。国家滅亡の原因は決して外にない、内にある。経済にしても文化にしても同じで、要するに国の亡びる究極の原因は、国民が健全な新鮮な倫理感、道義的エネルギーを失ったところにある。(105頁)

種族・民族・国民

高坂:その点で、評制は悪いがゴビノーというようなものも参考になる点があると思う。尤も、困るのは血の純粋性とか人種とかいうものを根本に置いて、特にアーリャン系が先天的に世界支配的と考えることだが、種族とか民族とかいうものを世界歴史の一つの基礎だと考ヘている点はちょっと面白い。ゴビノーは、文化の興亡を、それを負っている民族の血の純粋性で説明しようとし、不純な血が入ってくると民族の生命力は駄目になるという説明をしているのだが、血の純粋性を主体的に考へ、寧ろモラリッシェ・エネルギーで置き代えれば、全く無価値とも言えないと思う。
高山:モラリッシェ・エネルギーの主体は僕は国民だと思う。民族というのは19世紀の文化史的概念だが、今日は、過去の歴史はたとえどうあろうと「民族」というものでは世界史的な力がない。本当の意味で「国民」というものが一切を解決する鍵になっている。モラリッシェ・エネルギーは個人倫理でもなければ入格倫理でもなく、また血の純潔というようなものでもない。文化的で政治的な、「国民」というものに集中しているのが、今日のモラリッシェ・エネルギーの中心ではないかと思う。
高坂:そうなのだ。民族というものも単に民族としてだけではつまらない。民族が主体性をもった場合にそれはどうしても国家的民族の意味を持たなければならない。主体性をもたず自己限定性をもたない民族、つまり「国民」にならない民族は無力だ。(以下、民族名を上げて例証しているがこれは省略する)世界史の主体は、そんな意味で国家的民族だと思う。(107頁)

現代日本と世界

高坂:随分いろいろと論じ合ってきたわけなのだが、このような世界の動乱の中で、現代日本に課せられた課題は何か。それについて僕はこんな気持をもつ。
この頃、明治大正というものに対していろいろと批判がされているが、明治大正を通じて日本が世界史的意義を明確にしたことは争えない。日本が世界の中に乗出したのだ。その頃言はれた東西文化の融合という理念にしても、古くさいけれど、目のつけ所は誤ってはいなかったと思う。世界を睨んでいた。ただ単なる融合では困る。新たなる世界的日本文化の創造でなければならない。また文化と言えば、とかく現実の地盤から離れ、政治性から離れ、根のない花のようなものを考えていた。主体性のない文化を考えていた。しかしそれでは駄目だ、現実の地盤を欠いた文化では駄目だ。ところが現在は広い東亜の全体を地盤としてもっている、支那から南の方の島々まで広がっている。そこに現実のモラリッシェ・エネルギーを発見していく地盤がある。無論それには新しいプリンシプルが必要だ。しかしだからといって、今まであるものを単に否定するだけでなく生かしていかなければならない。新しい秩序が立てられなければならない。今世界中がそのような新しい力をもったプリンシプルを要求している。ドイツにせよ、ロシヤにせよ、支那にせよ、皆そのような新しい世界史の原理を樹立しようとして苦悶していると言える。
この動乱の世界に於て、どこが世界史の中心となるか。無論、経済力や武力も重要だが、それが新しい世界観なり新しいモラリッシェ・エネルギーによって原理づけられなければならない。新しい世界観なり、モラルなりができるかできないかということによって世界史の方向が決定されるのだ。それを創造し得たものが世界史を導いていくことになりはしないか。日本は今言った風な意味でもって、かかる原理を見出すことを世界史によって要求されている、後ろから押されている、世界史的必然性を背負っているという気もするんだ。
世界史的必然性というのは、単に人間の愚劣さを展開させる揚所ではない。人間の無智と無力の隠れ場ではない。前にも語ったように歴史的必然性というものは、問題と解決の間の必然性なのだ。解決は創造であり、建設であるのだ。人間の歴史には実に愚劣な点も多い。しかし我々の努力は、ややもすれば愚劣に陥らうとする人間歴史を、少しでも正しく導こうとする点にあるのではないかね。人間の秘密は世界史の中に現れている。我々の課題はそれを多少とも解決しようとする点にあるのではないかね。そのために現実の地盤と結びついた世界観を求めているのだ。(126頁)

文屋註:その後、それぞれが一言づつ口を開き、最後に高坂がまとめの言葉を以下のように述べる。

高坂:実際、小さな人間の魂の救済を人類そのものの苦悶の救済から切離して考ヘるかのような態度はどうだらう。西田先生も先日言っておられた、世界歴史は人類の魂のプルガトリオだ、浄罪界だ、戦争というものにもそうした意味があるだろう、ダンテは個人の魂のプルガトリオを描いた、しかし現在大詩人が現れたならば、人類の魂の深刻なプルガトリオとして、世界歴史を歌うだろう、って。
人間は憤る時、全身をもって憤るのだ。心身共に憤るのだ。戦争だってそうだ。天地と共に憤るのだ。そして人類の魂が浄められるのだ。世界歴史の重要な転換点を戦争が決定したのは、そのためだ。だから世界歴史はプルガトリオなのだ。(131頁)

