<註>第2部
23. この徴候についてはすでに以下の論文において指摘せられている。
高尾利数「 "神の存在" の問題」聖書雑誌8月号 1966 日本基督教団出版部
飯 峯明 「神と神との間」(聖書雑誌5月号 1957 日本基督教団出版部
山内一郎「現代神学における"神"の理解について」 神学研究第15号 1966 関西学院大学神学研究会
24. バルトやブルトマンにおいて、神論がどのように取り扱われているかは軽率に論ずることは出来ない。この間題はわたしにとって将来の課題である。
P.C.Hodgson は Maynard Kaufman の分類に従って「神の死の神学者たち」をアルタイザーによって代表せられる「ポスト・キリスト教有神論」の立場にカウフマン自身を加え、ヴァンピユーレンに代表せられる「キリスト教無神論」の立場にW・ハミルトン、H・コツクスを加える。しかしJ.B.カーブは「神の死の神学者」に加えるべきでないと言う。むしろカーブは「キリスト教自然神学」とは広い神学的課題における単なる一部分にすぎない、むしろそれはプロレゴメナの役割をはたしているにすぎないと主張している。(1)
わたしは「神の死の神学」という現象はいかにもアメリカ的現象ではあるが、その根底にある問題意識そのものはきわめて現代的であって全ての現代人にとって真険な問いを発していると思う。英国におけるJ・A・T・ロピンソンの『神への誠実』が投げかけた問題も同じ意識から出ていることは明白である。ただ英国においては「神への誠実」というきわめて保守的なスローガンでなされているのに対して、アメリカにおいては「神の死」というきわめてセンセーショナルなスローガンによってなされていることに両者の状況の相違があると思う。
わが国においてはこの問題提起はキリスト教界からなされるよりも仏教界からなされている。それは久松真一博士の京大における最後の講義「無神論」(東方第12号)に代表せられる。それによると「有神論」とは、この世界を超越した神を信ずる中世的な人間の自覚の仕方であり、それは他律的生を形成する。そこでは人間の創造力は自覚せられない。近代の文化はこの「有神論」を清算することによって形成されている。しかし「有神論的キリスト教」は常に中世的な他律への瞳けいを潜めている。しかし仏教における「覚」にはその様な中世的他律はない。(2)ここに仏教の近代性がある。
26. ティリッヒがこの語について説明している部分を紹介する。彼は「聖なるもの」の経験における3つの要素、すなわち、・礼典的または神秘的要素、・批判的要素、・倫理的または預言的要素、等について説明した後、次のように言う。「わたしは宗教におけるそれら3つの要素の統一を"the Re1igion of the concrete spirit"と述べたいと思う。わたしはこの表現には躊躇するが、よりよい言葉が見つからない。あるいはそれをthe inner telos と言う方がよいかも知れない。例えばどんぐりの内的テロスは木になることであるように諸宗教の歴史の内的目標(the inner aim)はa Re1igion of corcrete spiritとなるということである。」(3)
27. 「啓示史」 a reve1atory history
文化史の中に内在する全ての諸宗教の歴史は一つの啓示史を構成している。従ってこの概念は「the 1asting necessity of re1igion」と同義語であり、『組織神学』以後のティリッヒにおいて重要な概念である。しかし内容的にはそれ以前に彼がさかんに用いていた「カイロス」と「カイロイ」で表現せられていた事柄を、さらに拡大して諸宗教の歴史にあてはまめたとみなすことが出来る。この意味で従来の「救済史」とこの「啓示史」とは明白に区別されるべきである。この点でティリッヒは『組織神学』以前と以後とで決定的相違があるようにわたしには思われる。ティリッヒは「進歩の概念の衰退と妥当性」という最後から2番目の講演の中で次のように言っている。もし保守主義神学の言うように唯一つの真の宗教があるのみで他の諸宗教は全て偽りであるとするならば宗教の進歩というものはあり得ない。もしそうだとするならば、「旧約聖書は何について語っているのだろうか。そこには進歩というような何か、つまり進歩的啓示 progressive reve1ation というものがあるのではないだろうか。」(4)この progressive reve1ation という概念と啓示史という概念とは密接に関連している。
28. 実存主義哲学と本質主義哲学との関係については東京神学大学における講演「神学と哲学、実存主義と本質主義及び今日におけるその神学にとっての意義」において詳細に論ぜられている。
29. ティリッヒは Das System der Wissenschaften nach Gegenstanden und Methoden,Gottingen,1923 において全ての学問を体系的に分類し、組織神学を精神諸科学における「神律的組織学」として位置づけている。恐らくティリッヒが組織神学の可能性を確認し、構想を練り始めたのはこの頃であると思われる。
(1) Hodgson,P.C: The death of God and the crisis in christology, JR. vol.46 No.4, 1966 p.446f
(2) 滝沢克巳:『仏教とキリスト教』、法蔵館 1964 p.12ff
(3) Future. p.87f
(4) Future. p.75
