ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

溝口靖夫「松山高吉におけるキリスト教と神道思想との接触」

2017-09-30 10:15:52 | 論文
溝口靖夫「松山高吉におけるキリスト教と神道思想との接触」
(NCC宗教研究所、「出会い」1966年11月)
(註:読み易くするため、句読点、ふりがな等、原文の格調を落とさない程度に手を加えています。縦書きを横書きにしたため、和数字はできるだけ半角数字に置き換えました。)

1.問題の所在

<省略>

2.入信の次第

<省略>

松山高吉は越後糸魚川の人で、弘化3年(1846年)12月10日、松山良輔の男として生れ、幼名を順平、俗名は泰治、後、高吉と改め、担庵と号した。松山家は代々藩の政治に参与し、漢学詩文をもって世に知られ、父は国風を好んだ。高吉も幼少の頃より漢学とともに国学を学び和歌を詠み、やや長ずるに及んで、真淵・宣長等の著に親しんだ。後、平田の門に入り、その子鉄胤に師事して篤胤の学を研究し、21才のとき郷関を出て尊王攘夷のため奔走し、明治2年京都に上り、白川家学館にあって国史並びに律令格式等を攻究し、又神山四郎について経学を修めた。同年11月白川千代麿とともに京都をたって東京に行き、白川資訓淵神祇大副の邸に寓し、明治4年黒川真頼博土の家に同居し、専ら国学を学び、傍ら伊能顕則によって和漢の史伝を研究したのである。また小中村清規、権田直助らと交わりを深くしたという。松山が師事した平田鉄胤や権田直助等は明治政府の神祇官の設置にあたり、招かれて神道国教政策の採用に活躍したものである。松山の一生を通じてその影響がいかに大きかったか想像に難くない。
次に入信の動機は、神戸においてグリーン(アメリカン・ボード宣教師、組合教会)の許でその感化を受けたことであるが、もともとグリーンに近づいた動機はキリスト教を邪教と考え、これを探る目的であったことはかなり有名である。明治5年、神道家の松山は耶蘇教の国害をなすことを憂い、それを防ぐには、先ずこの教えを知らねばならないと考え、朝野の共と計り、ひそかに東京を去って神戸に赴いた。故にその名も関貫三と変えて、つてを得てグリーンのもとヘ英学を学ふためということで入り込んだ。それが明治5年11月19日で、松山が27歳のときであった。

<省略>

松山高吉は こ の様な伝道の雰囲気の中で、グリーンと親しく交わり、キリスト教について学ぶにつれ、その真理を知るに至り、遂にキリスト教を信奉する決意が固められた。
高吉の息女初子女史の語るところによれば、とりわけ、聖書の「汝の父母を敬ヘ」(申命記5:16) という教えと、十字架上のイエスが母マリヤのことを弟子達に託されたことにいたく感銘し、キリストに心惹かれたようである。
かくて、明治7年4月19日、グリーンより洗礼を受けた。その日洗礼を受けたものは11名で、この時はじめて教会を組織し、摂津第一神戸基督公会と称した。当時の模様は次の如く記されている。(註:摂津国、令制国の一つ。現在の大阪府北部および兵庫県南東部に当たる)。

