ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

主教の権威について 

2013-08-02 15:09:44 | 論文
主教の権威について 

序 制度としての「主教の権威」 
1. 霊の働き
2.霊の制度化
Ⅰ 問題点  
 「主教の権威」ということについて論じる意味━━━何が問題か━━━ 
Ⅱ 権威の制度化
1. 権威の定義
2. 権威の成立
3. 権威の承認
4. 権威の制度化
5. 権威と権力
Ⅲ 主イエスの権威
Ⅳ 権威」の継承
1. 「選び」━━「弟子たち」から「使徒たち」へ
2. 権威の委譲としての按手
3. カリスマと権威
4. パウロの使徒性への疑問
5. 権威と権力
Ⅴ 主教の選出方法
結び 祈祷書から
 
序 制度としての「主教の権威」
1. 霊の働き
教会という社会組織を考え、その組織の在り様を論じる場合に、聖霊の働きを無視することはできない。教会形成における根本問題は聖霊の問題である。ところが、聖霊という働きは捉えようがない。まさに、主イエスがニコデモに語ったように、「風は思いのままに吹く、あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3:8)、霊の働きは自由で人間の理解能力をはるかに超えている。
わたし自身が育った教会は、聖霊の働きを重視し、聖霊派と呼ばれている。聖霊を重視するということは、聖公会においても同様であり、そのことに問題があるわけではない。教会が教会であるためには聖霊の働きを無視できないことは今さら論じるまでもない。
わたしが聖公会に非常に魅力を感じ、聖公会に転回した理由は、この聖霊の働きというものを制度化している点である。この「制度化」ということの意味は、後ほど説明する。
聖霊派の諸教会といえども、制度化することを避けることはできない。無教会といえども、指導者のもとにエクレーシアという集団を形成し、定期的に礼拝をしているのと同様に、聖霊派の諸教会においても制度化は進行する。ただ、建て前として「制度化」を拒否しているだけで信仰生活の在り様はパターン化している。聖公会が聖霊派の諸教会と異なる点は、聖霊の働きについてまでしっかりと制度化している点である。わたしはこの点で聖公会に非常に魅力を感じた。
聖公会における「制度化」の典型的な例を挙げておこう。それは堅信式という制度である。わたし自身も、聖公会に移ったとき堅信式を受けたので、それが何であるかということがわたしにとっての聖公会についての最初の学びであった。
この堅信式は普通、幼児洗礼とセットになって、幼児洗礼を受けた人が成人したときに、幼児洗礼ではなされなかった本人自身の洗礼への意思表示をするものであると考えられていたが、聖公会では成人してから洗礼を受けた人々にも陪餐の条件として義務付けている。何故だろう。その答えは、堅信式の序言の中にあった。ここで引用されている聖書のテキストはいわゆる「聖霊のバプテスマ」についての箇所であり(使徒言行録第8章)、聖霊派の諸教会では第2の改心としての聖霊経験を語っている箇所として重視されている。この堅信式におけるこの聖書の取り扱い方を見て、わたし自身はカルチャーショックを受けた。聖公会では「聖霊のバプテスマ」という聖霊経験を堅信式という制度へと固定化している。これが聖公会における「霊の制度化」の典型である。残念ながら、新しい祈祷書では堅信式は洗礼式とセットになり、古い祈祷書の名残として、主教の祈りの中に「使徒たちの模範に従い」という言葉が残されているだけである。ということは、使徒言行録の第8章が語っている聖霊の経験はどこに行ってしまったのか。
組織の永続化のためには「制度化」ということは、避けられない。しかし同時に制度化の度合いが進むことによって、聖霊の自由な働きは極度に制限される。「聖霊の自由」と制度化とは矛盾対立する。わたしたちの課題は、霊と制度とのバランスの探求ということである。
2. 霊の制度化