文屋註:プルガトリオとは、ダンテが『神曲』の中で触れている天国と地獄との間にあるとされる「煉獄」の意味である。西田先生はそれを仏教用語で「浄罪界」としておられるようである。

第2回座談会 「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」 昭和17年3月4日

座談会は、今回も、高坂氏の下記のような発言で始まった。

高坂:(前略)世界歴史の呼びかけが、新しい東洋の倫理を決定すると思われる。そこに世界歴史の哲学の倫理的な使命もある。この前の話のときにも、よほどその点には触れていたわけだが、何ぶん12月8日以前のことなので、特にこういふ風なものが、極く差し迫った問題にはなっていなかった。しかし今になってくると「南方圏の諸民族に対する態度というものが、のっぴきならない直接の問題になってきている。そんなような点も、前の座談会を読んでいただいた方の間で、多少、問題になっているし、我々ももっとその点はハッキリさせたらどうかという気がするのですがね。
またこの前には世界史学と世界歴史の哲学という話が出ながら、脇の問題に行ってしまったが、ああいうことをもう一遍考えてみたらどうだろうか。新しい倫理の問題とも関係するのだから。

これに対して、歴史家の鈴木氏が次のような発言をした。

鈴木:12月8日は、つまり我々日本国民が自分のもつモラリッシェ・エネルギーを最も生き生きと感じた日だと思うんですが。前の座談会で歴史の必然について議論が出て、結局必然というものは我々が手をこまねいて待っているところにあるのぢゃない、我々が主体的に動いていくところに初めて必然がある。つまり歴史的必然は主体的必然というか、実践的必然だということだったと思うんですが、そのことを僕は12月8日というものに於て特に痛感したのです。(139頁)

世界史的民族と倫理性

鈴木:現在、日本がやはりそういう世界史的使命を自覚してきた。その点いくらかヘーゲルの考えに似ているような点もあるけれども、実は違うのではないか。日本が東亜における指導性を持つことの根拠は、世界史的使命を自覚する、その自覚にあると思う。客観的に負わせられるのではなく主体的に自覚するのです。それがいわゆるモラリッシェ・エネルギーではないでしょうか。日本の歴史的倫理感であり道徳的生命力なのではないでしょうか。
西谷:僕も実はその点が大事だと思っていたんです。世界史的民族といっても、例えば現在の日本の場合は、歴史的に自覚的だということが根本的な特色だと思う。(中略)ローマ人にしてもゲルマン人にしても、確かに世界史的民族ではあったが、世界史的民族としての自覚、世界に対する建設的自覚をもっていなかった。ところが日本はいま建設的位置に立って、そこに世界史というものの自覚をもつようになってきた。それは非常に特異なことではないか。

高坂 :同感だね。昔の世界史的民族は単に自己を世界大に拡張するだけで、他の主体を認めつつ、しかも世界の秩序を更新するという自覚はなかったと思う。そこに相違がありますね。
西谷 :さっきのモラリッシェ・エネルギーの問題に戻るが、東亜における倫理性というか、道義性というか、要するにモラリッシェ・エネルギーが具体的にはどういう風に現れるか、ということが一番の問題だね。それは根本では、支那事変の解決ということと結びついていると思う。つまり支那人の中華意識、どこまでも自分達が東亜における中心で、日本なんか自分達の文化の恩恵によって育ってきているのだという意識が、一番根本の問題ではないかと思う。その場合どうしても日本が現在大東亜の建設に於て指導的であり又指導的でなければならなかったという歴史的必然を、彼らに納得させ認識させるということが根本なのぢゃないか。そうなると今言った支那人の中華意識と衝突するが、支那自身というものが、列国の植民地に分割されないで済んだというのは、結局やはり日本の強国化、日本の努力によってだということを、支那人に自覚させる。つまり世界史の認識を支那人に呼び覚ます、それが彼等の中華意識を除いて大東亜の建設に日本と協力させる根本の道ではないか。そしてそこから大東亜におけるモラリッシェ・エネルギーの發現というか、そういうことも考えられると思う。なぜなら現在の日本の指導的役割というものは根本に於て日本のモラリッシェ・エネルギーによっている。支那の植民地化を遮ったのも日本のモラリッシェ・エネルギーだった。(後略)
高坂 :さっきモラルの争いだということをちょっと言つたのもそれなのだ。支那人は中華意識が非常に強い。これは支那の文化が優秀だということに対する優越感だ。東洋のアテネなのだ、日本というものは文化的に要するに支那の延長にすぎないと考えている。確かに日本の文化の中には、支那から相当受け入れた点があることは認めなければならない。文化という点では支那にもいろいろ優れた点がある。しかし支那人にどうしても理解してもらいたいのは、日本のモラルということ、これは決して支那からきたものではない。(161頁)
高山:模倣みたいなもので日本が偉くなったと思うのは大間違いだ。尤も日本人にさえそう考えてる人もあるにはあるが。
高坂:単なる模倣性ではない。主体性における展開なのだ。
高山:結局そういう支那人の考え方が満洲事変、支那事変に非常に密接な関係があると思う。支那分割を防いだのは日本なんだ。ところが支那分割を防いでいるのに、なぜ日本と支那とが本当に提携することができなかったのか。更に遡って見れば、日露戦争で日本がロシヤのアジア攪乱を防衛した。それ以来、日支はできるだけ早く、できるだけ親密にならなければならない運命に置かれていた。ところが結局、なぜ日本と支那が提携することができなかったのか。これは東亜の悲劇だと思うんだが、ここに世界史的に実に重大な問題があると思う。支那の方では日本の行動を欧米と同じ帝国主義的侵略と誤り解釈するようだが、ここに問題があるので、僕はそうは解釈できないと思う。一歩譲って帝国主義的侵略としてもなほ解釈できない問題が残る。それは日本がそういう態度をとりながら、なぜ支那分割を防ごうとしたかということだ。この日本の行動の二重性——極めて不明朗な二重性がなぜ生じたか。そこにいろいろの根拠があるが、そこに世界史的な根拠があるんで、こいつはよく研究する必要があると思う。ここが了解されないと日支の提携は難しい。それを単に帝国主義一点張りで考えるので誤るんでは、支那人は度し難いほど、世界史いうものの意識が欠乏しているというほかない。(170頁)

