ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

ティリッヒにおける宗教的象徴の意義──組織神学の根拠について──(2)

1968-03-02 13:07:13 | 論文
第1部 宗教的象徴論

第1章 宗教的象徴の概念
第1節 象徴の概念
象徴に関して前世紀末以来、特別な関心が多方面よりおこって来た。それらの関心はそれぞれの専門分野によって異なっているので統一した概念規定は未だ明確にされていない。それ故にティリッヒは「”象徴”という語を著述の中で用いる人はすべて、彼がそれをどのように理解しているかを説明しなければならない。」(1)と言い、彼自身その生涯において少なくとも4回文書において論述している。(註10)
これら4つの論文を比較するならば、彼の象徴理解は多少発展の跡も見られるが、根本的には変わらないことが明きらかである。まずこれら4つの論文における象徴の一般規定を発展の跡をたどりながら3つの点に総括して考察する。
第1に注目すべき点は、象徴と記号との区別である。象徴も記号もそれを見る者に対してそれ自体にではなく、それによって指示せられているものに関心を寄せることが期待せられている。このことに関しては両者に相違はないが、両者を決定的に区別する点は象徴と象徴によって指示せられているものとの間には内的必然的関連性があるということである。記号にはそれがなく、従って記号は人為的に造り出すことが出来る。この象徴の特性の発見が現代の象徴論の関心の根本的原因であり、その功積はフロイドを中心とする深層心理学者たちの夢の研究とバッハオッフェン等の文化人類学者たちの古代神話の研究との結合に帰することが出来るであろう。(2)現代の言語学、宗教学、神話学、美学、論理学、哲学等における象徴論への関心はすべて、彼らの人間の深層心理に対する研究をぬきにしては理解出来ない。
しかし後に述べるように、ティリッヒの宗教的象徴論における内的関連性というのはフロイド等によって言われているような単なる象徴と人間の深層との関連性ではなく、宗教的象徴が指示している無制約的超越者との内的必然的関連性である。
第2に注目すべき点は、象徴のもつ個人に対する能動的作用である。象徴とは本来、不可視的、超越的な事柄を知覚化し、対象化する作用である。つまり「それ以外の方法では閉ざされている実在の層をわれわれに開示する」(3)機能をもっている。それと共に象徴が人間の内部にも働きかけて、それに対応する人間自身の深層をも開発することが、1950年代以後の論文において強調せられている。この点に関して彼の象徴理解は芸術作品の象徴作用に接近している。(註11)
第3に注目すべき点は、象徴と社会との関係である。そこには社会から象徴への働きかけの面と、象徴から社会への働きかけの面とがある。前に述べたように、象徴は内在的能力を持ち、記号のように社会の約束によって便宜的に作り出したり変更したりすることは出来ない。それにもかかわらず象徴は社会に基礎づけられ、社会に受諾されて成立する社会的なものである。従って象徴を成立させる社会とは、意識的な協議とか条約ではなく「集団的無意識」(註12)である。(4)それ故に意識的社会を支配する政治権力や科学的批判によって象徴を滅ぼすことは出来ないが、社会の変化にともなう「集団的無意識」の変化は象徴の内在的能力を奪い、象徴は単なる記号へと堕落してしまう。
しかし逆に、象徴は社会の統合力ともなり、破壊力ともなるという、象徴から社会への作用もみのがしてはならない。この点に関してはティリッヒは1961年の論文において初めて明確に論じている。しかし彼はこのことを当然最初から関心をもっていたにちがいない。なぜなら宗教的象徴に関する彼の最初の論文の根本的動機は、19世紀の「2人の預言者的人物、つまりニィーチェとマルクス」(5)以来の反権力運動が、具体的には権力者によって利用されている象徴破壊の運動であり、それが今世紀に入ってフロイド等による象徴理解によって学的根拠が与えられたのに対して、宗教的象徴の超越性を主張することにあったからである。