聖公会の聖職になって初期のころ、教役者修養会において、酔いに任せていろいろな議論を楽しんだものであるが、そのときの議論の一つに、「わたしは主教になることを目指す」と発言したところ、当時まだ若かった司祭たちは一斉にわたしに向かって奇異な目をして、「そんなこと言うものではない」とたしなめられたことがある。わたしはそのとき、聖職になったからには全ての司祭は主教を目指しているものと思い込んでいた。使徒パウロも若きテモテに対して「監督の職を求める人がいれは、その人は良い仕事を望んでいる」(2Tim.3:1)というのがわたしの主張であった。日本聖公会の現実を知らなすぎた証拠であるが、その時はじめて「主教職」というものの理解の仕方がかなり違うという印象を持った。

Ⅰ 問題点  「主教の権威」ということについて論じる意味━━━何が問題か━━━
主教の権威ということを論じる場合、いろいろな切り口がある。例えば、主教の権威という問題をキリスト教の歴史という場面で論じる場合に最も大きな問題になるのが、教皇の権威と皇帝の権力との関係であり、グローバルに問題を取り上げると、これは中世ヨーロッパの成立期に始まり今日もなお尾を引く問題である。興味としては非常の面白く、時にはそういうことも考えねばならない問題であろうかとも思う。
この問題を考える場合に、最近、岩波書店から刊行が始まった「岩波講座天皇と王権を考える」の第4巻「宗教と権威」(2002.5.8)に納められている「教会権力と国家権力━━神聖ローマ帝国」(神寶秀生、九州大学)および「聖なる皇帝と異端━━ビザンツ」(和田廣、筑波大学)は非常に参考になる。なお、この中に収められている「王のカリスマ性」(小馬徹、神奈川大学)は、権威という概念を理解するための基本問題を丁寧に扱っていて、とても参考になる。
全体として、天皇制ということを考える場合に宗教というものを背景に問題を掘り下げるために必要なことが、論じられていて、それなりの関心を満足させてくれる論文集ではある。しかし、これが現在のわたしたちにとって問われている「主教の権威」という問題であるとは考えられない。
それでは、なぜ今、京都教区の教役者修養会で「主教の権威」ということが問われなければならないのだろうか。この問題を直接的に取り扱った文書として、わたしたちは立教大学の塚田理教授の「主教職とは何か」という手軽な著書も手にしている。それを読めば済むことではないのか。また、少し本格的に学ぼうとするならスティーヴン・サイクス司祭(ケンブリッジ王立神学講座担当教授)の編集による「聖公会における権威」という著書も村上達夫主教の手によって翻訳されている。これも、なかなか読み応えがある。もし、わたしたちが「主教の権威」ということについて、理解を深めようと願っているならば、いつでも学ぶことができる。
それなのに、なぜ今、京都教区の教役者修養会において、「主教の権威」というテーマが取り上げられ、しかも、文屋というたいしたこともない仲間のひとりが発題をしなければならないのか。実は今回の発題の準備にあたり1ヶ月近く考え続けてきたことはこのことであった。京都教区の教役者たちは、今何を問うているのか。なぜ、学者でもないわたしにこのテーマを突きつけているのか。みんなで「わたしを酒の肴」にして笑いものにしようとしているのか。それなら、こちらも逆にみんなを笑いものにしてやろうか、とも考えた。これは真剣な話である。もう少し真面目に考えて、主教に対するわたし自身の態度、関係に問題を感じ、わたしを「査問」しようとしているのか。それならば、少しは反省するところもある。いや、「少しは」ではなく、「大いに」である。考えてみると、すでに日本聖公会の聖職になって25年になろうとしていても、やっぱり「よそ者」なのか、という感じもしないではない。確かに、主教制を持たない教会で生まれ、育ち、信仰を持ち、聖職になった。それは、非常にユニークで、主教制にどっぷり浸かって、それしか知らない聖職たちとは「異なる視点」を持っているのだろう。
