第3章 神学的認識論に対する宗教的象徴の意義
組織神学が学問として確立するためには他の諸学問との関連性が明きらかにされねはならない。特に隣接する哲学や宗教の歴史学的、社会学的、心理学的研究を総合する宗教学との関連性に関しては全ての組織神学者は説明する義務がある。(1)(註29)しかし、それらのことについては、すでにこれまでの論述において明きらかにしているはずであるから、ここでことさら論ずる必要はないであろう。ただ、ここでは神学における認識論について宗教的象徴の意義を取り上げたいと思う。
カトリック神学において支配的な認識論である「存在の類比」(2)に対して、プロテスタント神学はそれを自然神学であるとして否定し、神認識をただ啓示にのみ限定した。古プロテスタント神学においては聖書即啓示という原理において再び自然神学化した。しかしカントの批判哲学の後、シュライエルマッヘルによってプロテスタントの立場における組織神学の試みがなされたけれども、方法論の不十分さの故に普遍的な宗教概念とキリスト教信仰とが十分に結合せず、神学における経験の重視とキリスト中心という2つの遺産が未結合のまま残された。
シュライエルマッヘル以後のプロテスタント神学はすでに論じたように「神の言の神学」として、普遍的な神認識は放棄せられ、ただキリストにおいてわたしに語る神の言にのみ関心を集中させた。しかしそのような「神の言の神学」の代表者であるバルト自身、『ロマ書』(3)以後『教会教義学』(4)に至る過程において、弁証法から類比へと移行していった。(5)
神について何か語ろうとするならば、たとえそれが神の行為についてであったとしても何らかの類比的思考なしには不可能である。その意味でパルトの「信仰の類比」(analogia fidei)(6)も意味がある。しかしバルトの「信仰の類比」という概念がもし「存在の類比」(analogia entis)を含まないとするならば、それに基づいて語られる言葉は主観的であらざるを得ない。故に認識論としては適当ではないと思う。
プロテスタント神学の意義はあらゆる直接的神認識を拒否するところにある。ティリッヒは自然神学的な「存在の類比」に対して、「構想の類比」(analogia imaginis)(7)という概念を立てる。これは神認識の概念ではなく、神表現の概念である。宗教においては芸術におけるのと等しく、出会いの対象を他の理性的諸科学のように直接的に指示し、表現することは出来ない。たとえその経験は直接的であってもその認識と表現は間接的にならざるを得ない。「構想の類比」とは表現をなさしめる現実的個人的経験とその表現との類比を意味している。従ってそこでは神は象徴的に表現せられている。それが宗教的象徴である。
宗教においては芸術におけると同様に認識は表現に依存している。表現によって認識は成立する。「構想の類比」とは神表現の概念ではあるが同時にそれは神認識の概念でもある。しかし順序は逆にされてはならない。宗教的象徴という宗教経験に基づく「神」の間接的表現を媒介として「神」認識は成立する。
芸術において作品の合理的解説はその作品が表現している現実を経験させるための補助になったとしても、その経験はその作品自体からしか与えられない。それと同様に宗教経験も宗教的象徴の解釈によってなされるのではなく、その宗教的象徴を通してなされる。聖書における「イエスの画像」は史的イエスの弟子たちがイエスの死後、彼らの存在を覆すような宗教経験を通して知った「キリストとしてのイエスにおける新存在の変革的能力の妥当な表現」(8)である。そして「教会史の全ての時代を通して教会と信仰者とを創造したのはこの画像である。」(9)従ってこの画像が人間に自己の現実性を啓示する「神のことば」である。「ことば」の根本的特質は人格と人格との出会いを媒介するものであって、単にロゴスとして客観化され得るものではない。「ことば」とは言葉において表現され得ない、言葉を超越するものの表現である。むしろ「ことば」を言葉として理性的に解釈するときに、その「ことば」は制限され、その言葉の背後にある真意は伝達されない。
ここに宗教的象徴をめぐって3者が立っている。ます第1に自らの宗教経験における対象の現実を伝達しようとしている者、第2にそれを受け取ろうとしている者が立っている。もし宗教的象徴をこれら2者間においてのみ理解しようとするならば、それは芸術作品と何ら異なるところはない。宗教的象徴において重要なことは伝達者の言葉が「神のことば」としてその主体が交換されていることである。つまり受け取る者にとって、その「ことば」を語りかけている者は単に伝達者ではなく、神である。これが宗教的象徴の特殊な構造である。しかしこの構造が明確にされないならば、聖書も、説教も空しいものとされてしまう。ここに宗教的象徴が神学に対して持っている決定的意義がある。
(1) ST1. p.21
(2) "analogia entis"
(3) Barth,K.:Der Romerbrief, 1 auf 1919
(4) Barth,K.: Kirchliche Dogmstik, Bd.1 1 auf 1952
(5) 佐藤敏夫:「パルトのアナロギア概念をめぐる2,3の論議」、神学第50号 東京神学大学 、1967 p.40
