ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

京都学派の偉大な側流――西田幾多郎と波多野精一――

2010-08-02 11:20:09 | 論文
若い西田が東大で哲学を学び始めた頃、ケーベル教授と出会い、経験した一つのエピソードが伝えられている。この経験は西田の中で生涯記憶され、晩年に「ケーベル先生の追憶」(西田全集第13巻)で自ら語っている。ある日西田がケーベル先生のもとにアウグスチヌスの近代語訳がないかと尋ねたところ、「お前は何故古典語を学ばないのか」と言われたとのこと。ドイツ人哲学教授ケーベルにとって、古典語を学ばないで哲学を学ぶということが信じられないことのようであったらしい。確かに、西田は思索力については抜群であったことにを異論を挟む者はいない。しかし、彼には古典的な哲学や哲学史という点では弱いところがあった。おそらく、このことは西田の中で十分に自覚されていたのであろう。西田が京大哲学科の責任を負わせられたとき、先ず第1にしたことは、同僚の朝永三十郎(西洋哲学史担当)と相談して、東大でケーベル教授のもとで哲学を学び、ドイツに留学し、24歳で「哲学史要」を著した秀才・波多野精一を京大に招聘することであった。その後、東北大学から「科学哲学」の田邊元を迎え、いわゆる京大哲学科の陣容が整えられた。そのことについて、『物語「京都学派」』の著者は次のように活写している。
<「哲学」の西田と田邊、「哲学史」の朝永、三本柱が揃った。もちろんすでに、「宗教学」の波多野精一、「美学」の深田康数らが脇を固めている。いまや、京大哲学科の真の「出帆」である。>
(同書、58頁)
ここで、西田の波多野の関係を「脇を固めている」と表現しているが、松村克己も「京都学派」における波多野哲学の関係を「京都学派の偉大な側流」と表現する。
「京都学派の偉大なる側流」という文章は、関西学院大学新聞部が関学の学生のために発行している「関西学院大学」という不定期の新聞に掲載されたもので、1974年に書かれたものである。
この文章の中で、「偉大な側流」という表現について、以下のように説明している。
<「京都学派の側流」と書いたが、この語の解しようによっては、先生はむしろ本流の中心にあったと言うべきかも知れない。京大文学部哲学科の学風と性格とを築き、保持する、という点では、先生の存在は大きく重く、表に現れたものよりは隠れた仕方で、その貢献は計りがたい。一言で云えば「学問の道」というものを身をもって築かれたということである。互に個性を重んじ、信頼と協力とをも自由な学問の府を築きつつ、責任ある教育の場として大学の使命に生き貫いたということで、これは独り象り文学部乃至は哲学科のことではなく東大に対して京大の創設以来の理念また理想であったと言える。>
<本格的な学問の道というのは、地道に忍耐深く探求の歩み一歩一歩踏み固めてゆく、ということである。オリジナルなテキストに当って考えることを先生はいつも奨められた。訳本、しかも不正確なムード的な翻訳の多い現今、先生はやはり訳本を用いることを喜ばれまいと思われる。ましてダイジェストを嫌われた。不正確な知識はない方がよい。知識は正確でなくてほならぬし、知らぬことは知らぬと言えることが学問の徒の生き方だと教えられた。一流と亜流との区別、本物といい加減なものとの弁別は先生において厳しかった。いい加減なものとの接触を努めて避け、本質的なものとの関わりを大切にするのは、生涯の変らぬ生き方であった。雑文を書くことと講演の依頼を断るという方針も生涯にわたって貫かれた。学問の道におけるメトーデは生活のそれと表裏一体をなし、私たちはそれを「渡多野流」と呼んでいた。>
以上の引用により、波多野哲学を京都学派の哲学の「側流」と言いつつ、「学問」というものの成り立ちとしては、波多野哲学こそ「本流」であるという意識が明白である。
実はここに、波多野哲学の後継者としての自覚と西田・田邊を中心とした京都学派の一員であることとの狭間に立って、揺れ動く、松村の苦悩が感じ取られる。

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