恐らく、そういうユニークな視点から「お前は主教の権威というものをどう思っているのか」という非常に個人的な関心があるのではないか。例えば、主教制を持たない教会での信仰生活とは、どんなものか。端的に言えば、「主教がいなければどうなるのか」。人事はどのようになされるのか。つまり、主教のカリスマ性の問題ではなく、主教の権威を承認するという制度の問題、特に議会制と主教制との問題であるように思う。言い換えると、「主教の権威」の問題というよりも、「主教の存在感」の問題ではないのか。
制度としての主教制は「主教としての地位に対して権威を承認しなければならない」という拘束力を持ち、主教にカリスマがあるかどうかという判断は留保する。カリスマのある人物が主教になり、主教職によって権威とカリスマを委譲されるという形式が理想であり、主教に按手されたらカリスマが委譲されるというのは人々が信じていることであって、現実には主教になってもカリスマは委譲されない。制度が持つカリスマ性の隠蔽という問題が、現在問われているのではないだろうか。そこで、わたしは本日、教会という場所で「権威」というものについての基本的な問題点をいくつか取り上げて、整理をしておきたい。
 
Ⅱ 権威の制度化
1. 権威の定義
前述の「王とカリスマ性」という論文で小馬徹氏は、権威とは「元来、自発的同意を導く能力」であったが、それがさまざまな変遷を経て、「現代では、理性的な説得を根拠として、ある強制力に公的な権利を付与して、同意と服従を導き出す能力」である、と定義づけている。(前掲書 271頁)
この「元来」の意味と「現代では」の内容との違いが「権威」をめぐる議論の幅である。権威者とされる人物または機構に「強制力」があるのか、ないのか。「理性的な説得」、「公的な権利を付与する仕組み」とは何か。このあたりの議論が現代の「権威論」の焦点となる。
わたしは、そのようないわば社会学的な議論に加え、権威者とされる人物または機構の内面、あるいは内実の問題として、「主体性」の議論があると思っている。
英語の「authority」という言葉は、ラテン語で「生み出すこと」「支配力」を意味する言葉から出ている。この言葉は「authorship」というように派生すると、「著作なること」「出所・根拠」という意味になる。わたしなりにこの言葉の意味をまとめると、権威とは他に出所・根源をもたない、という意味である。つまり、それ自身が他からの支えがなくても立っていること、「ありてあるもの」、人間のレベルで言うなら、「主体的であること」という意味にほかならない。
この点について、国会議員の不祥事件が続出し、辞職問題が議論する中で、「国会議員は選挙で選ばれているのだから、そう簡単に辞職勧告を出せない。議員は自分自身で出処進退を決定すべきである」ということが繰り返し述べられた。この「他から干渉されないで、自分自身で決定する」ということがauthorityということである。
2. 権威の成立
権威は、一人の人間が存在するだけでは成り立たないが、二人以上の人間がいれば成立する。
例えば、3人の平等な人間がいて、その中の一人が「海に行こう」と言い、その他の二人が「自発的に同意し、同じ行動を取れば、それが権威の発生である。もっともこの段階で「権威」という言葉を用いるのは性急すぎるが、こういう経験が繰り返され、常に同一人物が指導性を発揮し、他の人々が彼の指導性を承認するようになると、これが「権威」の成立である。権威という言葉の最も素朴な意味は、「自発的な同意を導く能力」である。
3. 権威の承認
人々が「何」に対して権威を承認するのか、という問題がある。結論を先取りすると、人間が権威を承認する対象は大きく二つに分けられる。一つは個人の才能(宗教の場合の多くは、カリスマ)に対して、もう一つは社会的な地位に対してである。イエスの集団の場合、イエスという個人のカリスマに対して権威が承認され、承認した人たちは弟子となり、従った。それに対して、企業に就職した場合、その企業の社長の地位の権威を承認し服従するのである。
いずれの場合も、重要な点は権威の承認は人々の自由意志によって行われるという点である。人々はカリスマや地位に対して権威を強制力によってではなく、自ら進んで承認する。
4. 権威の制度化
