ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

旧満州、終戦後の暴虐

2009-08-11 13:46:59 | 旧満州の思い出
今朝の朝日新聞のコラム「経営者が語る戦争」(3)で、元福岡銀行会長の佃亮二さんが自らの戦争体験を語っておられる。現在78歳ということなので、終戦時は15歳前後で中学3,4年くらいだったでしょうか。「旧満州で生まれ育った私は戦時中、それ程戦争を意識せずに暮らすことが出来ました」という文章で始まる。この実感は当時国民学校3年生であったわたしにも共通するものである。
「そんな平穏な生活は終戦間近の1945年8月9日に一変します」と文章は続く。まさにわたしもその日に生活は一変した。そこからがわたしと異なる。わたしの場合は、その日に満鉄の無蓋車で新京(現長春)を脱出し、北朝鮮の平壌に向かったのである。佃さんの場合は、全く異なる経験をされた。おそらくわたしの家族もそこに留まっていたら同じ経験をしたであろうと想像できるので非常に興味深い。「両親が夜、黒いカバーをかけた明かりの下で地図を広げ、「一週間もすればこの町にも来るだろう」と話し合っていたのを覚えています」と緊迫した夜を思い出しておられる。しかし、そこに「両親」も居られたということは、旧満州でもかなり重要な地位について居られたのだろうと推測する。わたしの父の場合は、「現地召集」ということで「赤紙」をもらい沖縄方面に出動していた。
その頃から「北方から次々と日本人の難民がなだれ込み、我が家にも5,6人の母子やお年寄りを受け入れました」と言う。8月15日の玉音放送を自宅で聞き、意味が分からなかったが、ともかく灯火管制が終わり、夜の街の明かりを見て、「これで死ななくてよくなった」とその夜の感想を述べておられる。
実は本当の苦労は、ソ連軍が町に入ってきたときから始まる。「ソ連兵は、家の前にトラックを乗り付け、小銃を空に向けて発砲してから、衣類や万年筆、時計などを手当たり次第に略奪していく。女性と分かれば何をされるか分からない。だから、母は丸刈りにしていました」。わたしの母も平壌の収容所の中では毎晩のように襲ってくるソ連兵対策として丸刈りにしていた。ソ連兵の次は中国の軍隊が襲い、「人民裁判」と称して、多くの日本人が銃殺された。
その間のひどい経験を語って、最後に「戦争と終戦後の体験で、国民を保護すべき『国家』とは何なのかを考えさせられました。外交は相手のあることですから、思うようにいかないこともあります。国家戦略と外交を調和させ、うまく舵取りしなければ、国民は大変な不幸に遭う。これだけは伝えたいと思います」と結ばれている。流石に銀行家だけのことがあって、紳士的な表現であるが、そこに秘められているメッセージはすごい。

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