ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

ティリッヒにおける宗教的象徴の意義──組織神学の根拠について──(10)

1968-03-10 14:44:28 | 論文
<註> 第1部
10. ・Das religiosee Symbol, 1928, Blatler fur deutsche Philosophie. ・The nature of religious langage, The Chritian Scholar, 1955 ・Dynamics of faith, George Allen & Uuwin, London 1956 ・The meaning and justification of religious symbols, 1962
第1の論文は1929年に出版せられたRe1igiose Verwirk1ichungに再録されている。さらに1961年にロックフェラー基金の援助のもとにニューヨーク大学において開かれた哲学者と神学者とのシンボジュームのために、英訳されてあらかじめ配布された。そしてこのシンボジュームの結果、もう一度ティリッヒが宗教的象徴について論じているのが第4の論文である。それらは共に Ed.by Sidney Hook:Re1igious experience and Truth,New York Univ.,1962 に収録されている。さらに第1の英訳論文は Ed.by F.W.Di11ston:Myth and Symbol, SPCK.,London, 1966に再録されている。
第2の論文は1964年に出版されたティリッヒの論文集Ed.by R.C.Kimball:Theology of Culture, Oxford Univ.,New York,1964 に収められている。
11. 美学における象徴論については、Langer,S.K.:PiIosophy in a new Key,1942 矢野萬理、池上保夫、貴志謙二、近藤洋逸共訳:『シンボルの哲学』 岩波書店 参照
12. 「集団的無意識」 co11ective unconsiousness
ユングは我々の心の奥底には個人が経験したもの以外のものがひそんでいると考えた。それは人類の先祖たちの経験によるものであって、同じ血を引く人間に共通するものである。彼はそれを「集団的無意識」と呼んだ。従ってそれは個人的な無意識よりもより根本的な普遍的精神である。(1)
フロイドが象徴を個人の過去の経験に帰したのに対して、ユングはそれをこの集団的無意識に帰した。さらに彼は夢とか神話等の集団的無意識に基づく諸現象を「基本的宗教現象」であるとした。(2)
13. Nico1aus Cusanus(1401-64)
主著 De docta ignorantia,1440 において、絶対的真理は一、単純、無限であって人間には知られ難いから「無知の知」(docta ignorantia)こそ精神の到達し得る最高の段階である。われわれが「対立の一致」(coincidentia oppositorum)である神を見出すのは直観すなわち「無知の知」によるということを展開している。
ヤスパースも Niko1aus Cusanus, 1964を著わし、一部には「クザヌス復興」を語る人々もある。(3)
14. 「悪しき汎神論」の実例として現在問題となっている「神の死の神学」を取りあげることが出来るであろう。ティリッヒはその新しい神学運動に対して、「何かが何かの中にある」というためには少<ともそれは何かの外にあるという可能性がなければならない、「単なる世俗とは世俗的神学の対象である世俗とどこが異なっているのか」これが問題である、と言う。(4)
15. Ernst Cassirer(1874-1945)
マープルグ学派に属する哲学者。数学的、自然科学的思考についての認識論的研究から出発し、Substanzbegriff und Funktionsbegriff,1910を著わして以来、象徴の概念に新しい意味を見出し、コーヘンの求めた「純粋認識の論理」に「象徴形式」という概念を与え、それを数学的自然科学の領域から文化の全領域へと拡大し Pilosophie der symbo1ischen Formen,1923-1925を著わし独自の哲学を樹立した。彼の独自性は従来の anima1 rationa1e(理性的動物) という人間理解をanima1 symbo1icum(象徴を操作する動物) と改めたことにある。(5)
S.K.Langer は哲学史を概観し、各時代の哲学を根本的に規定しているのはそれぞれの哲学者が無意識に前提としているいくつかの基本的概念であると言い、それを「創造的観念」と呼ぶ。現代の哲学を決定づけているそれは「象徴」であると言う。(6)
16. この点でティリッヒは哲学者ではなく神学者として自らの立場を主張する。(7)
17. KarI Jaspers(1883-)彼の「暗号」の概念を説明する彼自身の言葉を引用する。「実存としてわたしどもは神 ──超越者──に関係しています。そしてこの関係は、実存が暗号(Chiffer)または象徴(Symbo1)たらしめるところの事物の言語によって生ずるものであります。」(8)「形而上学を通じてわたしどもは超越者としての包括者の声を聞くのです。そしてわたしどもはこの形而上学を暗号文字として理解するのであります。」(9)「暗号は変化しつつ歴史をつらぬいている。カントも常に新たな驚きと畏敬で心情をみたす2つのものについて語っている。わが上なる星空と、わが内なる道徳律と。」(1O)
18. 1928年の『宗教的象徴論』においては宗教的象徴の型式(Arten)は2つの層に分けられ、一つは支持せられる層であり、もう一つは支持する層である。宗教の対象性は前者において設定せられている。それに対して後者はそれを支持する諸象徴が属する。そこで前者を「対象的宗教的象徴」と呼び、後者を「自己超越的宗教的象徴」と呼ぶ。さらに前者を4つのグループに分ける。
19. 「ことば」の本質に関しては松村克己「学としての神学──神学のロゴスの特殊性格──」が深い洞察をしている。普通「ことば」はロゴスと呼ばれるが.それは「ことば」の理性的側面であって「ことば」の根底には人格と人格の出会いを可能とするパトスがある。それが「ことば」の象徴性である。しかしそのパトスがロゴスとなるときに理性的となり象徴性を失う。なおこのことは、速水敬ニ『ロゴスの研究』はすぐれた研究である。(11)
20. 象徴と信条、これら2つの語は欧米語においては共にSymbo1である。この語はギリシャ語の     に由来し、もともとの意味は「結び合せられたもの」であり、ある集団に属していることを証明する認識標を意味していたと思われる。(12)この語を洗礼告白文に対して最初に使用したのはテルトリアヌスである。(13)
21. このような認識の根底には論理としての神学の限界と説教の重要性との自覚がある。教会に生命を与えるのは神学ではなく、説教である。そして説教とはキリスト論を語るのではなく、パウロの言葉で表現するならば、十字架につけられているイエス・キリストを人々の前に描き出すことである。(14)松村克己「キリスト論の構造と問題点」(1966)はこの点を鮮明に指摘している。
21. 「擬似宗教」 quasi-re1igions
ティリッヒの宗教の定義における一つの特徴は無制約的関心を要求する世俗的運動をも包括することとある。そのような世俗的運動は通常非学問的にpseudo-religionsと呼ばれることもあるが、厳密にはpseudoという語は意図的、欺瞞的類似性を意味する。それに対してquasiとは意図的ではなく、一致するいくつかの点に基づく純粋な類似性を意味する。(I5)