権威が承認されると、そこに主従関係や支配━━被支配などの人間関係の構造が形成され、これに従う人間は、その構造にふさわしい行動パターンが生じる。この行動パターンが定着すると、その構成員はこの行動パターンに拘束される。これが「制度」である。新しく加わる構成員は、彼の動機や契機に関係なく、この制度に拘束され、指導者の権威を承認する。例えば、わたしのように聖公会に後から加わった人間は、わたしがどのような能力を持ち、あるいはどういう動機で聖公会に加わったのかというようなことは一切関係なく、聖公会の制度に従い、主教の権威のもとに生きることになる。
一般的に言って、わたしたちが新しい社会に所属すると、まずその社会の制度を習得し、制度に従って行動する。この場合、制度とはその社会に所属する大部分の人間が共有する行動パターンであり、成文化されたものもあれば成文化されずに暗黙の了解、あるいは常識とされたものである。例えば、日本社会というものを考えた場合、民間信仰は非科学的だ、古い、などと評価され、なくしてしまおうという運動が起こった場合でも、たいていはその運動のほうが挫折してしまう。それは、民間信仰が制度になっているからである。
5. 権威と権力
権威の構造の中で作用する働きが「権力」である。権威が実際に行動に移されることが権力であり、普通は、権威者の発言ないしは意志が、組織の中で実現されることを意味する。権威を持っている人間が、構成員に「右に行け」と命じたら構成員は自発的にそれに従う、あるいは「喜んで」従わせる力が権力である。権威者が権威を失うとき、権威者の言葉は実行されないし、それを無理強いすることは「強権(暴力)」である。

Ⅲ 「権威ある者」のモデルとして主イエス
「権威」ということについて論じる場合に、抽象的に論じてもむなしい。具体的に「権威ある者」のモデルを想定し、権威ある者」のイメージを明確にしてなければならない。そこで、わたし自身いろいろといわゆる「権威者」を思い浮かべてみた。宗教界では、代々の教皇たちをはじめ日本の宗教家たちを考えてみた。しかし、よく考えてみると、わたし自身彼らのことをあまり知らないことに気付かされた。また、西郷隆盛や明治維新の英雄たち、さらには阪神タイガースの星野仙一監督、もちろん長島茂もついでに考えてみた。それぞれ、「権威的」ではあるが、やはり教会という場で権威というものを考える場合、主イエス以外にはあり得ないと思う。主イエスこそがわたしたちにとって「権威ある者」の原型(モデル)である。ということには誰も異論はないと思う。そこで先ず、主イエスの権威について考えたい。
主イエスの権威というものを取り上げるならば、マルコ 1:22「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」から始めるのが妥当である。この言葉を、マタイはそのまま引き継ぐが、ただその教えの内容を5章から7章までに限定しているように見える。特に、5章21,27,31,33,38,43において「~~と命じられている。しかし、わたしは言っておく」という言葉が繰り返されていることには注目すべきであろう。その意味では、むしろマルコは「罪を赦す権威」(マルコ2:10)とか、随所に弟子たちや人々が「非常に驚いた」というフレーズが繰り返され、その驚きの原因が「イエスの権威」であることを強調している。
共観福音書が共通して報告している「権威についての問答」(マタイ21:23-27、マルコ11:27-33、ルカ20:1-8)は興味深い。当時の権威者とみなされていた「祭司長、律法学者、長老たち」が首を揃えて、真正面から「何の権威で」と主イエスに質問してきた。質問というよりも尋問である。この問題提起に対して、主イエスは、いわばバプテスマのヨハネのことを取り上げて、さらりとすり抜けておられる。このテキストにおいてもっとも興味深いのは、いわゆる「権威者たち」が民衆を恐れていた、という点である。ここに主イエスの権威の特徴が垣間見られる。
