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村上陽一郎著「やりなおし教養講座」(NTT出版)を読んで(その三)

2005-11-09 14:19:31 | 論文
村上陽一郎著「やりなおし教養講座」(NTT出版)を読んで(その三)
「武士道」から自由主義へ
村上氏は、父親はいわゆる「大正教養主義の雰囲気にどっぷり浸かってい育った」という。(122頁)果たしてそうであろうか。わたしは「大正教養主義」とは、「主義」とか「思想運動」というよりも、第二次世界大戦以後でいうなら「太陽族」の時代というように、一種のファッションであると考える。従って、「大正教養主義」の時代とは何時から何時までの期間というように明確にその前後の時代と区別できないが、「太陽族」の時代が石原慎太郎の芥川賞受賞作品「太陽の季節」(1955年)の出版をメルクマールとするように、一応、1914年(大正3年)に出版された阿部次郎の「三太郎の日記」から軍国主義が台頭しはじめた頃までと考える。具体的には1931年(昭和6年)の満州事変の時期である。
「太陽族」が湘南地方の一部の金持ち階級の若者に限定された風俗であるのと同様に、大正教養主義というファッションも、当時の高等学校の学生を中心とするもので、羽織袴に角帽と高下駄という奇妙な組み合わせのスタイルに象徴される。彼らはこのスタイルで青春を謳歌し、粋がっていた。ところが、1928年(昭和3年)の東大新人会、京大社会科学研究会に解散命令は、一応マルクス主義に対するものであったにせよ、大学に対する思想弾圧が顕わになったということで、冷や水をかけられたような経験をしたことだろう。華やかであった大正教主義も終わりの方では自由主義とマルクス主義と絡みあって、かなり曖昧になっている。1930年代に入ると、世相は国家主義が色濃くなるので、昭和6年の満州事変を一応終わりのメルクマールとする。問題はこの1914年から1931年までの15、6年の時期を何歳で通過したのかということ、またどういう教師と出会ったのかということで、大正教養主義というものの受け止め方がかなり異なってくる。
村上氏の父親が1900年(明治33年)生まれということなので、まさに中学校から高等学校の時期がそれに重なる。しかし、1908年(明治41年)生まれのわたしの父親などや、あるいは1912年(大正元年)生まれのIK教授と比べると、村上氏の父親は「明治人」という雰囲気を持っているように思う。
わたしの父の場合を少し考えてみる。父は、東北の農村の末っ子として生まれ(1908年)、都北の農業学校を卒業した。普通ならば、そのままの百姓になるところであろうが、病弱ということもあって、役場の見習いのような仕事をしていたらしい。その頃、縁あってキリスト教に触れ、洗礼を受けた。わたしが成人した頃、時々、父は青年時代に高山樗牛に心酔していたらしいことを話していたことを思い出す。生意気なわたしにとって、父と高山樗牛とのアンバランスから、あまり真剣に受け止めていなかったが、考えてみると、高山樗牛との触れ合いにおいて、キリスト教に興味を抱いたのかとも思う。たとえば、樗牛の「美的生活を論ず」(明治34年)などを読むと、父の生き方というか価値観の根底にあったものが見えてくる。父は高等学校にも無縁であり、決してエリートではなかったが、当時の農村の平凡な文学青年であった。従って、大正教養主義の影響をほとんど受けていなかったと思うが、少なくとも都会から流れてくる当時の雰囲気は十分に受けていたと思う。そのチャネルとなったものは、教会であったと推測する。父は1932年(昭和7年)、国策にのって、満州に渡る。手引きをしたのは教会であった。「開拓」と言っても、「開拓伝道」であった。ともかく、満州に渡り、満州国の公務員となり、満州建国に専念し、1941年(昭和16年)「満州国建国功労賞勲八等」というものを授与される。不思議なことに、当時、6歳であったわたしもかすかにそのことを覚えている。よっぽど両親はそのことを誇りに思っていたらしい。父の仕事は、新京(長春)の公園の建設ということで、最後の役職は「児玉公園」の園長であった。後に、「児玉」という意味を知り、不快になったことを思い出す。もちろん、当時はそんなことは知らなかった。父のイメージは天下国家を論じる「明治のクリスチャン」というよりも、争いを嫌い、家庭を大切にする「大正のクリスチャン」ということで、わたしは何かもの足らなさを感じていた。
同じ大正教養主義といっても初期のそれは明治の色彩がかなり濃厚であり、末期になるとかなり近代リベラリズムの色彩が強くなる。いうならば、大正時代というのは明治の武士道から近代リベラリズムへの転調(グラデーション)の時期である。
わたしがこのことにこだわる理由は、「規矩」という言葉と、大正教養主義とのギャップでを感じるからである。大正教養主義とは、明治の武士道、あるいは「規矩」を超克しようとする思想的運動ではなかろうか。その意味では、大正教養主義とは封建的な社会倫理からの自由・解放であり、家社会からの独立、個人主義の確立の運動である。普通、大正教養主義とは別名、大正リベラリズムと呼ばれる。「大正教養主義」という言い方が似合う時代から「大正リベラリズム」とカタカナで表現するのが似合っている時代へとグラデーションする。ついでに、付け加えると、大正教養主義の影響を受けた人々が一人前の大人になった頃に作り出した文化が「大正モダニズム」ということも出来るであろう。この転調は思想的にいうならば、封建的なものから自由主義へのというように表現することもできる。ちなみに、羽仁家によって自由学園が創設されたのは1921年(大正10年)である。まさに、「自由=リベラリズム」ということが、時代のキイタームであった。
村上氏は、父親は倉田百三も阿部次郎も「似非、偽物」だという判断を持っていたのではないか(144頁)と述べているが、これらの書籍が世に出た頃には、もうすでに15歳を越えていたであろう人には、そう感じたであろうことは十分に想像できる。このような意識は、明治人の教養を十分すぎるほど身に着けた人物が、大正リベラリズムに対して抱く危ぶむ意識であろう。なぜ、彼らは危ないと感じたのだろうか。昭和の時代を生き、平成の人々に何かを伝えなければならないと感じている者にとって、このことは明らかにしておかなければならない。要するに、明治から大正へと転調する際に、獲得したもの何か、その際に失ったものは何か、それがわたしたちの課題である。(続く)


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