(1) 宮城音祢:「集団的無意識」の項、世界大百科事典 11、平凡社、1966 p.52
(2) C.G.Jung:Psycology and Religion: West and East,Bollinger Series XX,The collected Works of C.G.Jung, vol 11, 1963 p.39
(3) 渡辺守道:「ニコラウス・クザーヌスの生涯とその思想」 神学第28号 1965 p.114
(4) Future., p. 85
(5) E.Cassirer:An essay on Man, 1944 宮城音弥訳:『人間』 岩波書店 1953 p.37
(6) Langer,S.K.: Philosophy in a new key, 1942  矢野萬理、池上保夫、貴志謙二、近藤洋逸共訳:『シンボルの哲学』 岩波書店 1964 第1章
(7) ST1.,p. llff
(8) K.Jaspers : Einfuhrung in die Philosophie, 1954 p.44
(9) Ibid., p.47
(10) K.Jaspers: Weine Schule des philosophischen Denkens, 1964 松浪信三訳:『哲学の学校』 河出書房 1967 p.223
(11) 小山書店 1948
(12) Stephan Wisse: Bas Religiose Symbol, Ludgerus-Verlag, Essen, 1963 s.7
(13) 北森嘉蔵:『神学と信』 長崎書房 1943 p.70
(14) Gal.3:1
(15) Encounter., p. 5

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