イエスの権威の特徴について、総括的に述べるならば、「制度化された権威に対する批判精神」ということになるであろう。この批判精神が「権威」となる。いわば、権威に対するアンチテーゼとしての権威というべきものであろう。しかし、それが、本当に「権威」になるためには、民衆による「共感」がなければならない。つまり、「制度化された権威」に対する「アンチテーゼとしての権威」の根拠は、民衆による「共感」とその権威によって他人が動かされるという「事実」である。
 
 
Ⅳ 「権威」の継承 
宗教集団の場合、教祖の死は危機的状況をもたらすことになる。従って、教祖の死が突然生じた場合は別として、普通、教祖自身が事前に後継者を選び、「教主」という地位を確立しておく。信者は「教主」になる人物のカリスマにかかわりなく「教主」という地位に対して権威を承認する。教祖の死が突然生じた場合でも、教祖の周辺にいた信者たちが「教主」という地位を確立し「教主」を選ぶ(大部分が教祖の縁者)。ただし教祖が直接「教主」を選んだわけではないので、「実は生前、教祖が彼あるいは彼女を後継者に選んでいたのだという伝説が作られることになる。この際、教祖から「教主」への権威の委譲が行われる。モーセは死の直前にヨシュアを選び、彼に自分の権威を委譲した。
信者が教祖のカリスマではなく、教主という地位に対して権威を承認する根拠は、教祖による「選び」と「権威の委譲」ということであり、これが「権威の制度化」への第一歩である。付け加えるならば、宗教集団の場合、「権威の委譲」という儀礼により教祖のカリスマも教主に引き継がれると信じられる。この場合、カリスマの内実は神との交信、癒しの力、人々を教え導く力などである。
1. 「選び」━━「弟子たち」から「使徒たち」へ
イエスは間違いなくカリスマをもち弟子やイエスに従う人々はイエスのカリスマに対して権威を承認している。こうしてイエス集団が形成され、イエスの指導のもと宗教運動が展開された。イエスの死後、イエス集団は壊滅の危機に直面するが、復活いう出来事により奇跡的にイエス集団は再結集された。そのことについては、ここでは主題から外れるので論じない。この再結集された集団を指導したのは主イエスの弟子たちであろう。ここで一つの根本的な問題がある。組織運営ということだけであるならば、参加者全員が賛成し、委員会組織というようなものによって運営することもできる。あるいは代表者を一人立てて「監督」にすることもできる。しかし、いくら弟子たちが心を一つにし、民主的に組織を運営したとしても、弟子たちには「主イエスに代わる」権限を持ち得ない。それが宗教集団の特徴である。宗教集団においては主イエスの権威の継承ということがなければ成り立たない。問題は「弟子たち」が「主イエスに代わる権能を持つ使徒たち」に変わる瞬間である。ここに主イエスの権威の委譲というドラマの必然性がある。
「弟子たち」が「使徒たち」に変わる根拠はイエス自身が直接に選んだということであり(あるいはそのような伝説が作られている)、この「選び」が権威の委譲の第1根拠となる。ただ、問題は、イエスが選んだ12人のうち、イスカリオテのユダはすでに死んでおり、問題なく最初の使徒になったのは11人であった。これを12人にしなければならなかった合理的な理由はない。ただ、事実として、彼らは12人ということにこだわりをもった。(ヨハネ20:24)おそらくその理由は「秘数12(完全数)」にしなければならなかったという神秘主義的な理由であったと思われる。わたしたちにとって興味深いことは、「イスカリオテのユダの任務を継ぐ」使徒(使徒言行録1:25)としてマツテヤが選出されたその手続きである。ともかく後から加えられる場合は、イエスに「選ばれた」という根拠がないため、神意にゆだね、神によって選んでもらうという形式をとる必要があった。そこで人為の加わらない「くじ」という形式によって神意を確かめたのである。(候補者は2人いた。つまり、2人とも使徒になる資格があった。)後に触れるが、主教の権威の根拠としての選挙制度において、この「くじ」という人間的な判断を否定する方法は、注目に値する。
2. 「権威の委譲」としての按手
権威の委譲は単なる名称の変更ではない。また、構成員全員による「同意」でもない。「権威付け」のための宗教儀式がどうしても必要である。