世界史と広域圏

高坂 :今までの歴史の考え方ということを、大雑把に言うのは危険だが、時代区分、時間的な区分には相当敏感にやっていた。ところが地城的な区分となってくると、それほどにも注意していなかったのではないか。それが現在の世界史の段階では、どうしてもグロース・ラウム——広域圏が問題となる。それについて僕はこう思う。大体今の東亜共栄圏の問題の中で、かなり重要な役割をもっている。支那問題にもそれがあると思う。従来、民族が歴史的主体として、世界史的問題を解決してきているわけだが、民族が自分自身の問題を解決した一つの著しい例が、国家を建設するということだったと言ってよい。国家を建設することによって民族は自分自身の問題を解決した。ところが現在に於ては、問題は一つの国家的民族のそれというより、民族相互の深い媒介の問題だと思う。それには他のいろいろの契機もありはするが、そこに従来の問題と多少違う問題が出来て来ていて、それがグロース・ラウムの問題、広域圏の問題を必然的なものにしているのではないか。そういう気がする。
高山 :少し疑問があると思うね。広域圏とか共栄圏とかの成立してくる歴史的必然性は、民族問題のみからだらうか。もっと経済的な問題からも・・・・。
高坂 :のみではないが、相当重要な契機をなしている。でないと歴史の主体性がぼやけてしまう。
鈴木 :広域圏という観念が、経済圏即ち経済自給圏の観念、自由貿揚に対するアウタルキー(自給)の経済理論から出てきたというところは確かにある。広域観念がまづ経済自給圏から出てくるということには、歴史的にも必然性があるんですね。自由主義経済が本質的に行詰ってきて、その末1929年から1931年の世界不況となった。世界不況というものの中から、資本主義の救済策として、あるいは資本主義の強化方策としてブロック経済ということが考えられてきた。まづ英帝国がそれをやった。1932年のオツタワ協定がそれで、あれだけの大きい資源と広い流通圏を持った帝国がブロックに閉ぢ籠もったのだから、世界の流通経済に大障碍を起した。これが世界の各国がアウタルーキーというもの、即ちそれぞれの自給圏を持とうという動きを刺載して35〜6年頃の段階にそういう議論が盛んになってきた。それは非常に大きい必然性があったと思うのです。日本でもやはり日・満・支経済ブロックがまづ考えられ、それだけでは自給性がないというので更に南方圏の問題が起ってきたという面は大いにあったでしょう。ともかく広域圏の基本概念には経済関係が根本をなしていたのが、あるいは寧ろ必然的なことであるかも知れない。しかしですね、そこにどうも民族観念や倫理観念が少し欠けすぎていはしないか。東亜共栄というものも、資源のみを考えるということではいけないので ・・・・。民族圏という観念、あるいは理論が欠けてやしないか。そこに欠陥があると僕は思う。各々その所を得しめるというのが空な言葉になってしまってはいけない。そういう点からみて民族に対する研究、学者の研究だけでなしに国民大衆的な理解が必要だし、また倫理性の理論がなくてはならないのではないか。
高坂 :全くそうだと思う。高山君の言はれたのもよく解るが、いま鈴木君の言っておられた経済自給という場合には、自給する単位、主体になるようなものを考えないと、自給という言葉の意味がハツキリしてこないと思う。自給の主体性なるものは何かというと、これはよほど民族的な意味相のものが入ってくると思う。尤も、それと共に「民族」というものの意味が変らなければならないのだが。(183頁)