「明治6年の末、もしくは7年の初めから、神戸に於ける求道者の信仰益々進み、教会組織の希望も愈々熟して来たが、初春一夕、5~6名の青年男子と1名の婦人、グリーン宅にて祈祷会を催したるに、祈祷後、話は端なく教会組織の事に及び、茲に熱議を遂げて公会の主意信仰の筒条、兄弟の約束、公会の規約等の編成に着手し、漸く4月19日に至って洗礼、聖餐の2大礼典を挙行し、互に教会の設立を見るに至った。松山高吉、前田泰一、鈴木清、小野俊一、佐治職、太田源造、北村元広、市川まつ、甲賀ふじ、小山りき、太田とらの11名グリーンより受洗し、教会を名づけて『摂津第一基督公会』(現今の神戸教会)と称し、グリーンを推して仮牧師となし、前田を挙げて会長とした。これ実に日本組合教会の先登第一であって、該教会が関西に雄飛する基督がここに築かれた。
この日集会者の数150、関西地方未曾有の盛会であった。松山高吉は起って洗礼の性質を説明し、又信仰箇条の朗読及び説明をなし、次で一同洗礼を受け、その後彼は再び起って公会の規約を朗読説明した。これに於て前田泰一、一場の感話をなし、次で一同聖餐式を守った。この際当事者は勿論傍観者に至るまで深き感慨に満され、松山の如きは朗読説明中始んど自失した位であった。この夜グリーン宅に祈祷会を催したが、会するもの20余名、信者の信仰益々振い、求道者の熱心愈々その度を加ヘた。
当時は基督公会の看板を掛けざりしものと見え、明治8年頃出版の『真教の緒』と言う書の末に、説教の広告に『日躍の講釈場所、摂津神戸元町5丁目本屋にて、大阪川口梅本町本屋にて、共に日曜日午前9時半、午後3時より』とあった。
松山は越後糸魚川の人、元神道家であって、和漢の学を修めてたが、神戸にグリーンに邦語を教授する傍らこの教を研究して、遂にその真理を悟るに至った。
前田は前に慶応義塾の生徒であった時、偶々福沢諭吉危篤の病に罹り、これに同座せる小幅篤次郎に向い、『バイブルでも読まうか』と言った事を聞き、宗教の必要を感じ、聖書研究の念を起し始めたとの事である。」

神戸における公会設立の端緒となった明治7年初春のグリーン宅における祈祷について、デビスは「一夕われわれはグリーン氏宅に集って皆で祈ったが、これはわれわれが日本人のキリスト教の祈りを聞いた最初のものであり、忘れることのできない光景であった」と言い、洗礼のための手続きとしては、新しい教会の基礎を広い性格のものにするために、信仰箇条ヘの同意ということを条件としないことにし、ただ信仰上の質問をし会員の約束をなさしめることとした。その約束の内容も後年までも余り変ることなく、組合教会の規約に取り入れられたものであった。そこでデビスはこれにコメントをつけて、「この規約に見えるところでは最初から強調点は教会員の責務として福音を拡めることにおかれていた」といっている。
神戸教会の会員は最初の年倍加した。デビスは上述に続いて1875年(明治8年)春次の如く言っている。「教会員は今や男子20名女子12名計32名になった。これら22名の内13名は教会員になったときから御言の説教者であった。ミッションにより助力者として給料を支払われてではなく、自費で聖日と週日に説教に出かけた。即ち、定例の週毎の説教は5ヶ所の別々の場所で、また月例の説教はその倍ほどの場所で行われた。 彼らは徒歩で行くか、または馬車賃その他の経費は自分の貧しい収入の中から支払い、外国からの金銭をことわったのである」。

神戸につづいてその翌月大阪では梅本町公会 (現在の大阪教会)が明治7年5月24日に受洗者15名、転入会者2名の17名をもって誕生し、三田でもまた、明治8年7月27日16名(男7名女9名)の受洗者をもって教会が設立されたのである。摂津三田基督公会がそれである。
教会設立後、松山は中心的な力となって教会のため奉仕した。またグリーンにとっても邦語教師として親密な関係をもっていた。当時グリーンの眼に映じた松山は次の様であったという。
「慇懃にして教養の高い…… 稀にみる国学の学識の深き紳士であって、支那語の聖書やその他の基督教書類より短日時の間に於て、かくも深く基督教の知識を得られたることは驚嘆に値する。」