おそらく、最初にこの点を最も明白に語っているのは、使徒ペテロで、彼は使徒言行録10:40,41においてコルネリウスの家でこう演説している。「神はこのイエスを復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまりイエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。」つまりここで主張されている点は、「復活の証人」としての「特別な立場」である。「神に選ばれた証人」と「復活の主イエスと一緒に食事をした」という事実が、使徒性の根拠であるという主張である。十字架以前の主と共に生活したとか、イエスから直接話を聞いたとか、イエスの病気を癒してもらったということよりも、「復活後の食事」ということが主張されている点に注目すべきであろう。これが使徒性の第2の根拠である。
さて、この主張の問題点は、使徒言行録の第1章において、「ユダに代わる使徒」としてマツテヤが選出された、という出来事に込められている。はたして、マツテヤは「復活の主と一緒に食事をした仲間」であったのかどうか。また、マツテヤの対立候補であった「ユストともいうヨセフ」はどうであったのか。あの「エマオへ向かっていた」2人は使徒ではなかったのか。問題は「細かい詮索」ということではなく、使徒性の根拠を「復活の主との食事」ということにおくことの曖昧性である。ともかく、これが使徒ペテロの主張する使徒性の根拠である。
コルネリウスの家での演説では、この第1の根拠と第2の根拠とを組合すことによって見事に問題を解決している。いずれにせよ、第1の根拠も第2の根拠も曖昧であり、問題を残す。
教皇、司教、主教職は使徒職によって形成されつつあった権威の委譲が制度化されたものである。第1の根拠は複雑な主教選挙制度を生み出し、第2の根拠は主教按手式(叙階)というサクラメントへと発展した。この二つの手続きを経て、前任者たちの権威が後任者に委譲されたことを人々は承認する。重要な点は人々が権威の委譲に際して、カリスマも委譲されるという信仰(建て前)である。今日問題になる点は、ここにあるのではなかろうか。
3. カリスマと権威
キリスト者は「主イエスはキリストである」と告白することによって信徒になる。これは主イエスのカリスマである癒し、赦し、慰めなどを信じ、その権威を承認するということを意味している。つまりカリスマへの承認が権威の承認に先立って存在する。前提と言ってもいい。カリスマと権威(すなわち権威によって構成される構造)は峻別されるべきである。厳密には、権威とその構造は制度化することができるが、カリスマを制度化することは不可能である。なぜならカリスマは個人の資質だからである。ところがキリスト教の制度化のプロセスの中で、権威の委譲とともにカリスマも委譲されるという形でカリスマを取り込んでしまった。カリスマという不定形なものを取り込むことによって、制度としての教会にはダブルスタンダードが存在することになってしまった。制度のレベルでは権威の承認、信仰のレベルではカリスマへの信仰というダブルスタンダードが存在する。この問題はカリスマをもつ人物が権威ある主教に按手されることによって解消される。しかし、そういう場合こそまれであり、現実的には制度としての主教制においては、カリスマは付随的なものとみなされ、カリスマのない人物が「選ばれる」可能性が常に存在する。制度化された主教制においては本人にカリスマがあるかどうかということは問題ではなく、問題となるのは、その地位に対して権威が承認できなくなる、ということである。
4. パウロの使徒性についての疑問