「家」の倫理

高山 :今日の八紘一宇というのは『神武紀』に出てくる八紘為宇に新しい生命をもったものとして考えていくことは極めて意味があると思う。そうなると「家」という問題に帰着する。家というものの倫理的な構造というものが、やはり親が子を育て指導するという風な意味で、人倫の倫理の最も根本的な原型をなしているわけだね。そういうところに八紘一宇と賢哲政治と所を得しめるということとが結びつく一番直接的な形があるのでなかろうか。もし、そういうことが言えるとするならば、家というものの構造——僕は単なる社会制度としての家族から区別するため、わざと「家の精神」といっているが——家の精神というものが非常に問題になってくるね。家の精神というものは勿論、家族の中に典型的に現れいるものをいうのだが、単に家族だけに限らなず日本の国柄というものの中にも、さらに、家族以外のいろいろな社会の中にも生きていると思う。(中略)そうすると、そういう家の精神が基本となって、教化とか啓発とかいうようなものを基礎とした倫理が考えられる。それは家の倫理だが、社会を構成する倫理ともなる。(中略)今日、盟主と言はれるようなものも、倫理の拡大されたものとなっていく。そうすると世界秩序の新しい原理とか精神とかいうものも、日本の精神に結びついているということが言えてくると思う。(228頁)
西谷:ただその際、大東亜共栄圏の新しい倫理と八紘一宇の理念というようなものとの連関を考えるとき、根本に、「家」といわれるものの意味がやはり一つ問題になるんぢゃないか。例えば「家」にも昔の家長的な形態のものもあれば、反対の極端には現在のヨーロッパなどに見られるような、よく言ヘば人格主義的、悪くいえば個人主義的な形態もある。つまり個人に先立って全体性としての「家」そのものが実体的に考えられて、個人に対する「家」の優位が家長の構成として現れている場合もあり、逆に個入が実体的と考ヘられて、家はその個人間の結合でしかない場合もある。
高山 :親子中心より夫婦中心だね。
西谷:そうだ。つまり家の形態も、国家と同様、全体主義的にも自由主義的にも成り立ち得る。それで「家」が本来如何なる本質のものであるべきかが問題となる。だから、八紘を宇と為す時のその「いへ」というものが、どういう構造のものでなければならないか、それは八紘一宇ということだけに一層問題となる。それは、日本だけの自己拡大という意味で日本が他の一切の民族を被うという風に解されることも可能だし、他方の極端には日本の指導性を少しも考えずに、極く表面的な意味での共存共栄、只の平面的な並存とも解され得る。ゲノッセンシャフ的な関係は非常に具体的だとは思うが、それでもなお日本の指導的な立場の問題が引掛ってくる。そこにつまり、八紘一宇ということが巌密にはどういう構造の連関を意味すベきかが非常に問題となるところがあると思う。
高坂 :それはやはり東亜共栄圏というようなものを考える場合に、それがこの世界史的な必然性に基いて現れてきているところの歴史的なイデー、歴史的な理念、あるいは世界史的な当為——どう言ってもいいが、とにかく非常に歴史性をもっているものだということを認めることが、この問題えの一っの解決の手掛りを与える所以ぢゃないか。 ただこの八紘を一つの宇と為すということは、それを抽象的に考えるとすれば、そこに親と子という闘係が成り立たない。親と子が考えられるときには、そこに歴史的な一つの順序のようなものがあって初めて親と子ということが言えるのだ。親と子では、同じ時間に在りながら、しかも歴史的現実に於ける位置が違ふ。そこに導くものと導かれるものの区別がある。東亜共栄圏を考える場合でも世界史的な時間に於ける位置づけというようなものの違い、そこから導くものと導かれるものとの区別が起ってくるのではないか。つまり八紘一宇ということは、各々をして所を得しめるということなのだが、その「所」というのには、歴史的な位置づけの意味がある。無論、「所」というのは一応空間的に解釈していいわけだが、それとともに、世界史的な意味での「所」なので、世界史に於て所を得しめるというような意味がよほどある。そこから言うとこういうような関係でずうっと押していけるものが東亜共栄圏の中にも見られるのではないか。これは必ずしも一方的に日本がただ広がっていくというようなものでもないし、そうかといって逆にすベてがただ平面的に並んでいるというような意味での一つの宇というようなものでもない。そこにある秩序なり組織なりをもったものが、東亜の全体として可能になってくる。そういったような新しい理念の下に、非常に多くの民族を一つに統合した共栄圏というような形のものは、過去の世界の歴史の中で恐らく考えられたこともないだらう。単なる個人個人の平等を考えるというような意味の理想は過去に於て抱かれたことはあるけれども、いろいろな民族をして所を得しめてくる、というような理想は、従来西洋に於てはなかったんぢゃないか。そこにも新しい東亜共栄圏の理念というようなものが、家という考え方とよほど結びつけて考えられている、というような点があると思う。
高山:ヨーロッパの家族は個人主義的立場のもので日本のとはよほど違ふ。個人主義的になれば親子中心から夫婦中心に傾いてゆく。しかしこの傾向を進めてゆけば、実は家族というものは解体してなくなる筈だ。男女が好き勝手にくっつく。生れた子供は親が育てないで国家の育児院が育てる。こうなっては「家」というものはなくなると言はねばならない。人間の種は絶えないだらうが、「家」はなくなる。しかしこんなことは望ましい社会状態ではない。(中略)この「家」から親子開係を消し去るわけにはいかない。家はやはり親子という世代の違ったものからでき上る。それから兄弟というようなものでも、長幼という違いがある。男女の違いがある。勿論、夫婦というものは違った機能のものとしてある。そして、各々違った技能、職分、天分で、連った能力が与えられていて、しかもそれが一つの全体的な統一を完成するものとして各々調和する、単に同じものがアトミスティックに集まって加算的な総体をなすというのでなくして、違ったものが結びつきながら補足し合って一つの調和ある全体を造って行く。こういうことが「家」と言はれる限りの根本の原則になるので、やはり本当の和というものはそういう形のものでできるのではないか。(中略)
そうすると、ここから抽象的ではあるが、本質的なものとして倫理の一般的原則というものを考え得るようになる。そしてこれが種々の特殊な社会の特殊原理と共に、倫理的原則として拡充され、現実の社会を規制することができるようになると思う。そしてやがては民族間の世界新秩序の構成原理にも拡充されていくということが考ヘられるので、丁度世界史的な条件とそれからこういう倫理の根本原則とが本当に綜合されたところに、今日の新秩序を建設する具体的な原理があるのではなかろうか。(236頁)