3.公的活動
これより松山高吉のキリスト者としての公的生涯が始まるのである。松山はその長い生涯において、あるいは聖書の翻訳者として、あるは教師として、あるは教育者として諸方面に活動しているが、本稿ではその全貌を描くことはできないので、以下簡単にその活動の概略を瞥見するに止めたい。
これより先き明治5年5月20日、日本在留の諸ミッション合同のいわゆる第1回宣教師会議が横浜のヘボン会堂で行われ、この会議において新約聖書の共同翻訳の事業が計画され、この委員としてはブラオン、ヘボン、グリーンの3名及び、協力者として、奥野昌綱と松山高吉の2名が加わり、後、更に高橋五郎がこれに加わり、助力した。
翻訳の方法としては、ジェームズ欽定英訳本を参考にし、ギリシャ原文を底本としたが、宣教師達は日本語に熟達せず、また当時日本人にはギリシャ原語を解する者がいなかったので、宣教師が不完全な日本語で原文を口訳するのを、日本人側が漢訳の旧新約聖書や、多分それ以前に存した和訳聖書等を参照して翻訳したのである。そのため国文に精通したものが要求されて、奥野や松山らが先ず助力者として選ばれたのである。
松山の国語力の素地が得られた閲歴については前述の如くであるが、彼自身が選ばれる以前に、彼は1~2の者を推薦している。第1の者は佐藤誠実といい、松山が明治4年東京で黒川真頼博士の宅で国史国文を研鑽中の同学の友であるが、当時のことを松山は『聖書日本訳概言』中に次の様に言っている。

「明治の始めは未だ旧夢全く覚めず、切支丹邪宗門の禁制は国民の頭脳に附着して去らず、耶蘇の名を聞くだに忌み嫌いたり、殊に学識ある者、別して国学者の輩は外教を憎悪し、耶蘇教を国害と見倣すが故に、この国学者中には聖書翻訳に尤も要用なる語学の鮮なからねど之を近づくる方なく文に親しむ道なし。余と同学の友に佐藤誠実という人ありき。この人曽て米人の招聘に応じて横浜に到り聖書の翻訳を助けしが、耶蘇の名の出づる毎に憎悪の念を生じ、十字架の記事に不快を感じ、怏々(おうおう、楽しまない様子)として楽しまず遂に断然辞し去りたりと余に語れり。これは余がまだ基督信徒とならざりし時に、束京に在り黒川真頼博士の宅にて国史国文を共に研鑽なし居りし頃のことなりき。されば明治の初年なりしならん。米人と言へるはヘボン博士と想はる。佐藤氏は温厚篤実の士にて後に文科大学の講師となり、文学博士の学位を受け、帝国学士院会員に勅選せられたる人なり。翻訳の為には惜き心せらる……」

その他既に翻訳委員会の翻訳事業が始ってのち、松山は黒川真頼に依頼し、その斡旋にて三輸義方という人を横浜に招聘し翻訳事業を共になした。その人は通称彦輔といい、国学は井上文雄の門に学び、また伊庭秀賢について歌を習ったのであるが、「是亦次第に耶蘇教に厭忌を生じ1年を経ざるに辞去するに到る。この人も横浜を去っ後、元老院の書記となり、また女子高等師範の教授となれり」と。松山ら邦人側の苦心は、その用いた日本語において一般性をもちながら、しかも荘重さをもつ訳文体を生み出すことであった。松山の言葉をもってすれば、「普通にして卑俗ならず、かつ荘厳をも失はざらん文体をこそ作らめと夙(つと)より心構へせり」。
かくして5年6ヶ月の後、明治12年11月3日邦語新約聖書の和訳は遂に完成したのである。当時翻訳委員の一人として協力したマクレー(R.S.Maclay)がアメリカへ送った通信には次の様に報告されている。

「忠実なる松山氏が承認済となった翻訳の1番最後の1句を読み了ったのは、1879年(明治12年)の12月2日午前11時39分であった。それからグリーン博士の発言で委員会の長老ヘボン博士と松山氏とで、委員会がその訳業を完するに至った全能の御神の特別なる御隣みを衷心より感謝した。」