このダブルスタンダードの問題に悩まされた最初の人物がパウロである。彼はよみがえりの主イエスによって(直接に)選ばれたということを根拠に使徒性を主張した。いわば、カリスマによる主張である。しかし、彼の使徒性については必ずしも明確ではない。むしろ、コリントⅠ9:1-2 では、それに対する批判ないしは疑問があったようであり、その疑問に対してパウロ自身が反論している。ガラテヤ1:1では、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」と主張している。この主張が、果たして当時の教会において受け入れられたのだろうか。エルサレム会議(使徒言行録第15章)は、「バルナバとパウロ」とを併記して、使徒団の手紙を添えてアンティオキアへ派遣している。そのアンティオキアの教会において、使徒ペテロが信徒たちと食事をしている最中、「ヤコブのもとからある人々」が来るという知らせが入ると、急に態度を変えたことをパウロは厳しく非難している。(ガラテヤ2:11以下)この記事を読むと明らかに「ヤコブのもとから来るある人々」や使徒ペテロとパウロとの立場の違いがあるように思われる。果たして、本当にパウロは使徒であったのだろうか。
しかし、使徒性の成立の初期の段階とはいえ、パウロを使徒と認める立場で使徒言行録は一貫している。そして、聖公会もパウロの使徒性を承認している。
ついでに、付け加えるならば、使徒パウロの使徒性の主張には、主イエスの権威とかなり、というよりもほとんど共通するものがある。つまり、「制度化された権威に対する批判精神」が顕著であり、この批判精神が「権威」となる。いわば、権威に対するアンチテーゼとしての権威というべきものであろう。しかし、その権威を支えるエネルギーは主イエスの場合は「民衆の共感」であったが、使徒パウロの場合は「あなたたち」であると、異邦人信徒たちを指差す。(コリントⅡ2:1-3)
教会は、マツテヤとパウロを「使徒」に加えることによって、使徒性における一貫性を破ってきた。わたしはこの「破り」が制度としての教会というものを考える場合に非常に重要であると考えている。
 
Ⅴ 主教の選出の方法について
告示から始まって主教着座式まで、法憲法規と祈祷書によって、ほとんど完全に法規化されている。これこそまさに主教の権威の法制化である。これら一連の手続きの中で、選挙方法についていろいろと議論され、各管区で検討されている。最近行われたブラジル聖公会における主教選挙の実例は興味深い。主教に選ばれたご本人がメールで報告している。
選挙の方法そのものについては、現代の情報手段等を用いていろいろと研究したらよいと思うが、問題はその方法が主教の権威を制度的に保障するものでなければならないということである。主教の権威の根拠はまさに「選出方法」にある。その方法が「選挙」である限り、選ぶ側の人間の判断力の問題である。
自分たちの「代表」の選出と異なり、主教選挙の場合は、自分の好みや利害、あるいはその人の能力によって選ぶのではなく、誰に神の霊が向かっているのか、という基準で選ばねばならない。この点が主教選挙の難しい点である。
その意味では、預言者サムエルがサウルやダビデを王に選んだときの「サムエルの視点」が、全ての議員と代議員に求められている。
まず、サムエルがサウルを王に選んだいきさつはサムエル記上9章に記されている。預言者サムエルは、王制そのものに批判的であったが、神の指示によって王を選ぶ役割が与えられる。しかし、そのプロセスを詳細に見ると、サムエルとサウルとの出会いは、サウルのほうがサムエルに近づいている。しかも、その前に主からそのことが予告されている。サムエルはサウルを見て、彼を王に即位させることを決断し、手続きを始める。サムエルはまず国民を招集し、くじでサウルが選ばれる。ここが、面白い。サムエルに対する神の「示し」と全部族による「くじ」とが平行し、同じ結果となる。ところがサウル自身は荷物の間に隠れている。(10:22)
サウルの場合は、彼が選び出されるプロセスよりも、王に即位するまでの手続きが興味深いし、むしろそこに力点が置かれて描かれている。それに対して、ダビデの場合は、選び出されるプロセスそのものが興味深い。(16章)ダビデの選出において注目すべきことは、ここでは否定の要素が加わっているという点である。7人の息子は否定され、ダビデが選ばれている。そして、その基準として、神はサムエルにこう語る。「容姿や背の高さに目を向けるな。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(16:7)これはわたしたちが主教を選ぶ際の非常に重要な視点である。否定された7人の兄たちは、彼ら自身に問題があったわけではないし、被選挙人としての資格は十分にあったと思われる。選ばれなかったとしても、人格的に問題性があったとは思われない。ただ、神は兄たちを選ばずダビデを王として選んだということが重要である。