23. この徴候についてはすでに以下の論文において指摘せられている。
高尾利数「 "神の存在" の問題」聖書雑誌8月号 1966 日本基督教団出版部
飯 峯明 「神と神との間」(聖書雑誌5月号 1957 日本基督教団出版部
山内一郎「現代神学における"神"の理解について」 神学研究第15号 1966 関西学院大学神学研究会
24. バルトやブルトマンにおいて、神論がどのように取り扱われているかは軽率に論ずることは出来ない。この間題はわたしにとって将来の課題である。
P.C.Hodgson は Maynard Kaufman の分類に従って「神の死の神学者たち」をアルタイザーによって代表せられる「ポスト・キリスト教有神論」の立場にカウフマン自身を加え、ヴァンピユーレンに代表せられる「キリスト教無神論」の立場にW・ハミルトン、H・コツクスを加える。しかしJ.B.カーブは「神の死の神学者」に加えるべきでないと言う。むしろカーブは「キリスト教自然神学」とは広い神学的課題における単なる一部分にすぎない、むしろそれはプロレゴメナの役割をはたしているにすぎないと主張している。(1)
わたしは「神の死の神学」という現象はいかにもアメリカ的現象ではあるが、その根底にある問題意識そのものはきわめて現代的であって全ての現代人にとって真険な問いを発していると思う。英国におけるJ・A・T・ロピンソンの『神への誠実』が投げかけた問題も同じ意識から出ていることは明白である。ただ英国においては「神への誠実」というきわめて保守的なスローガンでなされているのに対して、アメリカにおいては「神の死」というきわめてセンセーショナルなスローガンによってなされていることに両者の状況の相違があると思う。
わが国においてはこの問題提起はキリスト教界からなされるよりも仏教界からなされている。それは久松真一博士の京大における最後の講義「無神論」(東方第12号)に代表せられる。それによると「有神論」とは、この世界を超越した神を信ずる中世的な人間の自覚の仕方であり、それは他律的生を形成する。そこでは人間の創造力は自覚せられない。近代の文化はこの「有神論」を清算することによって形成されている。しかし「有神論的キリスト教」は常に中世的な他律への瞳けいを潜めている。しかし仏教における「覚」にはその様な中世的他律はない。(2)ここに仏教の近代性がある。
26. ティリッヒがこの語について説明している部分を紹介する。彼は「聖なるもの」の経験における3つの要素、すなわち、・礼典的または神秘的要素、・批判的要素、・倫理的または預言的要素、等について説明した後、次のように言う。「わたしは宗教におけるそれら3つの要素の統一を"the Re1igion of the concrete spirit"と述べたいと思う。わたしはこの表現には躊躇するが、よりよい言葉が見つからない。あるいはそれをthe inner telos と言う方がよいかも知れない。例えばどんぐりの内的テロスは木になることであるように諸宗教の歴史の内的目標(the inner aim)はa Re1igion of corcrete spiritとなるということである。」(3)
27. 「啓示史」 a reve1atory history
文化史の中に内在する全ての諸宗教の歴史は一つの啓示史を構成している。従ってこの概念は「the 1asting necessity of re1igion」と同義語であり、『組織神学』以後のティリッヒにおいて重要な概念である。しかし内容的にはそれ以前に彼がさかんに用いていた「カイロス」と「カイロイ」で表現せられていた事柄を、さらに拡大して諸宗教の歴史にあてはまめたとみなすことが出来る。この意味で従来の「救済史」とこの「啓示史」とは明白に区別されるべきである。この点でティリッヒは『組織神学』以前と以後とで決定的相違があるようにわたしには思われる。ティリッヒは「進歩の概念の衰退と妥当性」という最後から2番目の講演の中で次のように言っている。もし保守主義神学の言うように唯一つの真の宗教があるのみで他の諸宗教は全て偽りであるとするならば宗教の進歩というものはあり得ない。もしそうだとするならば、「旧約聖書は何について語っているのだろうか。そこには進歩というような何か、つまり進歩的啓示 progressive reve1ation というものがあるのではないだろうか。」(4)この progressive reve1ation という概念と啓示史という概念とは密接に関連している。
28. 実存主義哲学と本質主義哲学との関係については東京神学大学における講演「神学と哲学、実存主義と本質主義及び今日におけるその神学にとっての意義」において詳細に論ぜられている。
29. ティリッヒは Das System der Wissenschaften nach Gegenstanden und Methoden,Gottingen,1923 において全ての学問を体系的に分類し、組織神学を精神諸科学における「神律的組織学」として位置づけている。恐らくティリッヒが組織神学の可能性を確認し、構想を練り始めたのはこの頃であると思われる。
(1) Hodgson,P.C: The death of God and the crisis in christology, JR. vol.46 No.4, 1966 p.446f
(2) 滝沢克巳:『仏教とキリスト教』、法蔵館 1964 p.12ff
(3) Future. p.87f
(4) Future. p.75