(6) "analogia fidei"
(7) "analogia imaginis", ST2. p.132
(8) Ibid., p.132
(9) Ibid., p.132
結び
この論文の論述を結ぶ段になって聖書の次の一句がわたしの心にある。
「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は。」(1)
福音は美醜や賢愚等の人間的な価値判断を超越している。従って「十字架の言」を愚かなものとしたギリシャ人には福音の力は実現しない。同様に「十字架の言」をサディズムとする日本人は福音を受け取ることが出来ない。その意味で本質的に「つまずき」を持っている。
しかし「福音を告げる者の足」はそうであってはならない。組織神学とは「福音を告げる者の足」である。それは美しければ美しい程その任務を十分にはたすことが出来る。もし「福音を告げる者の足」が醜くければ、福音の持つ本質的「つまずき」にさらに文化的「つまずき」を加えることになる。
「福音を告げる者の足」は美しいだけではなく、同時に有能でなければならない。いわばその美しさは手工芸品の美ではなく、実用品の美である。
水尾比呂志は人間の形成する文明には「美」を追求するものと、「能」を追求するものとがあり、その「美」と「能」を貫き、また統一する基本的性質は「健やかさ」であると言う。(2)
わたしはティリッヒの組織神学には「健やかさ」があると思う。ティリッヒが彼の神学的立場を12の境界線上に立つものとして述べているのは有名である。(3)境界線上とは不安定な状態ではあるが、一方に偏してしまわず相対立する2つの領域を展望することの出来る地点でもある。その線の上に立つためには何よりも無理のない自然さが要求せられる。「健やかさ」の反対の状態とは一方に偏した病的状態である。ある場合にはそこにも「美」はある。しかしそれは普遍性を持たない。最後にもう一度水尾比呂志の言葉を引用する。
「平凡な、当たり前の、常態の、平常の営みこそ、"健やかさ"の真骨頂だ。気付かれずに万物の根源にひそみ、静かにその生命を持続させる、つつましくも安らかな、それでいて比類なくたくましく確固たる性質。波風立たぬ静かな燃焼。平凡極まる推移。”健やかさ”とは、そういう力であり、性状である。」(4)
(1) Rom.10:15
(2) 水尾比呂志:「美と健やかさ」展望1月号 1968 筑塵書房 p.47
(3) 土居真俊: 『ティリッヒ』、人と思想シリーズ 日本基督教団出版部 1960 p.8f
(4) 水尾比呂志:Ibid., p.47
組織神学が学問として確立するためには他の諸学問との関連性が明きらかにされねはならない。特に隣接する哲学や宗教の歴史学的、社会学的、心理学的研究を総合する宗教学との関連性に関しては全ての組織神学者は説明する義務がある。(1)(註29)しかし、それらのことについては、すでにこれまでの論述において明きらかにしているはずであるから、ここでことさら論ずる必要はないであろう。ただ、ここでは神学における認識論について宗教的象徴の意義を取り上げたいと思う。
カトリック神学において支配的な認識論である「存在の類比」(2)に対して、プロテスタント神学はそれを自然神学であるとして否定し、神認識をただ啓示にのみ限定した。古プロテスタント神学においては聖書即啓示という原理において再び自然神学化した。しかしカントの批判哲学の後、シュライエルマッヘルによってプロテスタントの立場における組織神学の試みがなされたけれども、方法論の不十分さの故に普遍的な宗教概念とキリスト教信仰とが十分に結合せず、神学における経験の重視とキリスト中心という2つの遺産が未結合のまま残された。
シュライエルマッヘル以後のプロテスタント神学はすでに論じたように「神の言の神学」として、普遍的な神認識は放棄せられ、ただキリストにおいてわたしに語る神の言にのみ関心を集中させた。しかしそのような「神の言の神学」の代表者であるバルト自身、『ロマ書』(3)以後『教会教義学』(4)に至る過程において、弁証法から類比へと移行していった。(5)
神について何か語ろうとするならば、たとえそれが神の行為についてであったとしても何らかの類比的思考なしには不可能である。その意味でパルトの「信仰の類比」(analogia fidei)(6)も意味がある。しかしバルトの「信仰の類比」という概念がもし「存在の類比」(analogia entis)を含まないとするならば、それに基づいて語られる言葉は主観的であらざるを得ない。故に認識論としては適当ではないと思う。
プロテスタント神学の意義はあらゆる直接的神認識を拒否するところにある。ティリッヒは自然神学的な「存在の類比」に対して、「構想の類比」(analogia imaginis)(7)という概念を立てる。これは神認識の概念ではなく、神表現の概念である。宗教においては芸術におけるのと等しく、出会いの対象を他の理性的諸科学のように直接的に指示し、表現することは出来ない。たとえその経験は直接的であってもその認識と表現は間接的にならざるを得ない。「構想の類比」とは表現をなさしめる現実的個人的経験とその表現との類比を意味している。従ってそこでは神は象徴的に表現せられている。それが宗教的象徴である。