松山は明治13年4月神戸公会から招かれて6月4日同公会において、デビス、新島襄らから接手礼を受けて牧師に就任した。創立以来グリーン、デビス、アッキンソンの三宣教師はいずれも仮牧師であったので、松山が初代牧師として迎えられたわけである。それから、明治17年、植村、井深とともに旧約聖書の日本側翻訳委員に選ばれ、神戸公会を辞して東京に移り、ヘボン、ファイソン、フルベッキらの外国側翻訳委員とともに翻訳事業に従事し、同20年10月末に完了した。なお神戸公会は最初の摂津第一神戸基督公会の称を19年11月神戸基督教会と改めた。
松山は明治20年初め京都の西京第三基督教会(平安教会)——明治9年設立——より招かれていたが、7月これを受諾し、同年夏詩篇の校正を完了して、12月2日同教会の牧師に就任した。これより先き、明治19年一致、組合両教派の共通讃美歌の編集委員がつくられた時、この委員に選ばれてその仕事に取りかかっていたが、20年11月以後大阪に留ってこれに従事し、これは明治21年「新撰讃美歌」として完成した。その間毎週土曜日から月曜にかけて京都に行って説教をしていたが、22年2月には京都に転宅した。
明治22年、同志社社員となり、平安教会牧師の傍ら、同志社で倫理学を担当した。
明治23年4月、日本組合教会伝道会社の組織が改められ、新たに社長がおかれたとき、松山はこれに当選し、新組織の基礎成る迄の約束で社長の任を引受け、達せられたので数ヶ月後23年9月これを辞し、平安教会の請により仮牧師となった。
明治24年9月には平安教会を辞し、同志社の教育事業に当ることとなり、神学校で神道及び日本宗教史、政法学校で日本政治史、普通学校では国史国文、女学校においては日本文学史、物語類、理科学校に工芸史を教授した。
明治25年4月、同志社資産管理委員に就任、29年6月同志社教職を辞して平安女学院に聘せられ、同学院の普通部高等部で倫理、国史を教授し、同時に聖公会に転じた。同年聖公会の讃美歌委員に選ばれ、34年8月古今聖歌集を完成した。
明治32年5月より再び同志社の教職につき、普通学部、高等学部の倫理及国文を教授して39年4月に至った。
明治33年4月、同志社理事に就任、同年秋、連合讃美歌編集委員に選ばれ、その努力の結果、36年11月に各派共通の『さんびか』として完成出版された。
明治39年11月より12月まで同志社社長代理を勤めた。
明治43年4月、新約全書改訳委員に挙げられ、3度聖書の翻訳事業に従事し、これは大正6年2月完了した。大正8年3月英国聖書会社名誉委員に推薦せられ、昭和2年12月米国聖書会社終生名誉会員に推薦せられた。昭和4年6月夫人を失い、その頃より健康が衰えたが、よく長寿を保ち、昭和10年1月4日90才で昇天した。