文屋註:この回の最後の締め括りの部分は非常に危ない議論になっているので、匿名化することとする。

A:僕、一つ言いたいことがある。全然別な問題だが、大東亜圏を建設するのに日本の人口が少な過ぎる。何年かの後に日本が一億何千万人かにならなければやっていけない、ということが問題になるわけだが、その際、大東亜圏内の民族で優秀な素質をもった者を、いはば半日本人に化するということはできないものかと思うんだが。それも支那民族とか泰の国民とかは、固有の歴史と文化をもったものだから、これはやはり一種の同胞的な関係で、半日本人化ということはやれない。またフィリッピン人のように自分の文化というものは何ももたずに、しかも今までアメリカ文化に甘やかされてきた民族というものは、恐らく一番取扱いにくい。それに対して、自分自身の歴史的文化をもっていないが、しかも優秀な素質をもった民族、例へばマライ人なんか、よくく知らないが相当優秀な ・・・・。

B :インドネシャンでしょう。

C:そう、とにかくなかなか優秀な素質をもっているとも聞く。ハウスホーファーなんかマライ族を貴族的民族(アーデル・フォルク)と言っている。日本人にもその血が混入しているというんだ。尤も日本人は治者的民族(ヘルレン・フォルク)だろうがね。で、ああいう民族とか、フィリピンのモロ族とか——受け売りの知識だが、モロ族などもいいそうだ——そういう素質のいい民族を少年時代からの教育によって半日本人化するということはできないかと思うんだ。例えば高砂族なんか、教育されれば日本人と変わらないようになる、という話を聞いたが、どうかね。半日本人化というのは精神的に全く日本人と同じようなものに育てるという意味だが、それが日本人の数が少いということに対する一つの対策となると同時に、彼らの民族的な自覚、乃至は彼らのモラリッシェ・エネルギーを喚びおこす、そういうための一つの方策としてどうだろうと思う。全くの素人考えで突飛だが・・・。

D:日本人の数が少いからと言ってもいいんだが、——同じことなら寧ろ、現在の世界史的な使命を実際に担って遂行していくものの数が少いから、と言った方が何だか穏当ではないか。

E:僕もその方が正しいのではないかと思う。

F:また他民族に対する具体的政策も、それぞれの歴史的な段階に即してやらないと非常な誤謬を犯す危険があるから、よほど注意を要するね。要は、世界史的な所を得しめるということだね。