第2節 宗教的象徴論の思想的背景
以上ティリッヒの象徴の概念を分折的に考察したのであるが、彼の象徴論の焦点はあくまでも宗教的象徴に向けられておるのであり、彼にとって宗教的象徴こそ真の意味の象徴であって、そこに象徴の本質は完全な姿において実現しているのである。宗教的象徴とは「直観の領域を無制約的に超越するもの、すなわち宗教的行為において最終的に考えられている無制約的超越者」(6)を指示しているものである。
宗教的象徴をこのように理解することは合理主義的思惟においては不可能なことであり、その意味でティリッヒはロマン主義者である。しかし彼のロマン主義とはアメリカにおいて見られるような「本質への復帰の感傷的憧憬」(7)というようなユートピァニズムとは異なり、シュライエルマッヘルからシュリングへと遡るドイツ・ロマン主義であり、その源流は15世紀の哲学者ニコラウス・クザヌスの有限者と無限者との「対立の一致」の思想である。(註13)クザヌスはそれを幾可学的に表現して、神はすべてのものの中心であると同時に周辺でもあるという。つまり神はすべてのものに内在すると同時に超越する。
明きらかにこの思想は汎神論的危険性を含んでいる。その故に反宗教改革時代にこの思想を受け継いだG・ブルーはカトリック教会によって処刑された。しかし世界とは別に神の領域というものを想定することの出来ない現代人にとって、この思想は神と世界との解釈の基礎となり得るとティリッヒは考えている。(8)
汎神論に関してティリッヒはクザヌスの思想とルターの聖餐論との類似性を指摘し(9)、「誰れでも超自然的有神論者でなければ汎神論者である」(10)と主張し、ルターや彼自身を汎神論者として批判するものはその汎神論の意味を明きらかにせねばならないと言う。むしろ神と人間との間を仲介する司祭の存在を否定する万人祭司主義のプロテスタント的原理は汎神論である。(11)しかし汎神論において重要なことは有限者と無限者との区別を明確にすることであり、この区別を失うときに「悪しき汎神論」(註14)となる。「有限者は可能的に無限者の中にあり、無限者は現実的に有限者の中にある。」(12)従って「有限者は単なる有限者ではなく、ある次元においては無限者でもある。その中心と根底に神聖なものをもっている。」(13)
この「対立の一致」の思想を土台として、超越と内在を統一する宗教的象徴論が形成される。宗教的象徴とは一面徹底的に有限存在であり、世界内存在である。従って宗教的象徴の成立過程に関しては人間は調査することも、説明することも可能である。他面その宗教的象徴は無制約的超越者を指示し、それに参与しているのであるから、その調査も説明もただ与件としての宗教的象徴の結果的説明にすぎない。(14)
例えば深層心理学において、「父なる神」という宗教的象徴は抑圧された父親コンプレックスの投射であると説明される。それはその宗教的象徴の成立過程を説明はしているが、なぜ父親コンプレックスは神と結合して宗教的象徴となったのか、あるいは誰れが無際限に拡がる事象の中から父親コンプレックスを宗教的象徴として選択したのかということは説明されていない。(15)
われわれはただ宗教経験の現象学的分析を通して、その経験の特殊な構造を解明し、それに基づいてその宗教的象徴が真に無制約的超越者を指示しているか否かを判断することが出来るだけである。単なる無制約的超越者への憧憬からは宗教的象徴は生まれない。それはただ無制約的超越者との出会いの経験すなわち宗教経験から生まれるのであって、心理学的、社会学的要素はそれの表現のための素材にすぎない。