4.諸宗教の理解
松山が神道家出身でキリスト教に入信した経過については既に述ベた如くであるが、キリスト教の信徒となり殊に教師となって後の宗教思想について一考したいと思う。
松山はキリスト教信徒となった後も、伝道上の特殊使命として、神道に対する関心を失うことなく、これに対する正しき理解の必要を絶えず高調しているのである。これは彼のキリスト者、特に伝道者としての公的生涯に一貫して認め得ることであり、且つその所論も終始始ど変っていない。
松山が終始高調するのは、創造神の信仰であった。これは周知の如く、平田篤胤が神道神学にもたらした重要な宗教思想であって、松山はこの伝統の上に立っている。平田篤胤の神道思想史上における業績は、キリスト教の神観念に基いて、日本の古典を再理解した点にある。すなわち、すでに近時諸家の研究により明かなように、篤胤はマテオ・リ ツチやアレニ(G.Aleni)らの著になる教理書に接し、それによりキリスト教の神観を知り、これを基として古事記と日本書紀の天之御中主神に新たなる意義を認めたのであって、これは正しく文化人類学の用語で言う re-interpretation (再理解)の現象であると言い得る。
筆者(溝口)の父、貞五郎が筆記した松山の同志社神学校における講義録『日本宗教史』が手許にあるが、それによれば、日本宗教史はその沿革上、次の7期に分けることができる。
第1期古来の固有宗教、第2期神武以後の宗教、第3期崇神以後の宗教、第4期儒教伝来以後、第5期仏教伝来以後、第6期両部神道及唯一神道、第7期近世及近代の各宗教。
第1期の固有の宗教としては、それはもと教祖や経典をもたぬ無名の宗教であったとし、宗教という名もなかったが、その実が存していた。松山の同志社神学校におけるもう一つの講義録『神道』にも同様の問題が取扱われているが、それに日く、
「神道といえば日本の教にて支邦の儒教、印度の仏教の如く従来本邦にありたる一種の教と聞ゆれど既に緒言にもいえる如く本邦には教なきにあらねどそれは只自然なる教なれば以心伝心に伝われるのみにして世に謂う教めきたるものあるベきようもなく神道など称うる名称のあるベきようもなし。かかる名称は遥に後世となりて外国にて何の道、彼の教などいうに倣いて作り出せるなり」
と言い、次に日本の太古の人は造化神を崇祀したことを説いている。
「我国人は太古は造物主を崇祀せり。古事記の首に記して日く、『高天原に成坐る神の名は天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神云々』、高天原とは天を言い、天之御中主神は天に坐して宇宙を主宰し給うことの謂い、高と神は尊称して加えたるものにて産巣日は万物を創造するの謂いなり。この三神はその功徳を分ちて称呼せるまでにて、その実は一神なり。而して目見るベからざる神なれば同書に日く、『此三柱の神は隠身(かくりみ)に坐ましき』とは記したりき且つ其造物主なることは御名の意義にて知らるるのみならず太朝臣安麻呂が同書の序に、『参神作二造化之首』と言えるにて明なり」。

こうして松山の理解によれば、太古日本人は造物主を崇拝祭祀したので、神の名は多くあったが、多くの神を拝しなかったとしている。すなわち、
「古史を繙けば種々の神ありて神の名をもってその大半を塡む(うむ、意味は埋める、はめる)。されど悉くその神を崇拝祭祀せる事は見えず。そは当時の神は即ち人なれば後に至りてこそ神てふ語に誤まられて祭る事をもしつれ、当時の人は自らも神と称え人をも神といふ。また時としては或物をも神と言えるは常にして後世言ふ所の神と自ら区別せられ誤ることなかりし故なり。今の人の有つが如き神の観念は太古の人には彼の造物主を除くの他はあらざりき」。
(註:ここは非常に重要な点なので、およそのところを現代文に言い変えると次のような文章になるであろう。
「古代史を調べると、そこにはいろいろな神が登場し、それらをまとめて「神」という名で呼んだようだ。しかし、それらをすべて拝んだという形跡は見られない。その当時の人たちにとっては、神のような人を神と呼ぶこともあり、それらが後代において誤って神という名で祀られることもあったであろう。また時にはある物体をも神としたこともあるが、それは後代でいう神と混同されてはならない。現在の人びとが抱いているような神観念は、古代人においては『造物主(創造神)』意外ではあり得なかった」。)