宗教においては芸術におけると同様に認識は表現に依存している。表現によって認識は成立する。「構想の類比」とは神表現の概念ではあるが同時にそれは神認識の概念でもある。しかし順序は逆にされてはならない。宗教的象徴という宗教経験に基づく「神」の間接的表現を媒介として「神」認識は成立する。
芸術において作品の合理的解説はその作品が表現している現実を経験させるための補助になったとしても、その経験はその作品自体からしか与えられない。それと同様に宗教経験も宗教的象徴の解釈によってなされるのではなく、その宗教的象徴を通してなされる。聖書における「イエスの画像」は史的イエスの弟子たちがイエスの死後、彼らの存在を覆すような宗教経験を通して知った「キリストとしてのイエスにおける新存在の変革的能力の妥当な表現」(8)である。そして「教会史の全ての時代を通して教会と信仰者とを創造したのはこの画像である。」(9)従ってこの画像が人間に自己の現実性を啓示する「神のことば」である。「ことば」の根本的特質は人格と人格との出会いを媒介するものであって、単にロゴスとして客観化され得るものではない。「ことば」とは言葉において表現され得ない、言葉を超越するものの表現である。むしろ「ことば」を言葉として理性的に解釈するときに、その「ことば」は制限され、その言葉の背後にある真意は伝達されない。
ここに宗教的象徴をめぐって3者が立っている。ます第1に自らの宗教経験における対象の現実を伝達しようとしている者、第2にそれを受け取ろうとしている者が立っている。もし宗教的象徴をこれら2者間においてのみ理解しようとするならば、それは芸術作品と何ら異なるところはない。宗教的象徴において重要なことは伝達者の言葉が「神のことば」としてその主体が交換されていることである。つまり受け取る者にとって、その「ことば」を語りかけている者は単に伝達者ではなく、神である。これが宗教的象徴の特殊な構造である。しかしこの構造が明確にされないならば、聖書も、説教も空しいものとされてしまう。ここに宗教的象徴が神学に対して持っている決定的意義がある。
(1) ST1. p.21
(2) "analogia entis"
(3) Barth,K.:Der Romerbrief, 1 auf 1919
(4) Barth,K.: Kirchliche Dogmstik, Bd.1 1 auf 1952
(5) 佐藤敏夫:「パルトのアナロギア概念をめぐる2,3の論議」、神学第50号 東京神学大学 、1967 p.40
(6) "analogia fidei"
(7) "analogia imaginis", ST2. p.132
(8) Ibid., p.132
(9) Ibid., p.132
結び
この論文の論述を結ぶ段になって聖書の次の一句がわたしの心にある。
「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は。」(1)
福音は美醜や賢愚等の人間的な価値判断を超越している。従って「十字架の言」を愚かなものとしたギリシャ人には福音の力は実現しない。同様に「十字架の言」をサディズムとする日本人は福音を受け取ることが出来ない。その意味で本質的に「つまずき」を持っている。
しかし「福音を告げる者の足」はそうであってはならない。組織神学とは「福音を告げる者の足」である。それは美しければ美しい程その任務を十分にはたすことが出来る。もし「福音を告げる者の足」が醜くければ、福音の持つ本質的「つまずき」にさらに文化的「つまずき」を加えることになる。
「福音を告げる者の足」は美しいだけではなく、同時に有能でなければならない。いわばその美しさは手工芸品の美ではなく、実用品の美である。
水尾比呂志は人間の形成する文明には「美」を追求するものと、「能」を追求するものとがあり、その「美」と「能」を貫き、また統一する基本的性質は「健やかさ」であると言う。(2)
わたしはティリッヒの組織神学には「健やかさ」があると思う。ティリッヒが彼の神学的立場を12の境界線上に立つものとして述べているのは有名である。(3)境界線上とは不安定な状態ではあるが、一方に偏してしまわず相対立する2つの領域を展望することの出来る地点でもある。その線の上に立つためには何よりも無理のない自然さが要求せられる。「健やかさ」の反対の状態とは一方に偏した病的状態である。ある場合にはそこにも「美」はある。しかしそれは普遍性を持たない。最後にもう一度水尾比呂志の言葉を引用する。
「平凡な、当たり前の、常態の、平常の営みこそ、"健やかさ"の真骨頂だ。気付かれずに万物の根源にひそみ、静かにその生命を持続させる、つつましくも安らかな、それでいて比類なくたくましく確固たる性質。波風立たぬ静かな燃焼。平凡極まる推移。”健やかさ”とは、そういう力であり、性状である。」(4)
(1) Rom.10:15
(2) 水尾比呂志:「美と健やかさ」展望1月号 1968 筑塵書房 p.47
(3) 土居真俊: 『ティリッヒ』、人と思想シリーズ 日本基督教団出版部 1960 p.8f
(4) 水尾比呂志:Ibid., p.47