第3回座談会 「総力戦の哲学」 昭和17年11月24日

第3回の座談会も高坂氏の発言始まった。

高坂:「世界史的立揚と日本」ということについて、丁度この部屋で一緒に話し合ってからまる一年経つわけなんだけれども、 その間に世界の情勢が変わってきたし、日本の位置というものも驚くような変わり方だ。そのことをしみじみ思うわけだが、しかしそれにしても、そのように変わってきた大きな原動力が、何といっても現に我々が戦っているこの大東亜戦争にあるということは否めない。一年の間の戦争の移り行きの一段階ごとに歴史の姿が大きく変わってきた。戦争というものは確かに歴史を創り直していく最大契機だと想はざるを得ない。
この一年の戦争から考えてみても、戦争というものが歴史の現実に対して恐ろしい分析力をもっていることが解ると思う。戦争が動いていくたびに、いろいろな、我々が気がつかなかったやうな歴史の現実が分析されて現れてくる。丁度歴史を見る鋭い顕徴鏡のような感じを戦争というものから我々は受ける。戦争というものが我々に歴史の動力学を教えてくれると言ってもよい。しかし戦争というものは、そのように歴史を教えてくれるだけに、歴史とともにずいぶん形が変わってきているに違いないし、特に現在の大東亜戦争における総力戦の形というようなものは、多分今までの世界の歴史に例を見なかったような本質をもっているものではないだらうか、という風に思はれる。我々も総力戦というものが、いったいどういう風な意味をもっているものか、ということを改めて反省してみなければならない時にきているのではなかろうか。一体、戦争が時代と共にどんな風に変わってきてた、そういうことから考えていってみるというと、現在の総力戦の意義もハッキリするんぢゃないかと思われるんだけれども……鈴木君どうです、戦争の歴史を一つ類型的にでも話して頂けませんか。
鈴木:(長い発言から、結論だけを取り上げる)
結局、回された盃を哲学にお返しすることになるようですが、戦争が哲学的な基礎づけを要求するようになって来たというのが、現代の根本事実だと僕は考える。
高山:ルーデンドルフがこの前の大戦から定義づけた全体戦というものとは非常に違う点がある。この点を掴むことが重要で、今度の戦争を考えるのにも、戦争というものは宜戦布告で始まり、講和談判で終る。そして戦後に再び元のような平和の秩序ができ上るのだという——そういう風な戦争の理解の仕方がまだ非常に強いように思われるが、こういう戦争概念で今度の戦争を考えることは、僕は極めて危険ではないかと思う。今度の戦争は、そういう形を事実とっていないし、今後も、そういう経過をとらないと思う。
なるほど、大東亜戦争は昭和16年12月8日に始まったのだが、それは武力戦が始まったのであって、すでに経済封鎖・経済断交というとき総力戦は始まっている。それどころではない。支那事変と共に大東亜戦は開始せられていると考えるべきだ。今度の戦争では前大戦や近代戦の場合のように、講和談判という形をとって終るとは考えられないふしがある。もしそういう形をとるならば、それは一時的のものなので、やがて同じ戦争が何年かの後に再び開始せられるだろうと思う。では今度の戦争が終る時はどういう時かと考えて見れば、今度の戦争では武力戦というものには双方に一定の制限がある。戦争しながら東亜共栄圏を一歩一歩建設していく、そうすれば何年何十年続いても絶対不敗だ。アメりカも米洲広域圏みたいなものを造るに努力することだろう。そういう具合になって、結局我々が言っている東亜の共栄圏秩序というもの、あるいは、一般に世界新秩序というものを敵も認める、認めざるを得なくなる。我々の言うことを本当に妥当だとして承認してくる。この時が我々の勝利で、今度の戦争の本当の終末なんだ。 その途中に第一次大戦の終わりのヴェルサイユ会議という風なものはできようがない。そんな風の、前大戦と同じ意味の戦争であってはいけないと僕は思う。僕はそこに世界史的戦争の意義もあるし、また実は今度の戦争の道義的意味がある。今度の戦争は秩序思想の転換、畢竟は世界観の転換ということでなければいかないと思う。(280頁)
高山:今度の戦争は、「全体戦」から進んで来て「総力戦」というところに迄きたあげく、我々が普通に考えている戦争概念を超越したところに到達している。今度の戦争は従来の戦争概念では理解できない、その限界を越えたものをもっている。だからどうしても、従来の戦争概念の一番中心をなしている所謂武力戦、今度の戦争では必ずしもこれのみが決定的要素ではなく、総力戦そのものが決定的要素であるわけだ。
鈴木:そこなんだ、ルーデンドルフを読んで僕もその点を非常に感じたんだ。僕もルーデンドルフの『総力戦論』を読んでみたんだが、流石に前の大戦の責任者として苦しい体験をくぐってきた人だけあって、迫力の籠もったものだ。文章も力強い名文章だし、確かに面白いという以上の深い威銘を僕は受けた。しかし問題はあの思想だが、要するにあれは武力戦から見た総力戦ということにつきると思う。そこに僕は疑問を感じるのです。