今われわれにとって最も関心を惹くものは、この第1期であって、松山によれば、わが古代民族の信仰は造物主ヘの信仰であった。
しかして第2期に天神地祇を祭ることが始められ、第3期に宮を造り、また鏡をもって天照大神として祭ることが始った。これより「他日無霊無活の物質をもって神とし崇め祭ることの出て来る作俑(さよう)となれり」といっている。(註:作俑(さよう)とは殉死者の代わりに地中に埋めた木製の人形)
次に第4期は儒教伝来後であるが、
「固有宗教は第3期に至り種々変遷して巳に古昔の状態を失ふに至りたれども能く君に仕え親を愛し夫婦相和し兄弟相睦ぶ等の固有順朴の風俗は全く滅却せすその行為の名目は尚存せざりしがその実は行はれて家人の重んずる所なりき」。
「如期上帝を崇拝しあた功の人を祭り祖先を祭り天地の群神を祭る等能く我2期以後の宗教に類するところあり。かつ儒教の本色は巳にいえる如く倫理を説き政治を述ぶるにあれば表面上我が固有宗教には手出せざるものの如し。故に間接には彼の習俗を移し愈々上古の風を失ひ虚飾に化して純朴の俗を損せし等その弊少からず。されど直接には神祭及その他の事にも甚しき変化を現はさざりき」。
と言い、また
「儒教の道徳社会に益なきにあらず。忠と言ひ、義と言ひ、孝と言ひ、仁上言ふは彼が蝶々するとこるのものなり。大雀命(おおさざきのみこと)、宇遅能和紀郎子(うじのわきいらのこ)の譲位の如き、仁徳の高台に登り炊姻の起らざるを見て、(中略)遂に詔して三歳の課役を除き給える如きは則儒教の結果といはざるベからず。左れど儒教の起源は己に前述せし国情によりてなりしものなればその言善ならざるにあらずと雖も実際に至りては日本固有の精神を損耗し古来の信仰を薄弱ならしめたり。口に忠孝を唱ヘ形に仁義を装ふと雖もその実行に至りては不言不語して信仰の至誠より発して動きたる昔時には及ばずなりにき。故に後宮乱れ権臣威を振ふて皇室式徴せり。この時に当りて仏敦渡来せり」。

これが松山の儒教に対する歴史的な理解の根本的な性格である。しかして仏教については、それが受容された社会的条件を次の如く理解している。
「固有の自然教は祖先を崇め祖先を尊び能くその徳を懐ひその威を懼るると雖来世にかかる想念はなく唯現世の壌禍迎福及謝恩の祭に止まり儒教もまた現世のことの外に出でざれば、当時の人心を満足せしむること能はず。しかるに仏教は過去現在未来に亘り、その説玄妙その旨空高而のみならず誦経称名によりて罪障消滅現世安穏未来福徳を得、かかる結構なる教は世に来らず、人智梢進み現世のみにて満足し能はず、心念を未来に及ぼさんとする当時の世には最も適当したるものというベし」。
しかしながら、その時、仏教は神道と習合し、両部神道時代となり、更に唯一神道が現われたが、これも「唯一は只両部に対するの称にして神仏混合せざるの謂なり。故に其社に仏を設けず、また僧を置かざりき。されどその書状を見るに多くは仏臭を帯びて糟粕を嘗めしものの如し」といい、「かく唯一も種々に変化し、その派一ならず、されど之を要するに一は仏意、一は儒旨によりて成立せしものなるに過ぎず」と言って、キリシタン到来以前の宗教界は我国固有の宗教が儒仏により着色せられて不純のものになっていたと見るのである。
この時来たのがキリシタンであったが「天主教は神仏二教の世に厭をまねきし際に渡来したれば、その伝播の早き事春水横満するが如くなりしも、武断政治の法制は遂に争ふ能はず。さしも盛りに見えし天主教も跡をかくして再び世に出でずして200有余年の長日月を経過せり」と説明している。