王制であれ主教制であれ、その「権威」ということを考えるときに「神の選び」あるいはそのカリスマ性を抜きには論じることができない。その際、どうしても触れておかねばならない点は、神の霊が離れるということがある、あるいはカリスマがなくなるときもある、ということである。サウルの場合、彼が王に選ばれたときのあの謙虚さが失われ、傲慢になったとき、主の言葉がサムエルに臨む。「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない」(15:11)この言葉を聞き、サムエルは非常に心を痛め、徹夜で祈る。あくる日、サムエルに会ったサウルはサムエルに「うそ」をつく。サムエルはもうこれで駄目だと判断し、それ以後二度と会うことはなかった。(15:35)神から見離されたサウルは精神不安定になり、ついには口寄せの女を訪れるようにまでなり、その最後は惨めなものであった。
ダビデの場合の問題点は、王位の世襲化ということである。ここで世襲制度そのものの問題点を取り上げるのではなく、「制度化」の一つの形として考える。問題を整理すると、世襲制度の確立ということによって、王制は固定化し、永続化するが、同時にそれと反比例して王制そのものの「カリスマ性」が失われ、俗化する。王制においては「自分に都合のいい人物」を王に立てようとする。ダビデの側近たちは、自分たちの都合により(利害により)、ダビデの息子たちをそれぞれ担ぎ出し、相分かれて戦うこととなる。そして、国は分裂する。これが「霊の制度化」の問題点である。
 
結び 祈祷書から
司祭按手式における試問において、(456頁)
「あなたは、主教の牧会上の指示と指導を尊重し、これに従うように努めますか」と質問され、「そのように努めます」と答える。これが具体的な主教の権威についての言及である。この言葉の意味をもう少し深く理解するために、文語による祈祷書のこれに該当する部分を紹介すると、こうなっている。
「なんじらの上に立てられた主教を敬い、喜びてその正しき勧告に従い、その正しき裁決に服するか」と質問され、「われ神の助けによりてかくなさん」と答える。文語の祈祷書では「勧告に従う」「裁決に服する」という言葉に「正しき」という付加語が付けられている。つまり「絶対服従」ではない。それではどの程度に服従しなければならないのか、ということになると「正しき」という言葉が付加されることによって曖昧になり、「正しき」論争によって、主教の権威は相対化される。しかし、それでも「正しき」が一般的に(常識的に)受け入れられるならば、主教の権威は守られる。つまり、主教の権威を守るものは「コモンセンス」ということになる。それに対して、現行祈祷書では、主教の権威は「牧会上の指示と指導」に限定されている。ここではもはや主教の人格的な権威ではなく、仕事上の権威ということになってしまう。文語では、「正しき」ということに相対化されているとはいえ、少なくとも事柄の限定はなく、その意味では全人的な対決となる。
もう一つ、文語祈祷書では「主教就任式において」、司式主教は就任主教に牧杖を渡しながら、「なんじこれを受け、なんじに与えられし権威をもって、ゆだねられたる群れを導くしるしとせよ」とのべるが、現行祈祷書では「権威」という言葉は削除されている。さらに、文語祈祷書では常置委員長が教区の全聖職・信徒を代表して「師父を我らの主教と仰ぎ、その権威に服従することを約す」とのべるが、現行祈祷書ではそれらは完全になくなっている。つまり、祈祷書の変化を見る限り、主教の権威は減少している、ように思われる。わたし自身はこれを正しいことだとは思っていない。

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