高山:新しい今日の理想的な総力戦の構造を考えてると、それはルーデンドルフの立場では考え得ないものだと思う。
鈴木:前の大戦の理念を、我々の総力戦の理念として、そのままもつことができない。その間に世界が大きく変わっている。戦争の課題も目的も変わってきている。寧ろ前の大戦を清算するという意味を今度の戦争はもっている。
高坂:西谷君の話と同じになるが、今までの大抵の戦争は、それまでの秩序が破られたとか、均衡が乱れてきたとかいうようなものを元の段階に返して、大体前の釣合を保たせるように意図している。いはば保守的な戦争だった。しかし今の戦争は全く違う。違った秩序ヘすベてが移っていく。(287頁)
高坂:その意味で、「総力戦」という言葉ができたのはドイツだけれども、本当にやっているのは日本だ、という形になるのではないか。
高山 :僕も全く同じ考えです。結局、本当の理想的な総力戦というものを遂行し得るものは日本だという信念をもっている。所謂「日本戦論」とか、「皇戦」とか、今日の総力戦が要求する至上命法を突込んで考えていけば、必ずそこに、到達するものだと考える。(289頁)
鈴木:一般に戦争は、平和のためにやるんだと何時でも言われてきた。とりわけ先の大戦はそうだったと思うが、戦争をなくするための戦争、そういう理念があった。
ヴェルサイユ条約はその理念のもとに結ばれた。そしてその理念のもとに軍縮会議が何遍となく開かれたわけです。とにかくそういう風にいつの戦争ても、戦争にあたってはこれは平和のための戦争だ、というスローガン掲げる。戦争の理由を平和の中に見出さねばならないのが従来の戦争理念だった。僕はそれをどうも物足りないと思う。寧ろそれが従来の戦争理念の弱点ではなかったか。その意味で戦争そのものに即自的(アンジッヒ)な根拠を見出す。そして永遠の戦争(笑)、そういうことを言ってみたんだが、それは行けないと言われたんです。第一それでは永遠ということが分かっていない。それはただ戦争は無限に続くというようなことでは、本当の永遠というものに触れていない。それはただの無限の時間というだけのことで、全然永遠ではないという。成る程それはその通りだと僕も思う。僕は永遠というものを掴んでいないどころではなく、理解さえしていない。永遠というものはもっと深い絶対なものだろう。でつまり、もし本当に我々が永遠の立場に立って戦争というものを考えるなら、これこそ最後の戦争だという絶対的な意味での決意をもつのが本当だ。戦争はこれが最後だ、最終戦だという、そういう突詰めた自覚乃至は決意のもとに戦わなければ本当の絶対的な戦争というもんぢゃない。そういうことで、まぁ叱られた。(笑)
しかしそれはともかくとして、僕は思うのですが、従来のアングロ・サクソン的宣伝の中にある平和の理念、この宣伝によって前の大戦はドイツのミリタリズムとの戦いということにされてしまったんだが、このように戦争の根拠を単に平和の中に求めていくということはもう行詰まっている。そして軍縮会議も行詰まってしまった。軍縮会議は戦争というものに対する極く皮相的なセンチメンタルな倫理観、消極的な思想からきている。そして、戦争の災禍を防ぐために、戦争以外の方法によってというわけだが、しかし軍備というような、単に戦争の手段だけを拘束するのでは、戦争そのものはちっとも拘束されない。このことを軍縮は立証してくれたと思う。寧ろ軍縮会議の失敗は、要するにアングロ・サクソン的平和理念というものの崩壊を示したものだと僕は見ている。戦争は惨害だというだけでは済ませないものがある。高坂さんの言われる、戦争は真埋だ、戦争は歴史の真理を暴露するものだ(『戦争の形而上学』)、 というところが確かにある。 そういう意味から戦争を観る。そういう方向に於て我々の考えを深めていく、ということはあり得ないものだろうか。(298頁)
高坂 :僕は考えてみる余地がありそうに思う。(中略)永遠平和論が空虚な理念であるように、永遠戦争論も人間の自然の要求に対して無理がある。だが戦争という概念それ自身を、鈴木君の言われたような意味に変えてしまって、その上での、つまり従来の戦争形態、寧ろ戦争の概念を永遠化するのでなくして、戦争と平和という互いに対立したものを止揚し、いわば創造的、建設的戦争という新しい理念を提出してみればどうだろうか。少くともその方が今後の戦争の形態を理解し易くするわけだし、過去の歴史の考え方としても許されるのではないたろうか。(299頁)
高山 :例えば、今度の思想戦というものをとってみる。そうするとさっき言われたように、今度の思想戦というものは、前大戦の中期頃から末期に盛んに出た、あの宣伝戦、謀略戦とは本質的に違ったものをもっている。今度の戦争は要するに秩序の転換戦であり、世界観の転換戦なのだから、そして世界観というものが思想の事柄である以上、今度の総力戦は当然その根抵に於て「思想戦」という性格をもっている。今度の戦争では、米英には日本のような堂々たる開戦理由も戦争目的もない。そして、今度の戦争がいつ終るかという場合、我々の言う新秩序思想を敵が納得し承服するところに於て、結局最後の終末がくる。(300頁)