これを要するに、松山の日本における諸宗教の理解としては古神道の立場に立つものであり、「固有の朴直純美の風」にかえるべきことを説くのである。
最後に、これら固有の宗教意識に対して、キリスト教は如何なる意味をもつものであるかについて、これを「真の光」として理解する。即ち、明治24年の『日本の神道』という論文の中で次の様に述ベている。
「大和魂は朝日に匂ふ美はしき愛たきものにはあれど諸種の罪汚れを細かに分つ光にはあらず。この光は基督なり。聖書約翰(よはね)伝1章4にいはく『之に生ありこの生は人の光なり』、またいはく『それすべての人を照す真の光は世に来れり』と。この光は遍ねく世界を照しめぐりて罪悪と汚穢との既に顕露れるとまだあらはれざるとに関はらず大と小とを問ず悉く逐退ぞけんとするの勢力を張れり。……そは世の罪悪汚穢は日本の本質たる固有の美を害ひその罪悪汚穢を照して之を除き去るは真の光にあればなり」。
「我が日本固有の自然宗教は既に述たりしごとく甚しき卑猥なるものにあらず。その当時に及ぼせる感化は美はしかりき。後世名けて考悌忠信など唱ふる美称の実物はみな太古にはやく結ベる果なり。かかる類ひの美きこと善ことは基督教の悪む例にあらず。唯に悪まざるのみならず、常に之を念ひ之を追索めて止ず。もし之に遇ば悦びうけてその愈々発達せんことを望みその光栄の増加らんことを勉むるなり(テサロニケ前5:22引用)。されば基督教は他の宗教の如くその宗派に付着せる儀文虚礼を担ひこみてその国の善俗美風までも逐退ぞけんと企つるものにはあらず」。
「われ朝に夕べに祈りて止ざるは真の光の隅なく我が日本を照して、国を毒し民を禍ひする罪悪汚穢を悉く駆逐し卑俗悪風を除却して日本特有の忠愛虔誠等の慕ふベく敬ふべきものを愈々成長発達せしめ、太古よりの美風善俗を復興し日本は日本にて日本の光栄を宇内に輝さん是なり」。