第3節
ここで宗教と文化の基本的関係を考察しておくことが後の論述のために必要であろう。この間題は宗教哲学と文化哲学の両領域にまたがる複雑な論義が必要であり、到底この部分で全体を論述することは出来ない。そこでわたしはこの問題に対するティリッヒの基本的立場を表わす一つの命題の検討ということにのみ考察を限定しようと思う。「宗教は文化の実体であり、文化は宗教の形式である。」(16)これがその命題である。
まず前半の「宗教は文化の実体である」ということについては「実体」という語の意味が問題である。文化とは元来「耕作」という意味であり、人間が自己の置かれている場である自然存在に働きかけて、それを改造し自己の存在の目的に適合させる行為である。従って文化とは単に人間存在の目的達成のための道具であるのみならす、自然存在を素材とする人間自身の存在の意味と目的の表現である。
その文化創造には3つの要素が必要であるとティリッヒは言う。すなわち素材と形式と実体とである。「素材は選択せられ、形式は意図せられるのに対して、実体とは文化が育つ土壌である。」(17)実体とは文化の中に無意識的に現在し、集団や個人に文化創造の原動力を与えると共にその文化に意味を与えるものである。例えば第1の文化創造である「言語」の実体とはその言語の形式の変更つまり翻訳によっては伝達され得ない何かである。その意味で言語とは単なる意志伝達の道具ではなく、実体つまり「出会った実在の本質」(18)の表現である。故に言語はその言葉が本来持っている意味を超越する何かを伝達するときに有意義となる。同様のことがもう一つの基本的文化創造である「技術」についてもあてはまる。近代文化は驚くべき技術開発によって発展している。しかしそれは単に素材と形式の発達であって、真に表現せられるべき実体はそれらの急激な発達によってとり残されている。つまり現代の文化においては「人生の意味」(19)は十分に表現せられていない。むしろ文化に対して人生の意味を問うこと自体が無意味となっている。人生の究極的意味を問うこと、これが宗教の問題である。つまり宗教とは文化の実体である。
次に、あの命題の後半「文化は宗教の形式である」ということについて考察しよう。
ティリッヒは「宗教とは究極的関心である」(20)と定義する。人間は出会う全ての現存在に関心を寄せる。そしてその全ての現存在において存在と非存在を自覚し「真に実在的なもの」(21)を探究する。その探究の最終点においてすべての存在を存在ならしめている「存在の根底」に対する問いに直面する。その問いに答えるもの、それが宗教において出会う実在である。この実在に参与することによって人間は存在の究極的意味を持つ。文化は表現であることにおいて実体を持ち、深さと崇高さとが与えられる。宗教は文化なしには表現されない。なぜなら人間の全ての表現は文化である。故に宗教なき文化は空しく、文化なき宗教は見ることが出来ない。しかし究極的関心の表現は通常の文化的表現の限界を越えている。M・ブーバーの表現を借用するならば(22)、人間は自然においては「我とそれ」、文化においては「我と我」、宗教においては「我と汝」との出会いを経験するということが出来るであろう。つまり文化においては客観化せられた主観に直面するのであり、宗教においては主体と主体とが出会うのである。従って宗教は文化という形式をとらざるを得ないが、その場合形式は内容によって陵駕されている。超越的内容によって陵駕されている文化的表現それが宗教的象徴である。

(1) Tillich,P.:Dynamics of Faith, 1956 p.41(以下Dynamics. と略す)
(2) Fromm,Erich:The Forgotten Language, 1951 外林大作訳、『夢の精神分析──忘れられた言語──』創元新社 東京、1953,1965 p.15f
(3) Dynamics. p.42
(4) Tillich,P.:The Nature of Religious Language,1955 p.58
(5) Tillich,P.:Das religiose Symbol, s.91
(6) Tillich,P.:Das religiose Symbol, s.90
(7) Perspective. p.76
(8) Ibid., p.78
(9) Ibid., p.77
(10) Ibid., p.95
(11) Ibid., p.100
(12) Ibid., p.78
(13) Ibid., p.78
(14) パウル・ティリッヒ:『宗教哲学の諸原理』p. 37ff
(15) Ibid., p.37ff、Das religiose Symbol, s. 92f
(16) Tillich,P.: Aspect of Religious Analysis of Culture, 1956 p.42 その他多くの場所でこの言葉は用いられている。
(17) ST3. p. 64
(18) パウル・ティッヒ『宗教と文化』 p.25
(19) Ibid.,p.25
(20) Tillich,P.:Christianity and the encounter of the world religious, 1961 p. 4 ( 以下 Encounter. と略す)
(21) Tillich,P.:Biblical religion and the search for ultimate reality, 1955  p.13 (以下 Biblical. と略す)
(22) Buber,Martin:Ich und Du, 1923

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