日本の主体性と指導性

鈴木:今度の戦争の原因は世界そのものの中にある。日本の中にあるという以上に、世界の中にあるというところに今度の戦争が世界史的使命を担った戦争だ据つたということの根拠があると思う。東亜の新秩序建設ということは日本が任意に取上げた問題でなく世界から課せられた問題だと思う。
西谷 :その半面に、日本自身の中から世界の新しい立場の自覚が現れてきた。日本が新しい世界の自覚点になっているという。
高坂 :そいつがあるね。
鈴木 :その自覚は日本が世界を自覚するということぢゃないでしょうか。日本が日本自らを自覚するということもある。しかし単にそれだけでなしに、日本がまた世界を自覚している。それが大切なことだと思う。日本は世界史的使命を単に無自覚に客体的に担わされているのでなく、主体的に自覚している。そこに世界史的自覚があると思う。 (379頁)
鈴木 :世界が間違っている、世界が矛盾している、つまり近代の世界史が行詰っているというところから今度の戦争が起ってきたのだということ 。事実第二次欧州大戦はヨーロッパそのものの行詰まりから起っているし、大東亜戦争はヨーロッパ的世界秩序の行詰りから起ってきている。一つはヨーロッパの自己矛盾から、一つはヨーロッパの世界に対する矛盾からきている。(381頁)
高山:日本は今こそ世界史に主体的に、主導的に働いている。世界秩序の変革を己に担って、世界史の最先端に於て働いている。それは一応「12月8日」に急速に始まったと言えるが、その由来・根源というものは遥かに古い。大東亜戦争が支那事変4年にして開始される。その支那事変はまた満洲事変と連関してをり、その満洲事変がまた遥か前に連って起きている。大東亜戦争で示された日本の主導性、主体性は、実は支那事変の起るずっと前から隠然としてあったのだ。日露戦争で既にこれが明瞭に示されている。(383頁)
鈴木:日本が指導性をもっているということ、東亜の新秩序が、東亜諸民族の中でも日本によって樹立されつつあるということは実に意味の深いことで、僕はそれを日本的原理に於てのみならず世界史的原理に於ても必然なことであると考えたい。それを日本的原理は即ち世界的原理だと言って片づけてしまえばそれまでだが、学問というものはというもそんなものぢゃない。
東亜新秩序の要求というものは、単に抑圧されていたものが解放される、今まで不自由であったものが自由になるという意味での、従来の自由主義的な概念での単なる解放の要求ではない。即ち国家間の水平運動というか、極端な言葉で言えば、国家間の階級闘争というような形のものではない。そうではなくて、従来に於ても自由であり独立であったところの日本、旧秩序の中でも大きな位置を占めていたところの日本が新秩序を要求しつつあるという、そのことにはやはり深い意味がある。大きな歴史性がある。それが重大であると思う。(387頁)
高山:およそ時を得るということがなければ歴史というものはない。歴史は建設や創造の跡で、行為の跡なんだ。単に生成や発展の跡ではない。歴史を単に生成や発展と見るのは自分が歴史の建設を分担する責任主体の立場に立たないで、頭の中で歴史を考えるからなんだ。単に永遠の真理というようなものには歴史はない。イデアには歴史がない。自由・平等の人格とか「絶対精神」とかいうものには歴史がない。ギリシャ哲学やヘーゲルみたいなドイツ哲学では、どうしても歴史というものが捉えられない。歴史の原理というものは「時」の中になければならない。しかし単に時の中にあるというのでも、まだ歴史というものにはならない。時の中にあってしかも時を始める、時の経過の中にあってしかも時の始元に立つ、即ち永遠に接する、ここに歴史というものがあり、ここから歴史が始まるのであって、日本で「時を得る」というのは、こういう境を指すのだと思う。時を始めるというのは時を生むということだ。(397頁)

大東亜共栄圏の論理の問題

高坂:それは大東亜共栄圏の論理性の問題だと、僕は思う。この前の座談会で大東亜共栄圏の歴史性と倫理性はかなりはっきりしたわけなのだが、しかし大東亜戦を通じて大東亜共栄圏が建設されていく時、その論理性も明確にされなくてはならないのではないか。別の言葉で言えば、計画性、組織性でもよいのだが、本質的には論理性だ。それがなければ客観性をもった組織も成立しないし、深い確信もあり得ない。大東亜共栄圏の全体が、日々の経済的、政治的生活に於て確信を持てるためには論理が必要だ。さっき高山君が総力戦の構造について言っていたすべての領域が相互に含み含まれるというあの論理でよいわけだが、大東亜共栄圏について言えば、僕は、それを場所の論理と言ったらどうかと思う。「ところ」を得しむると言われている意味での「ところ」の論理だね。大東亜共栄圏の倫理は「ところ」を得しむる「ところ」の倫理、場所の倫理なのだが、その論理も同様に場所の論理と考えてよいと思う。どこまでも「もの」の計画に即して主体が相互に媒介される場所的媒介の論理なのだね。無論、媒介には媒介の中心があり、それが日本であり、すベての主体はそこに集中し、代表され、そこから指導され組織されるわけだが、言ってみれば世界史的論理がその客観性を保証するのではないか。鈴木君の言う、確信が客観化されることが必要だ、という要求は当然そこから出てくるものと思う。無論、歴史性と倫理性と論理性の三つを別々に考えるわけではないが、新しい世界が建設され実現されるという時、特に論理性が、いわば世界史的論理が重要だと思うのだ。倫理の実現は論理を媒介とするのではないかね。(408頁)

<締め括りの言葉>

高坂 :ハワイの奇襲作戦でも、表面に現れた形は奇襲に違いないが、練りに練った揚げ句の捨身なんだらう。無論その時の思いつきなんてものではない。慎重な計画と巌格な訓練とがその背後にあるんだ。大東亜戦の全体からののっぴきならない必然性があの素晴しい創意を産んだのだ。我々が深く心を打たれるのもそこにあると思う。
(中略)
近頃、「不可能を可能にする」ということが言われたが、あれは僕も前から言っていたことで、つまり創造的ということの根本だと思う。単に在来のものを基礎にし、在来の考え方で考えるから可能の範園が狭く限定され、いろいろなものが不可能とされてくるので、飛耀的な可能性が見られなくなるのだと思う。しかし不可能を可能にするというのには捨て身の態勢が絶対に必要だ。昔から大敵を破ったものは、ぺルシャに対するギリシヤ人でも、みな拾て身の態度で不可能を可能にしている。そういう精神を新しく生かしたのがハワイ海戦だったと思う。総力戦といってもあの精神を国家の全野に生かすことに尽きるんぢゃないかね。

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