5.問題の理解
以上で松山におけるキリスト教と神道思想との接触の様態の概要を述ベたが、簡単に問題点を客観的に理解したいと思う。この点についてはすでに戦前、故魚木忠一教授がその著『日本基督教の精神的伝統』において論じたところであり、松山のキリスト教の精神体験は日本人特有の神道的背景からのアプローチの類型に属する。その点で今後多くの日本人が日本人特有の精神的伝統をもつものとして、キリスト教に近付く場合、またその様な教養の中に育った日本人に対する伝道において考うベき問題を示唆するのである。問題の要点は松山の神道に対する理解の仕方がキリスト教の信仰といかなる関係にあるかということである。魚木教授は「松山氏もまた篤胤の流を吸むものであるが、習合的宗教を立てることなく、神道は神道として純粋な本質を保つことを正道と考え、古伝を中心として基督教に触発したのであった」と言っている。たしかに松山は最後まで忠実なるクリスチャンとして殊に牧師として、習合的新宗教を立てるなどのことをしなかった点疑いない。ただし、上述の神道に関する諸見解の焦点とも見るベき天之御中主神の理解がキリスト教の信仰といかに関わるかが問題である。
即ち、
「我が日本上代の神は、宇宙主宰の独一の真神にましまして、決して人畜鳥虫を祀れる劣等の神にあらず、敦れの国に持出すとも、如何なる人に教ふるとも後退をとることのない尊い立派な世界的の神を我等の祖先は信じて居った。誠に喜ぶベきであり、誇るベきである。この神こそ世界の創造者また人類の造主、愛護者でましますから天御親(あまのみおや)の神と申し上た。之は基督教にて天父と称すると同意義であります。彼此照合すれば、興味津々として竭(つ)きません」と言っている点に問題が提起されている。
ここでこの問題理解に必要な諸角度について考えるならば、これはまさに、キリスト教信仰と神道的信仰乃至思想との接触の問題が集約されたものと見ることができるのであって、多角的研究を必要とするものである。たとえば、先ず、文献学的に古事記、日本書紀の成立及び思想の源流、字解等の問題で、古事記冒頭の天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神の三神の文学的・宗教学的・宗教哲学的
理解及び歴史的に当時の社会政治体制や著者自身の思想及び民族信仰との関係などが問題となる。即ち、古事記冒頭の記事がはたして宇宙の創造者としての唯一の神の思想を意味したものか。この点では、この冒頭の箇所の字解や、古事記、日本書紀等にあらわれた世界観、神観等の全体系からの理解や、また「かみ」「 みこと」などの言葉の語義の考察——この点ではいわゆる語義発達学(semantics)からの考察が必要となる——次にこの思想と中国思想との関係で、どこまで日本人の独自の思想が反映されているか、またその記事が日本宗教思想中上どのような意義をもって来たか、また、この三神の理解の歴史等が基本的である。その上で、キリスト教との接触の仕方が問題となるので、先ず歴史的に、問題史的な理解が要請され、次に比較宗教学的及び神学的考察となる。これらの諸アプローチは、それそれ膨大な研究を必要とすることであり、今ここにこれを取扱うことは筆者の研究領域及び本論稿の紙数の制約等から不可能であるが、ただ現在の時点において筆者の理解するところの問題点を要約すれば、古事記冒頭の三神の理解において、宗教学上の客観的な理解と神学的な理解とを混同することは妥当でないということである。比較宗教学的には世界の諸宗教または神話等において造化神的存在の思想はキリスト教に限られたものではない。日本の古典の場合も明かにこれの例外ではないのであって、この様な記事があるということは、世界の諸宗教研究上無視することのできない重要性をもっている。これを宗教哲学的に理解する場合、過去においてだけでなく将来においても、尚理解の発展性の余地は充分に考えられる。これはいずれの民族神話においても同じである。そこで一つの宗教の信仰の対象の問題は、その宗教の全体から判断さるベきものであり、古事記、日本書紀の場合も、その全体系及び神道といわれるものの全体から論ずベきものである。たとえ一つの重要な場所に一つの文章があったからといって、それだけを切り離して、それを中心に民族の宗教思想を論じることはできない。ましてそれが長い間民族の信仰の中心的関心とならず、他宗教との接触の結果新しく、その意義が理解されて来たという場合には、その思想は注意深く取扱われなければならない。すなわち一つの宗教の信仰内容は、歴史的現実に照らして実証的に考察するのでなければならない。
次に、この問題の神学的考察の仕方は、キリスト教の福音と請宗教との関係に換元されるのであって最近ではクレーマーなどがこれに肉迫したところである。その焦点は福音と諸宗教との間の連統・非連統の問題となる。われわれは根本的にはクレーマーも言うように、その間に非連続を考えなければならない。すなわち、単に固有宗教の体験がキリスト教により触発されたというような理解で終る
ものでなく、接触とともに根本的に変化するという、つまりサウロが復活のイエスとの出会いという体験により根本的に変えられたように、福音は出会うところのすベてのものを否定的に更新させる。その非連続の連続という弁証法的関係を、日本人の固有宗教体験との間に認めなけれぱならない。
神道を媒介として入信した松山高吉の信仰及び伝道上の焦点が固有宗教の解明に向けられたであろうことには、大いなる意義がある。パウロの「そこであなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう」(使徒行伝17:23)という伝道態度を、松山の前述の「真の光」の思想に認めるものである。
松山がわれわれに残した信仰の遺産に邦訳聖書と「わがやまとの国をまもり」(現行讃美歌415)、ほか2~3の讃美歌(現行59、440及び「あまつみくらに」(旧讃美歌413)等があるが、その中特に讃美歌は現在も同胞の間に親まれている。しかしてそれらはひとしく、彼の愛国の至情とキリスト教の信仰とが一つに結晶したものにほかならない。彼が生涯を通じて取り組んだ日本人としての信仰の体験及び主張は、日本人のキリスト教体験において、またキリスト教の日本への土着化において、一度は必ず通らなければならない厳しい狭い門を指し示しているものと思う。

註:この論文には丁寧な出典、註が施されているが、ここでは省略する。

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